第4話 闇
目が覚めると、闇があった。
いつものことだ。目を開けても、閉じても、何も変わらない。世界は、永遠の暗黒に塗りつぶされている。
リゼットは、ベッドの上で身を起こした。
どれくらい眠っていたのか分からない。朝なのか、夜なのかも分からない。時間の感覚が、曖昧になっていく。
耳を澄ませた。
鳥の声が聞こえる。かすかに、朝日の温もりを感じる。おそらく、朝なのだろう。
朝。
それが分かったところで、何の意味があるというのか。
「……っ」
リゼットは、自分の目に手を当てた。
白く濁った、何も映さない目。触れても、何の感覚もない。まるで、硝子玉がはめ込まれているようだ。
かつて、この目は世界を見ていた。
魔力の流れを、敵の動きを、仲間の姿を。全てを見通し、全てを把握していた。
それが、私の力だった。私の誇りだった。
今は——何も見えない。
*
あの日のことを、何度も思い出す。
最深部で、あの化け物と遭遇した瞬間。セレナの右腕が切り落とされるのを見た瞬間。
私は、咄嗟にセレナを庇おうとした。
魔法を放とうとした。でも、間に合わなかった。
化け物の爪が、私の顔を——
痛みは、一瞬だった。
その後に残ったのは、永遠の闘だけ。
目が見えないということが、これほど恐ろしいとは思わなかった。
方向が分からない。距離が分からない。何がどこにあるのか分からない。
自分の部屋なのに、一歩踏み出すことさえ怖い。壁にぶつかるかもしれない。物を倒すかもしれない。転ぶかもしれない。
何もできない。
何も、できない。
*
足音が聞こえた。
階段を上がってくる、聞き慣れた足音。
レイドだ。
毎朝、同じ時間に来る。判で押したように正確に。どれだけ疲れていても、どれだけ遅くまで依頼をこなしていても、必ず来る。
扉を叩く音。
「リゼット、起きてるか」
「……起きてるわよ」
扉が開く音。足音が近づいてくる。
何かを置く音。匙が器に触れる、小さな金属音。
「今日は、スープにしてみた。パンも焼いてある」
「……また、あんたの料理?」
「不満か?」
「不満よ。毎日毎日、同じような味付けで飽きるわ」
嘘だ。
本当は、レイドの料理を不味いと思ったことはない。むしろ、驚くほど美味しい。一人暮らしが長かったと言っていたが、その割に料理の腕は確かだ。
でも、素直に「美味しい」なんて言えない。
言ってしまったら、何かが——崩れてしまいそうで。
「じゃあ、明日は別の味付けにする」
「……好きにしなさい」
レイドが、私の手を取った。匙を握らせる。
「食べられるか」
「馬鹿にしないでって言ったでしょう」
私は、匙を握りしめた。
手探りで、器の位置を確認する。スープの温もりが、指先に伝わる。
匙を沈める。掬い上げる。口に運ぶ。
簡単なことだ。目が見えていた頃は、何も考えずにできていたこと。
今は、それだけのことに全神経を集中させなければならない。
「……っ」
匙が、口に届かなかった。
頬にスープがかかる。熱い。
「大丈夫か」
レイドの声。布で頬を拭われる感触。
「大丈夫よ……自分でできるわ」
「無理するな」
「無理なんてしてない」
もう一度、匙を口に運ぶ。今度は、上手くいった。
スープの味が、舌に広がる。野菜の甘みと、肉の旨味。丁寧に煮込まれた、優しい味。
美味しい。
でも、その美味しさが——今は、辛い。
こんなに美味しいものを作ってくれる人がいるのに、私はそれを見ることができない。湯気が立ち上る様子も、スープの色も、レイドの表情も。
何も、見えない。
「……レイド」
「何だ」
「あんた、私の世話をして——何が楽しいの」
レイドは、少し黙った。
「楽しいとか、楽しくないとかじゃない」
「じゃあ、何よ」
「お前が、仲間だからだ」
その言葉を、もう何度聞いただろう。
仲間。
そう言われるたびに、胸が締め付けられる。
「……私は、あんたに酷いことを言ったのに」
「昔の話だ」
「昔の話じゃないわ。私は、あんたを見下してた。才能がないって、足手まといだって——」
「だから?」
レイドの声は、穏やかだった。
「過去のことを、いつまでも引きずってどうする。お前は変わった。俺は、今のお前を仲間だと思ってる。それだけだ」
私は、何も言えなかった。
涙が、目から——見えない目から、溢れ出した。
泣いているのか、私は。
こんなに惨めな姿を、晒しているのか。
「……ごめんなさい」
声が、震えた。
「ごめんなさい、レイド。私、あんたに——」
「謝るな」
レイドの手が、私の頭に置かれた。
温かい。大きい。
「泣きたいなら、泣けばいい。でも、謝るな。お前は、何も悪くない」
「でも——」
「お前が俺に酷いことを言ったのは事実だ。でも、お前は変わった。俺を認めてくれた。一緒に戦ってくれた。それで十分だ」
私は、声を上げて泣いた。
みっともない。情けない。
でも、止められなかった。
*
泣き疲れて、少し眠ったらしい。
目が覚めると、レイドはまだいた。
椅子に座って、何かをしている音がする。紙を捲るような、乾いた音。
「……何、してるの」
「依頼書を見てる。今日、どれを受けるか決めてた」
「依頼……」
そうだ。レイドは、私たちの世話をしながら、依頼もこなしている。治療費を稼ぐために。
