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門扉を閉め、自宅の方へ数歩進んで振り返り、千尋の部屋を見上げた。
うーん、まいったな。千尋が熱を出すのは、わりと頻繁にある事だし、だいたいはそんなに重篤にならずにすぐ下がる。まあ、今回も然程心配するほどではないのだろう。けれど、今頃の時期に出る熱は、長患いになる事があったはずだ。年内は会えないのかもしれない。ちゃんと謝ってすっきりと正月を迎えたかったんだけどな。
自分の勝手ばかり言っていてもしょうがない。帰って宿題でもするか。うだうだと考えながら、自宅へ戻った。
その日の夜、千尋から、会えなくて残念だったと送られて来たのをきっかけに、何度かメールのやり取りをしたけれど、結局、年内だけでなく、冬休みいっぱい千尋と会う事はできなかった。
冬休み中は、正月の数日以外、予備校の冬期講習を受けて過ごした。家族と塾講師以外とは会話すらない日々を過ごすうち、モヤモヤは俺の中で黒く冷たく固まっていった。
佐倉はなんだかメンドクサイし、千尋に八つ当たりしてから一年近く経っていて、あいつは別にもう忘れてしまっているみたいだし、わざわざ謝罪を口にするのも気まずいし。自分一人が空回りして、いつか謝らなきゃと気にし続けているのは、かなり辛いものがあった。
もう、このままなあなあにしてしまおうかという諦めと、簡単に投げ出そうとする自分への失望。
こんな、泣けるくらい情けない気持ちで正月を過ごした事はない。
千尋からは、あけましておめでとうというメールだけが来た。いつ会えるのかと催促するのも気が引けて、今年もよろしく、とだけ返信した。
新学期が始まって、クラス編成や席順がどうなるかと不安があった。教室に入ったら約半数が元二組のヤツラ、なんて、冗談じゃない。
けれど、さすがに学校側もいろいろ考えたのだろう、いや、もしかしたら似たような状況の年もあったのかもしれない。少なくとも特進コースでクラスが変わったのは、一組から五組に移動した神崎だけ。つまり、クラスの人数が一組は一人減って五組は一人増えたって状態。
席順は、これまた妙な事になったが、大きく成績を落として本来クラスを出るはずだった奴らはそのままの席で、同じ組の中の移動に留まる成績の奴は、その該当の席に、って事らしい。
冬木は二学期の席にほぼ近いクラスの中央付近の席だったし、早瀬は俺の窓際隣に移動したし、佐倉は俺の後ろの席になった。
一組全体に、え、なんで? という戸惑いは当然あったが、二学期とほぼ変わらない雰囲気にほっとする方が大きい。学年末の三学期など、落ち着いて過ごせた方が断然いい。きっと、学校の今までの歴史の中で、これがベストだと判断された結果なのだろう。
佐倉とは、席が近くなったというのに、相変わらず二人きりで話すチャンスはなかなかなかった。
気まずさばかりが増す。まさか、悪気なく、俺がホモだとかいじめられているだとか、言いふらしてはいないだろうな? 背後に佐倉の存在を感じるたび、勝手に威圧を感じて兢々(きょうきょう)としていたから、精神の疲労は半端なかった。
イッパイイッパイになって、無理やり謝ろうとまでした。
どういう事かというと、落ち着いて考えれば、みっともない事この上ないが、佐倉が黒板を見辛くなるように、わざと視界を遮っていた。「黒板が見え難いから、ちょっとずれてくれる?」と言ってくれさえすれば、ごめん、と言える、と。
けれど、佐倉は何も言わなくて、自分でも自身の行動にむかつくが、今さら席を戻すのも、よくわからないけれど――プライドが傷つくような? 負けるみたいな気がして、変に意地を張り、そんなバカバカしい嫌がらせをする自分に苛立つという悪循環に陥っていた。
もう嫌だ、と思った。毎日、毎日。見えない何かに縛られたように息苦しく、佐倉の前で友人と談笑するのも気が引けて、休み時間は二組の香田の所を訪れる事も増えた。
かといって、うまく謝る事すらできない。家に帰れば、逃げていても始まらない、明日こそ、と思うけれど、登校して席に着くと、心が冷たく、硬くなった。自分のせいなのに、内心、佐倉に逆切れをしていた。日々は、ただ過ぎていった。
何の変哲もない、昨日と変わりない日の午後の授業中だった。
外は寒風が吹いているけれど、窓越しの空は穏やかに晴れて暖かく、眠くなってしまうような気候だった。
ふいに、本当に突然に、ああ、もう許そう、と思った。
何を? 佐倉を? 自分自身を? それとも、千尋を?
