第2話 現状
暗い部屋の中で、セレナの嗚咽だけが響いていた。
俺は何も言えないまま、ただ彼女の傍にいた。かける言葉が見つからなかった。「大丈夫」なんて無責任なことは言えない。「何とかなる」という根拠のない励ましも、今の彼女には届かないだろう。
どれくらいの時間が経っただろうか。
やがて、セレナの泣き声が小さくなっていった。泣き疲れたのだ。
「……セレナ」
俺は、静かに呼びかけた。
「少し、話を聞かせてくれないか。何があったのか」
セレナは答えなかった。毛布を被ったまま、微動だにしない。
「……私から、話すわ」
背後から、リゼットの声が聞こえた。
振り返ると、彼女は扉の枠に寄りかかっていた。白く濁った瞳が、虚空を見つめている。
「リゼット」
「セレナには、まだ無理よ。一番、責任を感じているから」
リゼットは、壁伝いにゆっくりと歩き、部屋の隅に腰を下ろした。
「……十日前のことよ」
彼女は、淡々と語り始めた。
*
『蒼穹の剣』は、あるダンジョンの最深部を目指していた。
これまで誰も到達したことのない領域。そこには、莫大な財宝が眠っていると言われていた。Aランクパーティとしての実力を証明するため、セレナたちは挑戦を決めたのだという。
「順調だったのよ、途中までは」
リゼットの声には、悔恨が滲んでいた。
「カイナの索敵も的確だった。罠も問題なく回避できていた。でも——」
最深部に近づいた時、それは現れた。
記録にない魔物。ダンジョンの主とも呼ぶべき、圧倒的な存在。
「逃げるべきだった。最初に遭遇した瞬間に、撤退するべきだったのよ」
けれど、彼女たちは戦うことを選んだ。
セレナの剣技、リゼットの魔法、フィーネの回復、カイナの援護。全員が全力を尽くした。それでも、敵わなかった。
「セレナが最初にやられたわ。剣を振るおうとした瞬間、右腕を——」
リゼットの声が、詰まった。
「私は、セレナを庇おうとして、目を——」
彼女は、自分の顔に手を当てた。
「フィーネは、回復魔法を使おうとして、両腕を——」
言葉が、途切れた。
俺は、拳を握りしめた。爪が掌に食い込む。
「……カイナは?」
「あの子が、私たちを引きずって逃げてくれたのよ。一番軽傷だったから。でも、あの子も——」
リゼットは、首を横に振った。
「無傷じゃない。足に深い傷を負ってる。それでも、私たちを見捨てずに、ダンジョンの外まで——」
そこまで言って、リゼットは黙り込んだ。
沈黙が、重くのしかかる。
俺は、一つの疑問を口にした。
「……なぜ、撤退しなかった」
リゼットが、顔を上げた。見えない目が、俺の方を向く。
「何か、嫌な予感はしなかったのか。不穏な空気を感じなかったのか」
「……感じていたわ」
リゼットは、苦しげに言った。
「カイナが、何度か警告してくれていた。何かがおかしいって。でも、私たちは——」
彼女は、唇を噛んだ。
「慢心していたのよ。Aランクパーティの自分たちなら、何とかなるって。それに——」
リゼットは、言葉を切った。
続きを言うべきか、迷っているようだった。
「それに?」
「……あんたがいた頃なら、きっと撤退していた」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
「あんたは、いつも慎重だった。危険な兆候があれば、すぐに撤退を提案していた。私たちは、それを疎ましく思うこともあった。でも——」
リゼットの声が、震えた。
「あんたの慎重さが、私たちを守っていたのよ。それを失って初めて、分かった」
俺は、何も言えなかった。
言うべき言葉が、見つからなかった。
「レイド」
リゼットが、俺の名を呼んだ。
「謝らないで。あんたのせいじゃない。私たちが、愚かだっただけ」
「……俺は」
「同情も、いらないわ。今さら、何を言われても——」
「違う」
俺は、リゼットの言葉を遮った。
