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第5話 慈悲


 事故から三週間が経った。

 俺は、相変わらず彼女たちの元に通い続けていた。

 朝食を届け、昼は依頼をこなし、夕方に戻って夕食を作る。その繰り返し。体力的にはきつかったが、弱音を吐くつもりはなかった。

 少しずつ、変化は起きていた。

 リゼットは、自分の部屋から出られるようになった。壁を伝いながら、フィーネの部屋を訪ねることもあるらしい。小さな一歩だが、確かな前進だ。

 セレナは——まだ、部屋から出てこない。食事は取っているようだが、俺が声をかけても返事はない。

 そして、フィーネ。

 彼女は、三人の中で最も——静かに、壊れかけていた。

   *

「フィーネ、入るぞ」

 扉を開けると、彼女はいつものように窓際に座っていた。

 朝日が、その横顔を照らしている。淡い桃色の髪が、光を受けて輝いていた。

 美しい光景だった。けれど、その目には何の光もない。

「おはようございます、レイドさん」

 フィーネは、小さく微笑んだ。

 その笑顔が、痛々しかった。

「朝食を持ってきた。今日は、卵の雑炊だ」

「ありがとうございます。でも、まだお腹が空いていなくて」

「少しでもいいから、食べてくれ。体力が落ちる」

「……はい」

 俺は、盆を机に置き、椅子をフィーネの傍に寄せた。

 匙で雑炊を掬い、彼女の口元に運ぶ。フィーネは、小さく口を開けた。機械的に咀嚼し、飲み込む。

 二口、三口。それ以上は、首を横に振った。

「……ごめんなさい。今日は、これ以上は」

「分かった。無理はするな」

 フィーネは、窓の外を見つめたまま動かない。いや、見つめているというより——ただ、そこに目を向けているだけだ。

「……フィーネ」

「はい」

「何か、俺にできることはないか」

 フィーネは、ゆっくりと首を横に振った。

「レイドさんには、もう十分すぎるほど——」

「十分じゃない」

 俺は、彼女の前に膝をついた。

「お前は、まだ苦しんでいる。俺には、分かる」

 フィーネの目が、わずかに揺れた。

「……レイドさんは、いつもそうですね」

「何がだ」

「わたしたちのことを、よく見ていてくださる。気づいてくださる」

 フィーネは、視線を落とした。

「わたしは——回復役なのに。本当は、わたしがレイドさんのように、皆を支えなければいけないのに」

「フィーネ——」

「でも、何もできない。腕がなくて、魔法も安定しなくて——わたしは、もう——」

 彼女の声が、震えた。

 俺は、何と言えばいいか分からなかった。

 代わりに、昔のことを思い出していた。

 フィーネと初めて会った日のことを。

   *

 フィーネがパーティに加入したのは、四年前のことだった。

 リゼットよりも前。『蒼穹の剣』が、まだCランクだった頃だ。

 当時のパーティには、回復役がいなかった。セレナと俺の二人だけで、低難度の依頼をこなしていた。回復は、高価なポーションに頼るしかなかった。

 ある日、ギルドの掲示板の前で、一人の少女を見かけた。

 淡い桃色の髪。大きな瞳。神官服に身を包んだ、小柄な少女。

 彼女は、掲示板に貼られた依頼書を、食い入るように見つめていた。

 その目には、切実な光があった。

「何か探し物か」

 俺が声をかけると、少女は驚いたように振り返った。

「あ、いえ、その——」

 彼女は、俯いた。

「わたし、パーティを探しているんです。でも、どこも——」

 言葉が、途切れた。

 俺は、察した。回復役は、どのパーティでも引く手あまただ。にもかかわらず、彼女がパーティを見つけられないということは——何か、理由があるのだろう。

「俺たちのパーティに来るか?」

 気がつくと、そう言っていた。

 少女は、目を見開いた。

「え……?」

「回復役を探してるんだ。お前さえ良ければ、歓迎する」

「でも、わたしは——」

 少女は、言い淀んだ。

「わたし、孤児院の出身なんです。身元保証人もいないし、正式な神官の資格もなくて——」

「関係ない」

 俺は、きっぱりと言った。

「出身がどこだろうが、資格があろうがなかろうが、関係ない。大事なのは、一緒に戦えるかどうかだ」

 少女の目に、涙が滲んだ。

「……本当に、いいんですか」

「ああ。俺たちは、仲間を選ばない」

 その日、フィーネは『蒼穹の剣』の一員になった。

   *

 フィーネの回復魔法は、繊細だった。

 正式な教育を受けていないにもかかわらず、その技術は驚くほど精緻だった。傷の状態を的確に把握し、必要最小限の魔力で最大限の効果を引き出す。無駄がない。

 セレナは、すぐに彼女の実力を認めた。

「すごいわね、フィーネ。どこで習ったの?」

「孤児院で、独学で——」

 フィーネは、照れくさそうに答えた。

「孤児院には、病気の子や怪我をした子がたくさんいたんです。でも、お金がなくて、治療師を呼べなくて——だから、わたしが治すしかなかったんです」

 その言葉に、俺は胸を打たれた。

 彼女の回復魔法は、誰かを救いたいという純粋な願いから生まれたものだった。技術ではなく、心が先にあった。

 だからこそ、あれほど繊細なのだ。

「レイドさん」

 ある日、フィーネが俺に話しかけてきた。

「どうした」

「あの日、声をかけてくださって——本当に、ありがとうございました」

 唐突な言葉に、俺は面食らった。

「急にどうした」

「いえ、ずっと言いたかったんです。でも、なかなか機会がなくて」

 フィーネは、はにかむように笑った。

「わたし、あの日——諦めかけていたんです」

「諦め?」