「どんな依頼?」
「いくつかある。ゴブリンの討伐、薬草の採取、あとは——」
レイドは、少し言葉を濁した。
「あとは?」
「……危険地帯の調査だ。報酬は高いが、リスクも高い」
「それ、受けるの」
「ああ」
私は、胸が冷たくなるのを感じた。
「やめなさい」
「何でだ」
「危ないからよ。あんたが怪我したら、意味がないでしょう」
「大丈夫だ。俺は、この一年で——」
「大丈夫じゃないわよ!」
私は、声を荒げた。
「あんたが怪我したら、誰が私たちの面倒を見るの。あんたがいなくなったら、私たちは——」
言葉が、詰まった。
私たちは、どうなるの。
レイドがいなくなったら——
考えたくない。考えたくないのに、頭の中にその光景が浮かぶ。
レイドのいない日々。誰も訪ねてこない部屋。冷たい食事。一人きりの闇。
嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ——
「リゼット」
レイドの声が、私を現実に引き戻した。
「俺は、そう簡単には死なない。お前たちを置いて、いなくなったりしない」
「でも——」
「約束する。絶対に、戻ってくる。だから、お前は——」
レイドの手が、私の手を握った。
「信じて、待っていてくれ」
私は、その手を握り返した。
強く、強く。
「……馬鹿」
それしか、言えなかった。
「馬鹿よ、あんた。私なんかのために、そこまで——」
「お前なんか、じゃない」
レイドの声は、真剣だった。
「お前は、俺の大切な仲間だ。何度でも言う。何度でも——」
レイドは、言葉を切った。
立ち上がる気配がした。
「行かなきゃならない。夕方には戻る」
「……分かったわ」
「フィーネとセレナのところにも、顔を出しておいてくれ。お前が一番、動けるからな」
「私が?」
「ああ。目は見えなくても、歩ける。手も使える。二人の支えになってやってくれ」
私は、息を呑んだ。
私が、二人の支えに?
こんな、何もできない私が?
「……無茶言わないで」
「無茶じゃない。お前なら、できる」
レイドの足音が、遠ざかっていく。
扉が閉まる音。
そして、静寂。
私は、一人になった。
*
しばらく、動けなかった。
レイドの言葉が、頭の中で繰り返されていた。
「お前が一番、動ける」
「二人の支えになってやってくれ」
馬鹿げている。私は、自分のことさえ満足にできないのに。
でも——
フィーネのことを、思い出した。
両腕を失った彼女。回復役としての誇りを失った彼女。
私より、ずっと辛いはずだ。
セレナのことも、思い出した。
部屋から出てこない彼女。リーダーとしての責任に押し潰されている彼女。
私より、ずっと苦しんでいるはずだ。
私は——
私だけが、苦しんでいるわけじゃない。
ベッドから、足を下ろした。
床の感触を確かめる。冷たい。
立ち上がる。ふらつく。壁に手をついて、体を支える。
一歩、踏み出す。
怖い。転ぶかもしれない。ぶつかるかもしれない。
でも、進まなければ。
レイドは、毎日危険な依頼をこなしている。私たちのために。
私が、部屋で蹲っているだけでいいはずがない。
もう一歩。もう一歩。
壁を伝って、扉に辿り着いた。
取っ手を握る。押し開ける。
廊下の空気が、顔に触れた。
少しだけ、広い場所に出た気がした。
フィーネの部屋は、隣だ。
壁を伝って、進む。
扉を見つける。ノックする。
「……フィーネ。起きてる?」
返事は、なかった。
でも、中に人がいる気配はする。
「入るわよ」
扉を開けた。
「リゼットさん……?」
フィーネの声。驚いたような、戸惑ったような声。
「どうして、ここに——」
「別に。暇だったから、顔を見に来ただけよ」
嘘だ。顔なんて、見えない。
でも、そう言わなければ——自分の気持ちを、認めてしまいそうで。
「……リゼットさん、目が——」
「見えないわよ、当然でしょう。でも、歩けるわ。これでも」
私は、壁を伝いながら、フィーネの近くに座り込んだ。
多分、窓際だ。朝日の温もりを感じる。
「何よ、黙り込んで。話し相手になりなさいよ」
「でも、わたし——」
「いいから」
私は、フィーネの方に手を伸ばした。
探り当てたのは、彼女の肩だった。包帯に覆われた、腕のない肩。
フィーネの体が、びくりと震えた。
「……リゼットさん」
「私たち、似た者同士ね」
私は、静かに言った。
「私は目を、あんたは腕を失った。魔法使いと回復役——どっちも、致命的よね」
フィーネは、何も言わなかった。
でも、その沈黙は——拒絶ではないと、分かった。
「レイドが言ってたわ。私に、あんたとセレナの支えになれって」
「レイドさんが……」
「馬鹿げてるわよね。こんな、自分のこともできない私が」
私は、自嘲気味に笑った。
「でも——やってみようと思うの。あんたたちのために、何かできることがあるなら」
フィーネは、しばらく黙っていた。
やがて、小さな声が聞こえた。
「……ありがとう、ございます」
それだけだった。
でも、それだけで——十分だった。
私たちは、しばらく無言で並んでいた。
見えない目と、動かない腕。
それでも——一人じゃない。
そう思えることが、少しだけ——救いだった。
(第4話 了)




