便座カバーに依存する勇者の道筋を主に便座カバーメインでまとめるとこうなった
――暖かさを感じたことは、ありますか? そう問われたなら、俺は『あった』と答えることができる。
赤ん坊の時抱いてくれた、母の腕の暖かさは安らぎを与えてくれた。
幼い時手を繋いでいた、父の手の暖かさは怖さを消してくれた。
小学校に通っていた時に触れた、小さな妹の肌の暖かさは守る意思を抱かせてくれた。
家族が与えてくれたそれら全ては、今となっても大事な思い出だと、俺はそう思いながら平凡でもどこか満ち足りたような生活を過ごしていた。どこか親近感を覚える友達を数人ほど持って、それほど時給が良いわけでもないアルバイトをこなしていって。
だけどそんな生活は、簡単なきっかけであっさりと壊れてしまった。
大学を出た後の俺に待っていたのは、世間の厳しい洗礼だった。在学中の就職活動はまったくと言っていいほど結果を残さず、卒業後一年間もそれでもなお諦めずに就職活動を続けていたのだが、返ってきたのは俺の落選を告げる言葉だけだ。
その返事を聞き続けている内に、いつしか生まれてきた諦めという感情は急速に膨らんでいって、俺の中から前に進む意思を追い出してしまった。無職という現状に満足し、似たような境遇のネット上の同類達と傷を舐めあう。そんな負け組としての生活を受け入れるのにも、何も疑問を抱かない暮らしを選んだのだ。
その頃からだろう。暖かさというものを感じられなくなっていたのは。
老いてきた母の姿を見るだけで、心臓は荒波が立つようにざわめき始めるようになった。
父の手は、いつしか俺に危害を加える恐怖の象徴となった。
妹は、俺に姿を見られることも嫌うようになった。
友も、職場も、家族との縁も失って。そうして俺は――独りになったんだ。
「――うっ…………ふぅ……」
今日もまた、己の中に溜まる悶々とした欲望をただ一度の行為によって晴らす。それは雌雄を問わず、人類が進化を続け、生命を育んできたこの歴史の中でも連綿と続けられてきた当然のことだと、スッキリした感覚で俺は考える。
ただ、今日は不思議にも今までのことを思い出しながらやるという、普段はあまりやらないようなことをしていた。誰かが「いきりたったモノを収めるのには家族や親の顔を思い出すといい」というようなあまり得をしない情報を書き込んでいたが、まったく持ってその気配はない。むしろ、つい最近の妹の姿を思い出すと更に元気になってしまったような気がするが……まぁ、それは余談や蛇足だろう。
しかし過去のことを振り返ったせいでか、やけにハッキリと頭の中に残った言葉があった。
暖かさ。それは友人と離れ、職も持たず、家族にも避けられるようになった俺には無縁のものだと思っていた。だが一人……いや、一つだけ。俺に暖かさを感じさせるものはあった。
俺はそっと、自分が座っている便座――を覆うそれに触れた。少しごわりとした、だけど決して不快ではない手触り。その姿を彩るライトブラウンのカラーは、この狭い空間に小さな潤いを与えてくれる。
それはシンプルな便座カバーだ。U字型で、何の変哲も無い布製の便座カバー。だけどそれが俺には、やけに安心感を与えてくれる。それは多分、何もかもを失ったと思っていた俺が駆け込んだトイレで、何も語らずにただ黙々と、尻と心を温めてくれたのがこの便座カバーだったからだろう。俺が腐りきらずにこうしてただ漠然とでも生きていられる理由は、この便座カバーの温かみに気付いた時から、それが支えとなっているからだろう。
そんなことを考えながら、白く汚れたトイレットペーパーを流すために立ち上がる。
だがその折、ふと目に入った便座カバーのことがやけに気になって。
「……もう、お前は俺の一部って言ってもいいよな……」
無意識に、他人が聞けば今にもドン引きしそうな台詞が口を衝いて出たその時。
――突然だった。地に足が着かず、頭は軽く横殴りにされたような、そんな感覚が突然俺に襲い掛かってきたのは。視界が落ち着かず、よく見えない。地面はどこだと足を動かすが、何も踏めずただ空を泳ぐように足がバタつくだけだ。
そうしている内に、第二の異常な事態が起こる。視界に突然、閃光が入り込んできたのだ。目はぼやけているが、光だけは正常に入ってくるようでつい目を閉じて顔を逸らしてしまう。
そして一瞬だけ、何かに強く引っ張られたと思うと、すぐにその引力のようなものは消えた。そして浮遊感からも解き放たれ、やけに冷たく硬い地面に尻から落ちた。臀部を走る痛みに悶絶しそうになったところだったが。
「イアァァァァァァァァ!!」
「イアァァァァァァァァ!!!」
「アイエエエエエエエエ!!!」