「冒険者になることを。誰もわたしを受け入れてくれなくて、もう無理かなって」

 フィーネは、空を見上げた。

「でも、レイドさんが声をかけてくださった。何も聞かずに、仲間に誘ってくださった。あの時、本当に嬉しかったんです」

「そうか」

「だから——わたし、頑張ります。レイドさんや、セレナさんのお役に立てるように。皆を、守れるように」

 その目は、真っ直ぐだった。

 迷いのない、強い光を宿していた。

「ああ。頼りにしてる」

 俺がそう言うと、フィーネは嬉しそうに頷いた。

   *

 フィーネは、約束を守った。

 どんな危険なダンジョンでも、彼女は決して逃げなかった。仲間が傷つけば、真っ先に駆け寄り、回復魔法をかけた。

 俺が無茶をして傷を負った時も、彼女は怒りながら治療してくれた。

「レイドさん、また無茶をして——もう、いい加減にしてください」

「悪い、悪い」

「悪いじゃないですよ。レイドさんが怪我をしたら、わたし——」

 フィーネは、言葉を詰まらせた。

「わたし、レイドさんに何かあったら——嫌です」

 その声は、小さく震えていた。

「……分かった。気をつける」

「本当ですか?」

「ああ。お前に心配かけたくないからな」

 フィーネは、少し頬を赤らめた。

「……約束ですよ」

「ああ、約束だ」

 俺は、その約束を——守れなかった。

 結局、俺は無茶を続けた。仲間を守るために、自分の身を顧みずに戦い続けた。

 フィーネは、そのたびに俺を治療してくれた。怒りながら、泣きながら、それでも——決して、見捨てなかった。

 彼女の慈悲深さは、本物だった。

 誰かを救いたいという、純粋な願い。それが、彼女の全てだった。

   *

 回想から戻ると、フィーネは相変わらず窓の外を見つめていた。

 腕のない肩が、小さく震えている。

「フィーネ」

「……はい」

「お前は、十分にやった」

 フィーネが、顔を上げた。

「あの時、お前がいなければ——セレナもリゼットも、死んでいた。お前が最後まで回復魔法を使い続けたから、三人とも生きている」

「でも、わたしは——」

「腕を失っても、お前は仲間を救おうとした。それは、すごいことだ」

 俺は、フィーネの目を見つめた。

「お前の回復魔法は、技術じゃない。心だ。誰かを救いたいという、お前の心が——魔法になっている」

 フィーネの目から、涙がこぼれた。

「腕がなくても、お前の心は変わらない。だから——諦めるな。また、皆を救えるようになる」

「レイドさん——」

「俺が、必ず何とかする。義手を手に入れて、お前がまた魔法を使えるようにする。だから——」

 俺は、言葉を切った。

 次に何を言うべきか、分からなかった。

 フィーネは、しばらく黙っていた。

 やがて、小さな声で——

「……レイドさん」

「何だ」

「わたし、レイドさんに——ずっと、言いたかったことがあるんです」

 フィーネは、涙を流しながら、俺を見つめた。

「あの日、孤児院で——わたしは、たくさんの子どもたちを看取りました」

 俺は、息を呑んだ。

「病気で、怪我で——わたしの力では、救えなかった子たちがいました。何人も、何人も——」

 フィーネの声が、震えた。

「わたしは、自分が無力だと思いました。こんなに頑張っているのに、誰も救えない。わたしには、価値がないんだって」

「フィーネ——」

「でも、レイドさんが——あの日、声をかけてくださった」

 フィーネは、涙を拭おうとして——腕がないことに気づいて、動きを止めた。

 俺は、自分のハンカチを取り出して、彼女の頬を拭った。

「レイドさんは、わたしの価値を認めてくださった。仲間だって、言ってくださった。だから——わたしは、また頑張ろうと思えたんです」

「……そうか」

「でも、今は——また、あの頃に戻ってしまったみたいで——」

 フィーネは、嗚咽を漏らした。

「誰も救えない。何もできない。わたしには、価値がない——」

「違う」

 俺は、強く言った。

「お前には、価値がある。お前がいなければ、俺たちは何度も死んでいた。お前は、俺たちを救ってくれた」

「でも——」

「今度は、俺がお前を救う番だ」

 フィーネが、目を見開いた。

「お前が俺を救ってくれたように、俺がお前を救う。だから——待っていてくれ。必ず、また一緒に戦えるようにする」

 フィーネは、声を上げて泣いた。

 俺は、その背中をさすることしかできなかった。

 腕がないから、抱きしめることもできない。肩を叩くこともできない。

 でも、傍にいることはできる。

 それだけは——絶対に、続けようと思った。

   *

 その日の夜、俺は宿で依頼書を眺めていた。

 高額の依頼。危険な依頼。

 義手の費用を稼ぐには、もっと稼がなければならない。

 フィーネの両腕。金貨千枚。

 セレナの右腕。金貨五百枚。

 リゼットの義眼。金貨五百枚。

 合計、金貨二千枚。

 途方もない額だ。

 今の俺の貯金と、これまで稼いだ分を合わせても、まだ三百枚にも届かない。

 あと、千七百枚。

 どれだけ依頼をこなせば、届くのか。

 考えるだけで、気が遠くなる。

 でも——諦めるわけには、いかない。

 フィーネの涙を思い出す。

 「誰も救えない。何もできない。わたしには、価値がない」

 そんなことは、ない。

 お前には、価値がある。お前は、俺たちの大切な仲間だ。

 だから——俺は、お前を救う。

 何があっても。

 たとえ、自分がどうなっても——

 俺は、依頼書を握りしめた。

 明日も、戦いは続く。

(第5話 了)


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