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P13

 一日のノルマを終えて、絡みつくような真夏の空気が茜に染まる電車で帰路につく。車内に金色の粒子が満ちて、窓枠の影が斜めに長く、黒いラインで空間を区切っていた。

 ギリギリと締め付けられるような虚しさを感じたとしても、投げやりになったりはしない。放り出して立ち止まるくらいなら、考えるのをやめる。俺が脱落するのを待っているヤツラを喜ばせる必要はない。迷うなら、せめて後悔しないようにできる事をするべきだ。進み続けながらだって、こんな風に、例えば電車の中のふとした時間に考え込む事はできる。


 いつも通りのアナウンスに促されて電車を降り、階段を上り、改札を出ると、アスファルトからは、日中に溜め込まれた熱が立ち昇る。進む先の人の流れが、とある場所で不自然に湾曲していた。その場所に近付き、原因を知ろうと窺うと、地面に蝉の死骸が落ちていた。いや、良く見ると、もがくように足と羽を動かし、時折、ジジ、と、かすれた音を立てる。

 目的は達したのだろうか。悔いも、心残りもないのだろうか。

 どんな思いで、通り過ぎていく人々を、その先にある遠い空を見ているのだろうか。

 少し速度を落としていた歩みを速めてその場から立ち去った。俺は、どこへ向かっているのだろう。何のために、歩き続けているのだろう。いつか、あの蝉と同じように、俺の側を不快そうに通り過ぎ、離れていく人々を見送り、空を仰ぐ日が来るのかもしれない。


 その日の晩飯はカレーだったので、おかわりをして食べた。

 八月も半ばに差し掛かっていて、もうすぐお盆休みで、そこから後は学校の講習もなくなる。なんとなく、庭に出た。すっかり真っ暗になっていると思っていたけれど、西の地平は、まだオレンジ色を残していた。

 ゆっくりと庭を横切って、敷地の端から数件先の家を見上げた。千尋の部屋は、電気が点いておらず、暗かった。まだ帰っていないのだろうか。このまま、ずっと話さないまま、離れていってしまうような気がした。もう子供じゃないから。お互い、進むべき道の分岐点に差し掛かっているところなのだ、と。

 一体、いつまでこんなに暑いんだろう。今年の夏は、あっという間のようでもあり、長過ぎるような気もした。

 不意に目の奥がじんとして、踵を返して庭をうろうろした。木犀の木の下に、また、蝉が仰向けに落ちていた。今度こそ死んでいるのか、微動だにしない。

 お前が、最後に見たものは、なんだった? 心の中で問いかけても、何のリアクションも返って来ない。焦れて、つま先で軽く突いてみた。


 ジジジジジッ。


「ふおぁっ!」


 いきなり復活して俺に向かって飛んできた蝉に、思わず変な声を出して大袈裟に避けてしまった。しかもヤツは、必死に避けたのにも関わらず、俺の額の右端あたりに激突して、相変わらずジジ、ジジと非難するように鳴きながら、存外元気そうに、隣家との境界の柵を越えて夜空に吸い込まれていった。

 やべえ、マジでびびった。心臓、ばっくばくだし、デコ痛いんだけど。

 肩で息をしながら呆然と蝉の消えていった空を見上げていると、家の方から、ぷ、と、声が聞こえた。


「拓実、あんた、なにやってるの?」


 くっそ、リビングのサッシ、きちんと閉めておいたのに。何見てるんだよ。

 笑いを堪えきれずに、クックと言いながらカーテンを引く母親を恨めしく睨みながら家へ戻った。




 と、いう出来事を、翌日の講習の合間に思い出した。


「蝉ってさ、死んだふりして急に蘇るよな」


 席に着いたまま振り向き、話している途中でそう言った俺に、後ろの席についていた香田は、あー、あるある、と何度も頷いて同意した。


「またこれがさあ、完全に死んでみえるんだよね。

 前に、ベランダに出たら蝉が落ちていてさ、どうやって処分しようかと思って、しゃがんだらいきなり飛び立って。尻餅ついて後頭部で網戸破っちゃったんだよ」


「それは、ひどいな。蝉に賠償請求しないと」


「ホントだよ。親には自分で直せって言われるし、直るまで窓開けっ放しにできないし」


 真顔でうんざりしたように言う香田に、思わず笑って、不満と疑問を混ぜ合わせ、会話を続けた。


「まだ生きていて、飛んでいく元気も残っているのなら、なんで木にとまるなり、ちゃんと羽を上にしているなりしないんだろうな」


「それは、あれだ、全力なんだろう」


 急に香田の口調が変わった気がして、ん? と、表情を窺った。


「全力?」


「うん。

 鳴いて、鳴いて、急に意識が途切れるくらい鳴いて、それか、夏の空気の中を限界が来るまで飛んで、ぱたっと落ちて、そのまま仰向けになって空を見て。

 ちょっと休もうかな、なんて意識したり、木にとまろう、なんて丁寧に生きたりする余裕もないくらい、全力なんだよ」


 なんてな、と、笑う香田に、笑みを返した時、次の授業の先生が教室に入ってきた。

 

 配られたプリントを解きながら、頭の中には香田の言葉があった。立ち止まる事もしないくらい、全力、か。周囲や、自分がどうみられているのかなんて、気にしていられないんだろうなあ。いや、そんな事を気にするのは、人間くらいか。

 人間以外の虫や動物たちは、自分の寿命がどれくらいか、きっと、本能的な何かで知っているのだろう。本当の寿命が来る前に、外敵に捕食されたりして命を落とす確率が高い事も。

 へその緒のように口針を木の根に刺して、胎児のように丸くなる蝉の幼虫は、夢をみるのだろうか。遺伝子の中に書き込まれた、空の記憶の夢を。

 瞠目して、その夢想を頭の中から追い出す。蝉の心情に思いを馳せるより、今は、プリントの回答欄を埋める事の方が重要だと、自分に言い聞かせて目を開く。少し茶色を帯びた、ざらりとした紙の上、シャープペンシルを走らせる。クーラーが効いているから、窓は閉じられ、薄いカーテンが引かれている。外に意識を向けると、どこかの運動部の練習する声と、蝉の声が聞こえた。

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