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「そ、そんな、たくちゃんは、頭いいんだよ! 僕より、ずっと。大学だって、啓徳大目指しているんだ。絶対、今度こそ大丈夫なんだから!」
なっ、バカ、何を言い出すんだ。いきなり大声を出す千尋に、思わず硬直してしまった。怒鳴られた同級生は、一瞬鼻白んで俺と千尋を交互に見て、これ以上ないってくらい、にやりと片方の口の端を上げた。
「へええぇぇ、君、啓徳大目指しているの? せっかくアタマがいいんなら、付属の啓徳高校に入ればよかったのに。推薦枠があるから、その方が楽に入れるんだよ? 知らなかったの? 啓徳大を目指しているのに、わざわざ蓬泉に入るなんて、Mなのかなー?」
さすがにイラッときた。目の前の勝ち誇ったようにげらげら笑っている男にじゃなく、自分の失言に気付いたらしく、怯えたように蒼ざめて言葉を失くしている千尋に。「今度こそ大丈夫」なんて、受験で失敗しましたという追加情報までご丁寧にありがとう。だがな、それが真実だからといって、誰にでもベラベラ喋らなきゃいけないわけじゃないだろう。
「ご、ごめん」
縋るように小さく、震える声で言う千尋に一瞥をくれて踵を返し、改札へ向かった。相手にするのもバカらしいのは、コイツも一緒だ。人生の貴重な数秒を、バカにかかわって潰す必要はない。俺は非効率的な事が嫌いなんだ。だいたい、Mでもないし。
「たくちゃん、あの」
「立花君、参考書見に行こうよ。物理の先生が、見ておいた方がいいって言っていたやつ」
俺を追っていた千尋が、呼びかけられて反射的に振り向いて足を止めた。
「いけよ。同じソーシャル・スケールのヤツとつるめばいいだろ」
俺は足を止めずに早口でそう告げて、学生が一気に押し寄せる改札を、人波に乗ってすり抜けた。あいつと本屋でもどこでも行けばいい。どっちにしても、人を押しのけてまで前に出る事など絶対にできない、とろくさい千尋は、立ち止まって待っていてやらなければ俺を追って来られない。二番線のホームへ降りる階段の途中で、自分の乗る電車が、間もなく到着するというアナウンスが流れた。流されるままに階段を下りると、降車客を吐き出し終え、入れ替えに人々を飲み込み始めた列車が見えた。暗い曇天の空から雨粒が落ちてきて、その屋根を、窓を濡らしている。不思議に柔らかく明るい車内に吸い込まれるように踏み込んだ時、背後でドアが閉まった。近くの鉄製のバーを掴もうと数歩進み、見下ろすと、傘から落ちた雫が小さな水たまりを作り、ローファーの足跡が濡れて残っていた。発車のメロディの後、動き出した列車のドアから無意識に外へ視線を移すと、車内の明るさに慣れた目に、空いたホームは、妙に物悲しく寂れて映った。速度を増す車窓を、銀色の雨粒が斜めに流れる。その向こう、電車に背を向けてホームを後にする人の群れに逆らうように、泣きそうな目で列車を見送る千尋の姿が見えた。
普段よりずっと早い時間にベッドに入った。といっても、眠気が訪れる気配はなく、自室の見慣れた天井を見上げていた。バカは罪だという思いと、千尋には一片の悪気もなかったんだろうという思い。というよりも、あの千尋が、どんな辛辣な言葉をぶつけられても、言われっぱなしで曖昧に笑ってごまかすか、泣くしかできなかった千尋が、俺のために級友に言い返していたという事実。それだけ必死だったのだろう。それを、置き去りにしてしまった。深く、苦い溜め息を吐く。千尋だって、もう高校生だし、置き去りとはいっても毎日通っている駅で、それで何か困る事があるわけじゃない。けれど、車窓越しに一瞬見えた千尋の姿が何度も蘇って俺を責めた。どうする事が正解だったんだ。生産性のない、不快な事柄を切り捨てただけじゃないか。ぎゅっと目を閉じると、カーテン越しに、ひときわ強くなった雨脚がパラパラと窓を叩く音がした。明日のクラスマッチ、屋外競技、大丈夫だろうか。