「謝るつもりも、同情するつもりもない」
立ち上がり、リゼットの前に膝をついた。
「俺は、お前たちを助けに来たんだ」
リゼットの濁った目が、わずかに見開かれた。
「……何を、言って——」
「四肢の欠損も、目の損傷も、治療法がないわけじゃない。高機能な義肢を作れる職人がいる。魔法で動く義眼もあると聞いたことがある。金はかかるだろうが、不可能じゃない」
「馬鹿なことを言わないで」
リゼットの声が、鋭くなった。
「そんな職人がどこにいるか知ってるの? どれだけの金がかかるか分かってるの? 私たちはもう、冒険者として稼ぐことも——」
「俺が稼ぐ」
リゼットの言葉を、再び遮った。
「俺が金を稼いで、職人を探して、お前たちを治す。だから——」
俺は、リゼットの手を取った。
彼女の手が、小さく震えていた。
「諦めるな、リゼット。まだ、終わりじゃない」
リゼットは、何も言わなかった。
ただ、その目から涙がこぼれ落ちた。
見えないはずの目から、透明な雫が頬を伝っていった。
*
その後、俺はフィーネの部屋を訪ねた。
彼女は、窓際に座っていた。腕のない肩を丸め、虚ろな目で外を眺めている。
「フィーネ」
声をかけると、彼女はゆっくりと振り返った。
「……レイドさん」
その声には、生気がなかった。いつもの穏やかな笑顔も、優しい眼差しも、そこにはなかった。
「傷の具合は、どうだ」
「傷、ですか」
フィーネは、自分の肩を見下ろした。包帯に覆われた、腕があったはずの場所を。
「痛みは、もうありません。もう、何も——」
彼女の声が、途切れた。
「わたし、回復役なのに」
フィーネは、ぽつりと言った。
「仲間を癒すのが、わたしの役目だったのに。セレナさんの腕も、リゼットさんの目も、わたしが——わたしさえ、しっかりしていれば——」
「フィーネ」
「でも、わたしは何もできなかった。腕を、失って——印を結ぶことも、杖を握ることも——」
フィーネの目から、涙が溢れた。
「回復魔法は、まだ使えます。腕がなくても、詠唱だけで発動できる術式もあるから。でも、安定しないんです。集中しようとしても、手が震えて——手が、ないのに、震えてる気がして——」
彼女は、嗚咽を漏らした。
「わたしは、もう——誰も、救えない——」
俺は、フィーネの傍に座った。
何と言えばいいのか、分からなかった。彼女の苦しみは、俺には想像することしかできない。
回復役として仲間を支えてきた彼女が、仲間を救えなかった絶望。自分の存在意義を失った虚無感。それは、俺が追放された時の比ではないだろう。
「……フィーネ」
俺は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「お前は、誰も救えなかったわけじゃない」
「え……?」
「セレナも、リゼットも、生きてる。お前がいたから、命だけは助かったんじゃないのか」
フィーネが、顔を上げた。
「腕を失っても、最後まで回復魔法を使い続けたんだろう。お前がいなければ、三人とも死んでいたかもしれない」
「でも、わたしは——」
「完璧じゃなくていい」
俺は、フィーネの目を見つめた。
「全員を完璧に救えなくても、お前は十分にやった。自分を責めるな」
フィーネは、何も言わなかった。
ただ、涙を流し続けた。
俺は、それ以上何も言わず、彼女の傍にいた。
*
三人の状態を確認した後、俺は建物の外に出た。
空は、暗くなり始めていた。夕焼けが、街を赤く染めている。
深く息を吐いた。
想像以上だった。三人の怪我も、心の傷も。
セレナは、完全に心を閉ざしている。リーダーとして、皆を守れなかった責任を一人で背負い込んでいるのだろう。
リゼットは、表面上は冷静を装っているが、視力を失った絶望は計り知れない。魔法使いにとって、目は命と同じだ。
