左近家の人々・2
ソファから立ち上がれない俺が呆けていると、人美ちゃんが紅茶を入れなおしてくれた。暖かい湯気が立っているそれを有り難く頂戴する。
そういえば今はまだ暑さが残っている季節なのに、俺は喜んで暖かい飲み物を飲んでいる。気が付いた瞬間、俺はでっかいくしゃみをしていた。
「え、なに、ここ寒い?」
呟くと、小夜子ちゃんが変な顔をした。
「冴羽さん、今頃気付いたの?ここ、標高が高いから寒いんだよ?」
「え?標高?」
京都って市内の中に標高差があるのか?すごいな。
「そんな、ジャージ一枚では風邪を引きますね。…お風呂に入ってきたらどうですか?着替えご用意いたしますよ?」
「いや、俺帰るよ?」
二人に心配かけちゃうし。
あ、そうだ。連絡しとかないと。
そう思ってスマホを出すが、ロック画面の上に出ているアンテナは、圏外、という文字に変わっていた。
え。ここ圏外ですか。
どうしよう、ほんと、早く帰らないと。
「あんた誰?」
小夜子ちゃんとさして歳が変わらないだろうと見える学ランの男の子が俺を不審そうに見ていて、その後ろから来たジャケットを着ている皆よりは年長な男が、二人してリビングに入って来た。
「あ、兄さん。薬丸。」
ゲーセン行ってた子か。
人美ちゃんが兄さんって言う事は、この人が長男かなあ。
五人兄弟って、今時にしては子だくさんな家だな、左近家。
「その人は?」
それは聞かれますよね。
「あたしの迷子に付き合ってもらったの。」
「あ、あの、道がふさがってしまったから待って頂いたのですが、もしや。」
人美ちゃんが困ったように、お兄さんに聞いている。
あ、なんか、嫌な予感。
「…ふさがった。明日の日の出までは通れないぞ。」
え、まじですか。
なに、その集中工事っぷり。どれだけ急いでるんだよ。
「……ごめんなさい。冴羽さん。その。」
人美ちゃんが心底困ったように呟く。
ええと。
「…他に帰る道ってないんだっけ?」
俺が言うと、あたるくんが肯いた。
「悪いが、ここに繋がる道はあれ一本しかない。明日の日の出までは通れないだろう。」
「まじか…。」
朝まで帰れないのか。
俺は眉が下がって困り顔になるのを止められない。すると、さすがに状況を読んだのか、お兄さんが頭を掻きながら俺に軽く頭を下げた。
「悪いな。泊まっていってもらえるか?父には俺が許可を貰ってくる。」
「え、お父さんに断りなしに泊めてもらうの悪いから、俺も挨拶するよ。」
そう言うと、小夜子ちゃんと人美ちゃんがすっと息を飲んだ。
え?
俺が見ると二人とも、首を横に降る。
特に小夜子ちゃんはブンブンと凄い勢いで降っていた。
…もしかして、頑固おやじさん系?
「ああ~…父はちょっと変わってるから、良いて言ったら部屋に入ってくれ。」
「お、おう。」
自分の子供に変わってるって言われるお父さん。ちょっと興味あるなあ。
俺の父親は、普通の人だったし。
だからこんな平凡な人物が生まれてきているんですがね。
「おい、あんた。また何か落ち込んでいるのか?忙しいやつだな。」
何で気づくんだよ、あたるくん。
俺がビビっているとあたるくんは肩を竦めて。
「分かり易いんだよ、あんた。」
そうですか。
今の生活でことごとく夜行に読まれている俺としては、反論が喉にも上らない。
でもさすがに、今日の事は夜行も読めないだろう。
ピタリと読んで、心配しないでいてくれるといいんだけど。さすがの夜行さんもそれは無理だよなあ。
お兄さんの名前は、親次くんらしい。大学生だそうだ。
長男なのに、親次くん?
