第7話 罪
事故から一ヶ月が経った。
リゼットは、壁を伝いながらも自分で歩けるようになった。フィーネは、少しずつ笑顔を見せるようになった。
二人とも、まだ傷は深い。でも、確実に前に進んでいる。
ただ一人——セレナだけが、変わらなかった。
*
「セレナ、朝食を持ってきた」
扉の前で、俺は声をかけた。
返事はない。
いつものことだ。この一ヶ月、セレナは一度も返事をしていない。
「ここに置いておく。食べてくれ」
俺は、盆を扉の前に置いた。
立ち去ろうとして——足を止めた。
「……セレナ」
返事はない。
「俺は、諦めないからな。何度でも来る。お前が出てくるまで、何度でも」
沈黙。
俺は、深く息を吐いて、その場を離れた。
*
セレナの部屋の前に置いた食事は、いつも空になって戻ってくる。
食べてはいるらしい。それだけが、救いだった。
でも、それ以外の反応は何もない。
俺が声をかけても、返事はない。扉を開けようとしても、鍵がかかっている。
リゼットやフィーネが声をかけても、同じだった。
「セレナさん、お願いです。出てきてください」
フィーネが、扉の前で泣きながら訴えたこともあった。
返事はなかった。
「セレナ、いい加減にしなさいよ。あんただけじゃない、私たちだって——」
リゼットが、苛立ちをぶつけたこともあった。
返事はなかった。
カイナも、何度か声をかけていた。
「セレナさん、レイド先輩が毎日来てますよ。ボロボロになりながら、皆のために——」
返事はなかった。
セレナは、完全に心を閉ざしていた。
*
ある夜、俺は宿で依頼書を眺めていた。
高額の依頼。危険な依頼。
最近は、以前よりも危険度の高い依頼を選ぶようになっていた。金を稼ぐためだ。義肢の費用を、一日でも早く貯めるために。
体には、傷が増えていた。
昨日の依頼で負った切り傷が、まだ痛む。応急処置はしたが、完全には塞がっていない。
フィーネに治療してもらえれば——と思ったが、彼女の魔法はまだ安定しない。頼るわけにはいかなかった。
俺の怪我は、俺で何とかする。
そう決めていた。
「……っ」
傷口が疼いた。
無視して、依頼書に目を落とす。
明日は、どの依頼を受けようか。
そんなことを考えていた時——扉を叩く音がした。
「先輩、起きてますか」
カイナの声だった。
「ああ、起きてる。入れ」
扉が開いて、カイナが入ってきた。
その表情は、硬かった。
「どうした」
「セレナさんのことで——」
カイナは、言い淀んだ。
「今日、セレナさんの部屋の前を通りかかったら——声が、聞こえたんです」
「声?」
「独り言みたいな——でも、様子がおかしくて」
俺は、眉を顰めた。
「どんな声だった」
「……『ごめんなさい』って。何度も、何度も——」
カイナの声が、震えた。
「あと、『私のせいで』とか、『私が殺した』とか——」
俺は、立ち上がった。
「行くぞ」
「え——」
「セレナのところに行く。今すぐ」
*
セレナの部屋の前に着いた。
耳を澄ませる。
中から、かすかに声が聞こえた。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……」
掠れた、枯れ果てたような声。
俺は、扉を叩いた。
「セレナ、俺だ。開けてくれ」
声が、止まった。
沈黙。
「セレナ」
返事はない。
「開けないなら、壊すぞ」
それでも、返事はなかった。
俺は、扉に体当たりした。
一度、二度、三度——
鍵が壊れて、扉が開いた。
中は、暗かった。
蝋燭の明かりもない。窓の雨戸も閉められている。
完全な闇の中、ベッドの上に——セレナがいた。
*
俺は、息を呑んだ。
セレナの姿は、変わり果てていた。
頬はこけ、目の下には深い隈がある。髪は乱れ、艶を失っている。
何より——その目が、死んでいた。
かつて、誰よりも強く輝いていた瞳。俺を引っ張り、仲間を導いてきたあの目が。
今は、何も映していなかった。
「……なんで」
セレナの唇が、動いた。
「なんで、来たの」
掠れた声。喉が枯れているのが分かる。
「お前が心配だからだ」
「来ないでって、言ったのに」
「言ってない。お前は、何も言わなかった」
セレナは、俺から目を逸らした。
「……帰って」