わけがわからない。許すって、具体的にどうやって。授業の担当である椎野先生の、ゆっくりとした声のトーンは教室中の空気をゆるゆると廻って、まるで催眠術のよう。
そうだ。あと一回、佐倉が俺に、ごめんと言ったら、許そう。
具体的にどうするかは、また後で考えたっていい。時間が経ちすぎてしまった事など、一旦、全てをリセットしよう。
何かが、体から抜けていった。じーんと、あたたかく血液が巡る感覚。こんな感じは、すごく久しぶりだ。心臓が心地よく鼓動する。
そうだ、こんがらがった呪縛を解き放って――と、そこまで考えた時、視界の隅、机の角に、白い何かが突如として現れた。
それは誰かが投げたらしい小さく折りたたんだ紙片で、どこから来たのかと周囲に気取られないように伺うと、背後から佐倉が覗き込む気配を感じた。先生の動きをちらりと意識して紙片を手元に寄せると、佐倉はほっとしたらしかった。
一体なんなんだ。
授業中に投げ文なんて、真面目な佐倉にしては珍しい事もあったものだ。やっと、黒板が見えない文句でも言うつもりになったのか。紙片を手の中に隠して音をたてないようにそっと開くと、「ごめんね」と書かれていた。
ちょ、なんだよ、このタイミング。
驚いて思わず、威勢よく背後を振り返ってしまった。佐倉の見開いた目が、俺からすっと斜め上に逸らされ、その方向から降りてきた手が、俺の持っていた紙片を取り上げていってしまった。
見上げると、紙片の文字を見た椎野先生が、呆れたように俺と佐倉を見て、
「どんだけ仲良しなんだよ、女子か」
と、声を掛けて教壇へ戻っていった。かあっと自分の顔が赤くなるのがわかった。窓から差し込む陽射しが、チリチリと痛い。
「お前のせいで俺まで怒られただろ」
「う、うん、ごめん」
恥ずかしさから小さな声で佐倉に文句を言うと、困ったように眉を寄せ、心底すまなそうな表情をして、同じトーンの声で応えた。
なんで謝るんだよ、と続けようとしたが、椎野先生のワザトラシイ咳払いに口を噤むしかなかった。クラスの連中も数人、クスクスと笑っている。仕方ない。こんなのは、さすがに予想外だったけれど、自分で、許すって決めたんだ。
次の授業の前、少しだけ机を窓の方へずらした。バカバカしい嫌がらせも、もう何の意味もない。それに気付いたらしい佐倉が、すぐにありがとう、と言ってきた。
全く、とんだお人好しだ。礼を言われる筋合いがないどころか、こっちが悪かったのに。
けれど、心底喜んでいるらしい佐倉の様子が、素直にうれしかった。きっと、今度こそ、いろんな事がうまくいく。引っ掛かっていた物が熔けて、アルゴリズムが繋がって、コトコトと動き出す。
今日、千尋に連絡しよう。そして、ちゃんと謝ろう。そんなに難しい事じゃない。だって、俺と千尋なんだから。
自分でそう考えておきながら、意味不明すぎておかしくて、ふっと口元が緩んでしまった。