などという奇声が周囲から大音量で押し寄せてくるように聞こえてきて、心臓が止まりそうになった。閉じていた目を開けてみれば、そこはさっきまでいた家のトイレの狭さを忘れるような、石造りの広々とした祭壇の上。
ただ一人しか入ることの出来ない聖域と言ってもいいトイレには入れないほどの大人数に、俺は囲まれていた。
俺を囲んでいるのは皆、日本じゃなかなかお目にかかれないような服装を身にまとっている。よくあるファンタジー世界に出てくる神官とか、そういった聖職者のようなローブを一人違わず着込んでいて、顔の全体にかけられた黒い薄布で表情はよく見えない。
周囲には他にも妙な物があるのだが、それ以上にこの状況への理解が追いついていない。周囲には今にもサバトを始めそうな連中がいて、そいつらが囲んでいる祭壇の中央に俺がいて……こうして並べてるとなんらかの儀式で生け贄にされてもおかしくない状況なのだが、それだけは勘弁願いたい。そんな悪い方向への考えが浮かんだからか、俺の中に焦りが生まれる。周囲を見回す動きは早くなり、止まっていた手をただあたふたと動かす。
その手が、何かに当たった。
「…………ん?」
それは、冷たく硬い石の地面より暖かく、柔らかい。そして安心感を抱かせる、布らしき感触を持っていた。そこまでふわりとしているわけではないが、不快にならないゴワゴワ感。俺はゆっくりと、それに目を向ける。
そこには俺の終生の友、魂を預けた相棒、俺を癒す絶対の存在――便座カバーが、存在していた。それを手で掴んで持ち上げる。U字の姿に綺麗に広がったそれを見た俺の心は、水を打ったように静まり、落ち着く。
そうしていると、前のほうから一人の神官が歩いてきた。よく見れば一人だけ小脇に本を抱えているということは、この場で一番偉いのか、それとも逆か。俺の前で止まったそいつに見下ろされるのも嫌なので立ち上がる。身長は俺のほうが高いみたいで、今度は俺が見下ろす形になってしまったが、それを気にする暇も必要も無い。まずはここがどこで、あんたたちは誰か。それを聞くのが先決だ。
「……あの」
「ようこそ、いらっしゃいまし――勇者殿」
先手を取ろうと口を開いた矢先。よく通るハキハキとした声が目の前の男から発せられてかき消される。しかしそれ以上に――
「………………はぁ?」
俺は、勇者という呼び方をされたことで、思考が停止してしまっていた。
○ ● ○ ● ○
そこから先は、怒涛の展開が長期に渡って連続して起こったのでかいつまんで順を追って説明させてもらうとしよう。
まず、よくはわからないが俺は異世界「シウセツカナ・ロウ」に召喚されて、そこの世界の住人曰く、異世界の人間でも伝わってくるほど魔力が高かった俺は勇者なんだとか。それで人類滅亡を企んでるとかいう魔王を倒してくるように、人を騙すのが上手そうな女王様に頼まれて、特に現実世界に戻るつもりもなかった俺はそれをすぐに引き受けた。俺を召喚した国に伝わってきたという宝剣「ベイン・ザ・カーバー」をもらい受け、旅の準備を早急に済ませて俺は一人のかわいらしいシスターと一緒に旅立った。便座カバーを携えて。
その後は旅に綺麗な女戦士が着いてきてシスターと揉めたりしながら森に巣食う巨大な妖魔とかいう化け物を倒したり、女戦士が生まれたという村でゾンビの群れを焼き払ったり、闘技場のある都市で後々一緒に旅をすることになる美しいシーフに出会って華やかな武闘会の裏に隠れた黒い謀略を暴いたり、魔王軍の砦を寄せ集めの軍団で制圧したり、とある邪教の集落でシスターがそこの出身で御子と呼ばれる存在であることを知ったり、女戦士の古巣と聞いた傭兵団全員が魔王によって洗脳させられていたのをなんとかして退けたり、彼我の戦力差が絶望的なレベルの魔王軍に襲われた時に俺達を追ってきたシーフとなぜかこっちの魔法を誰よりも高いレベルで扱えている妹が助けてくれたり、鉱山を根城にしていた竜を倒すために一人の少女が命を掛けてくれたり、海上を支配していた巨大イカを捌いて食べたり、こっちの世界で牛丼を広める活動をしたり、ベイン・ザ・カーバーがその真の力を発揮して魔王城を覆う黒霧をすべて消滅させたり……とにかく、色々な出来事があった。
そしてその間も俺は便座カバーに安らぎを与えてもらっていた。旅の中で始めて迎えた夜、不安で眠れない俺は便座カバーの上に座ることで自分の心の震えを無くした。初めて妖魔を斬った夜、自分のやったことを直視できなかった俺は、便座カバーを抱きしめて旅を続ける意志を固めた。俺の仲間の美少女達の肌を偶然にも見てしまった夜はその悶々とした想いを便座カバーをさする事で鎮めた。