「嫌だ」
「帰ってよ」
「嫌だ」
「お願いだから——」
セレナの声が、震えた。
「私を、見ないで」
*
俺は、セレナの傍に歩み寄った。
ベッドの端に腰を下ろす。
「セレナ」
「来ないで——」
「俺は、ここにいる。どこにも行かない」
セレナは、毛布を被ろうとした。
右腕がないから、上手くいかない。左腕だけでは、毛布を引き上げられない。
その姿が——痛々しかった。
「セレナ」
「見ないでって言ってるのに——」
「俺は、お前を見捨てない」
セレナの動きが、止まった。
「何があっても、見捨てない。お前は、俺の——」
「やめて」
セレナの声が、鋭くなった。
「そんなこと、言わないで」
「なぜだ」
「私は——私は、あんたを追放したのよ」
セレナの目から、涙が溢れた。
「私が、あんたをパーティから追い出した。私が——あんたを、守れなかった」
「セレナ——」
「私のせいで、リゼットは目を失った。フィーネは腕を失った。私が——私が、皆を殺したのよ」
セレナは、嗚咽を漏らした。
「あんたがいれば、こんなことにはならなかった。あんたがいれば、撤退できた。でも、私が——私があんたを追い出したから——」
「違う」
俺は、強く言った。
「それは、お前のせいじゃない」
「私のせいよ」
「違う」
「私のせいなの!」
セレナが、叫んだ。
「私がリーダーだった! 私が皆を守るべきだった! なのに——なのに、私は——」
セレナは、崩れ落ちた。
ベッドの上で、体を丸めて泣き崩れた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
その姿は、あまりにも——小さかった。
いつも俺の前を歩いていた背中が。いつも俺を導いてくれた人が。
こんなにも、小さく見えた。
*
俺は、何も言えなかった。
ただ、セレナの傍にいた。
彼女が泣き止むまで、ずっと。
どれくらい時間が経っただろう。
やがて、セレナの嗚咽が小さくなっていった。泣き疲れたのだろう。
「……レイド」
掠れた声が、聞こえた。
「何だ」
「……なんで、来てくれるの」
「お前が、仲間だからだ」
「仲間……」
セレナは、虚ろな目で天井を見上げた。
「私は、あんたを追放したのに」
「それでも、仲間だ」
「……分からない」
セレナの声には、何の感情もなかった。
「分からないわ。あんたが、何を考えてるのか」
「難しいことは考えてない。ただ、お前たちを助けたい。それだけだ」
「なんで——」
「お前たちが、大切だからだ」
セレナは、何も言わなかった。
俺は、立ち上がった。
「今日は、もう遅い。明日、また来る」
「……来なくていい」
「来る。毎日来る。お前が出てくるまで」
セレナは、答えなかった。
俺は、壊れた扉を見た。直さなければ。でも、今夜は無理だ。
「カイナ」
廊下にいたカイナを呼んだ。
「今夜は、お前がここにいてくれ。セレナを、一人にしないでくれ」
「……分かりました」
カイナは、頷いた。
俺は、セレナを振り返った。
「また明日な」
返事はなかった。
でも、それでいい。
今日、セレナは声を出した。それだけでも、前進だ。
俺は、その場を後にした。
*
宿に戻ると、どっと疲れが押し寄せてきた。
ベッドに倒れ込む。
セレナの顔が、頭から離れなかった。
あの、死んだような目。あの、枯れ果てた声。
セレナは、自分を責め続けている。
リーダーとして、皆を守れなかった。
俺を追放したことで、こうなってしまった。
全部、自分のせいだと——そう思い込んでいる。
違う。
お前のせいじゃない。
追放は、俺のためを思ってのことだった。事故は、誰にも予測できなかった。
お前は、悪くない。
でも——その言葉が、今のセレナに届くとは思えなかった。
俺は、天井を見上げた。
どうすれば、セレナを救えるのか。
リゼットとフィーネは、少しずつ前を向き始めている。
でも、セレナは——
彼女を救うには、もっと時間がかかる。
もっと、深く——彼女の心に、寄り添わなければならない。
俺に、できるだろうか。
分からない。
でも、やるしかない。
セレナを——俺の大切な幼馴染を、救うために。
俺は、目を閉じた。
明日も、戦いは続く。
(第7話 了)