「小夜子が迷惑をかけてすまないなあ。」
「え?いやいや、こっちこそ面倒を掛けちゃって。」
「面倒じゃないけど、いいのか?」
「何が?」
俺が聞くと、親次くんは苦笑を浮かべた。
「冴羽さんにも、仲間が居るんだろう?」
「…うん。」
「心配してるんじゃないか?」
「でも帰れないだろう?」
俺が言うと肩を竦める。多分肯定だろう。
連絡したいのはやまやまだけど、通じないものは仕方ない。
二階の奥にお父さんの部屋があって、ノックをして入っていった親次くんを待って、俺は廊下に立っている。
薄暗い廊下はやっぱり格調高いけど、何だか静かすぎて落ち着かない。
ミサちゃんの家も静かだけど、此処はまた違う。
何だろう、何か違和感が。
「冴羽さん、どうぞ。」
ドアが開いて、親次くんが手招きをする。
ドキドキしながら入ると、そこは大きな書斎になっていて。奥の大きな机の手前に、安楽椅子に座った男の人がいた。
なんと言えばいいんだろう。
美形だった。
五人の父親とは思えない若い顔で、後ろでシノワに縛った灰色の髪が額にひとふさ掛かっているが、それもその好奇心の強そうな褐色の双眸を隠すことは出来ない。
鼻筋も通ったどこか北欧の雰囲気がする顔立ちは、子供たちの誰とも似ていなかった。
「え、ええと。すみません、俺、冴羽慎一郎と言います。その、小夜子ちゃんに連れられて図々しくもお邪魔しちゃったのですが。」
「ああ、聞いている。」
その声は、静かで柔らかい。
笑った顔にはさすがに皺が有ったが、それも彼の品位を下げるものではなかった。
何だよ俺、おじさま評論家みたいじゃないか?
「冴羽君か。…本名かな?」
「え?あ、はい。」
不思議な質問をされたと思った。
けれど。
「術者と聞いたが、本名を名乗るとは思わなかったよ。」
「え?」
俺は同居している二人の顔を思い出す。
二人とも本名を名乗ってくれたけど、それって変なのか?
「…術者というのは常に己が身を守るため、術者としての「被名」を名乗る。妖魔や霊異体、他の術者から身を守るために。」
「そうなんですか…。俺はまだ、そういうのは持っていなくて。」
そんな話も初めて聞いた。
ほんと、夜行って肝心な所は何も言わないから。
「君の知り合いの夜行くんも、「被名」だろう。」
「…え?」
え?
夜行は苗字まで名乗ってくれたけど、それでも本名じゃないんだろうか。
俺が驚いた顔をしていると、お父さんがクスッと笑った。
「なに、普通の事だ。さして驚く事ではない。あまりに「被名」を名乗り過ぎて、自分の本名を忘れる者も居るぐらいだ。」
「それはちょっと、怖いですね。」
俺が言うとお父さんがにこりと笑う。
「そうだな。己の本質を忘れるなど、愚か者の所業だな。」
彼の声は心地が良い。
それに俺の知らない事を教えてくれる。
今日、小夜子ちゃんに縁を結べて良かったな。知らない事を知れるのは楽しい。
夜行のは修行というよりは苦行だったから。知りたい事や知らなければならない事を教えて貰ってないのは、いささか不満だ。
俺の顔を見て、お父さんが笑う。
「では、礼には礼で返そう。私の名は暁と言う。」
後ろで親次くんのヒュッと息を飲む音がした。
「と、父さん、それは…。」
酷く驚いたような声。
振り返って親次くんを見ると、血の気の引けた真っ青な顔をしていた。
え。
俺が聞いちゃまずかったのか?
「なあに。彼が本名を名乗ってくれたのに、私が名乗らないのは義に反するだろう。」
「あの、俺、聞いちゃまずかったんですか?」
俺が聞くと、暁さんはちょっと意地悪く唇を引いた。
「なに、そんなに大袈裟な事ではない。本名というのが術者にばれれば、その命を握られたのも同然というだけの事だ。」
「はあ!?」
俺のでかい声に、暁さんがフフッと笑った。
それは、不味いんじゃないだろうか!?
だってこの人どう見ても、すっごい高位の術者だし!?
俺なんかが名前を教えるのとは訳が違うだろう!?
けれど、暁さんは不思議な笑みをたたえたまま俺を見るだけで、何も言わない。
俺は何だかでかい声を出したのが恥ずかしくて、俯いてしまった。
夜行とは全然違う術者。
目の前にいる人は、俺みたいなひよっこにも丁寧に解説をしてくれる。
多分、聞けば夜行だって教えてくれるだろう。
けれど俺は何にも知らないから、そもそもの質問する項目が分からないのだ。
だけど夜行はそれを俺に求めていて。
夜行は天才だから、凡庸な俺のあがきなんて分からないのかも知れない。
それならば。
「…あの、暁さん。」
「何だい?冴羽君。」
「…あの、図々しいお願いがあるんです。」
「ふむ、言ってみなさい。」
本当に図々しい。初めてあった人に。
でも、これも、縁というのなら。
「あの、俺に…。」