そんな風に俺はいまだ便座カバーが手放せない、便座カバー頼みの脆い精神で旅をしていた。不安や怯え、恐れや悲しみ。それら全てを俺は、あの暖かい便座カバーに吸わせていたのだ。
この世界で最初から一緒でいてくれたシスターよりも。
いつも俺を励まそうとしてくれる女戦士よりも。
心の闇を共有できたシーフよりも。
俺を追ってきてくれたという妹よりも。
何よりも、便座カバーが俺にとっての一番の友であることには変わりはないはずだった。変わることがないはずだった。だけど俺はもう――変わっていた。
この旅の終着点、魔王城の前で野営をしている俺が考えていたのは、便座カバーとの別れだった。便座カバーと別れるというのは、数ヶ月前の俺なら考えもしなかったことだろう。今だって、便座カバーがなくなる事が自分の身が引き裂かれるような想いであるのは変わらない。でも、その痛みを乗り越えたい。俺はそう考えるように、変わっていたんだ。
シスターは生まれや境遇に縛られるのを嫌って、自分の進みたい道を進んでいった。それが家族との対立を選ぶ、茨の道でも。
女戦士は一人の辛さや、仲間との別れの辛さを知っていた。だけどそれを克服しようとしていた。享受ではなく、改善を選んでいた。
シーフは社会の冷たさを感じていたが、それに抗った。たとえその時悪と呼ばれようと、未来に繋げる為に行動をしていた。
そして鉱山の少女は、損得やらを度外視して誰かを助けることができる――“暖かさ”を、俺に見せてくれた。
俺の考え方が変わったのは、彼女達のおかげなのかもしれない。彼女達の見せてくれた人生や生き様が、俺に繋がりを持つ勇気を与えてくれた。便座カバーに逃げていただけの俺では決して持ち得なかったもの。それが得られたのはこの世界に来て彼女たちに出会ったからだ。以前は便座カバーを持っていた俺に「キモッ」としか言ってこなかった妹も「兄貴、最近なんか顔つき変わってきたね」と普通に話しかけてくるようになってきた。
変わろうと思って変わったわけじゃない。だけど確かに、俺は変わった。その結果、便座カバーとの別れを決意することにしたのだ。仮初めの安らぎとの別れ。だけど、数ヶ月前の俺が自分の半身と信じて疑わず、その思い込みが召喚の際にも影響して俺を召喚するだけだったのに便座カバーごと招いてしまうことになったほどの強い想い。
俺が便座カバーに抱いていた想いは、それほどに強い。簡単に別れられるほど軽いことじゃない。
そう思考をめぐらせていると、ある一つの事に気付く。
「……考えてみれば……」
ある事。それは便座カバーへの――これまでを共に駆け抜けた相棒への感謝の言葉を、これまで何一つしてこなかったこと。それに気づいた途端、俺は自分に怒りそうになる。
これまで何度も頼ってきておいて、ただ安らぎを貰うだけしかしてこなかった自分がひどく情けない。仮初めの安らぎだったとしても、それに救われた恩というものならこの旅の中でも数え切れないほどあるというのに。
荷物の中から急いで便座カバーを取り出す。その姿はもうボロボロで、かなり土に汚れている。それは自分がどこまでも甘えていたことを象徴しているようで――ひどく悲しい。
「……ごめんな。本当に、今までお前に、頼りきりで……ごめんな……」
感謝を言っていなかったこと申し訳なさから、すぐに謝罪は出てきた。そして、そのU字のフォルムをくしゃくしゃにしながら抱きしめる。ごわりとした感触から、心が落ち着くような安らぎがやってくる。 だけどなにか、嘘臭い。そう思ってしまう部分が心のどこかにある。
数分間、無言で抱きしめたあとで、便座カバーを胸から解放する。腕の中でくしゃくしゃだった便座カバーが広がって、その姿を見せてくる。
月明かりの下、俺は地面に座りながら、便座カバーを見つめる。夜でもわかるライトブラウンで、U字の形状を見ているうちに、俺は初めてこいつの上に座った日を思い出し、これまでこいつに頼ってきた日々が埋もれていた記憶から溢れる濁流のように流れ出てきた。
その走馬灯のような記憶の映像を眺めていると、自然に俺は呟いていた。
「――ありがとう」
感謝の言葉を。
「本当にありがとう」
自分の中に溜まっていた、曇りのない想いを。
「お前がいてくれたから、俺はここまでやってこれたんだと思う」
自分がこれまで伝えてこられなかった、色々な感情を含んだ言葉を、俺は、全てぶつけた。
「本当に……ありがとう」
たった四回の言葉。だが、その言葉に乗せた想いは、今までこいつに吸わせてきた物より数倍重い。
だから、これで十分だった。俺はそれを言い終えると、荷物に便座カバーを戻して、自分のテントで眠る。
もう俺に、便座カバーの安らぎはいらない。その決意を抱きながら、意識をゆっくり安らぎに委ねた。
そうして俺は――一人じゃなくなった。