フィーネは、自分を責め続けている。回復役としての誇りが、彼女を苦しめている。
三人とも、このままでは壊れてしまう。
「——先輩」
声をかけられた。
振り返ると、カイナがいた。松葉杖をついて、片足を引きずっている。
「カイナ。お前も、怪我を——」
「あたしは大丈夫です。足は、時間をかければ治る」
カイナは、俺の隣に立った。
その目は、赤く腫れていた。泣いていたのだろう。
「……あたしのせいです」
カイナが、絞り出すように言った。
「あたしが、もっと強く撤退を主張していれば——あたしじゃなく、先輩があの場にいれば——」
「お前のせいじゃない」
「でも——」
「お前が皆を引きずって逃げたから、三人は生きてる。お前は、やるべきことをやった」
カイナは、唇を噛んだ。
「先輩なら、最初から撤退させていましたよ。あたしは、警告しかできなかった。止められなかった」
「結果論だ。俺がいたとしても、同じ結果だったかもしれない」
「そんなこと——」
「カイナ」
俺は、後輩の肩に手を置いた。
「過去は変えられない。今、俺たちにできることを考えよう」
カイナは、しばらく黙っていた。
やがて、小さく頷いた。
「……先輩は、これからどうするんですか」
「決まってる」
俺は、夕焼けの空を見上げた。
「あいつらを、元に戻す。冒険者として、また戦えるようにする」
「でも、それには——」
「金がかかるのは分かってる。時間もかかるだろう。でも、不可能じゃない」
カイナが、俺の顔を見た。
「……先輩、本気ですか」
「当たり前だ」
俺は、カイナの目をまっすぐに見返した。
「あいつらは、俺の仲間だ。追放されたからって、それは変わらない」
カイナは、目を見開いた。
そして、その目に涙が浮かんだ。
「……先輩」
「泣くな。お前にも、手伝ってもらうからな」
「はい……はい、もちろんです」
カイナは、涙を拭いながら頷いた。
「あたしにできることなら、何でもします。だから——先輩も、無理しすぎないでくださいね」
「分かってる」
俺は、そう答えた。
嘘だった。
俺は、自分が無理をする人間だと分かっている。セレナにも、同じことを言われた。
でも、今は無理をするしかない。
彼女たちを救うために。
俺は、心の中で誓った。
何があっても、あいつらを見捨てない。
たとえ、自分がどうなっても——
*
その夜、俺はギルドに向かった。
深夜にもかかわらず、ギルドの酒場には何人かの冒険者がいた。その中に、見知った顔を見つけた。
ギルドの受付嬢、マリナだ。夜勤の当番らしい。
「あら、レイドさん。珍しいですね、こんな時間に」
「少し、聞きたいことがあってな」
俺は、カウンターに近づいた。
「高機能な義肢を作れる職人を知らないか。魔法で自在に動くような——」
「義肢、ですか」
マリナの表情が、わずかに曇った。
「『蒼穹の剣』の皆さんのことは、聞いています。大変でしたね」
「ああ」
「義肢の職人……心当たりがないわけではありませんが、腕のいい職人ほど、高額になります。それも、普通の冒険者では手が届かないような——」
「いくらだ」
「正確な金額は分かりませんが、噂では——義手一本で、金貨五百枚以上とか」
金貨五百枚。
Aランクの依頼を十回以上こなさなければ稼げない額だ。
セレナの義手、フィーネの両腕、リゼットの義眼。合わせれば、金貨二千枚近くになる。
途方もない金額だった。
「……それでも、やるしかない」
「レイドさん……」
マリナが、心配そうに俺を見た。
「無理はしないでくださいね。あなたが倒れたら、誰が皆さんを支えるんですか」
「分かってる」
俺は、そう答えた。
同じ言葉を、今日だけで何度言っただろう。
分かっている。でも、やるしかないのだ。
俺にできることは、これしかないのだから。
「明日から、依頼を受けたい。できるだけ高額の——」
その時だった。
酒場の隅から、下卑た笑い声が聞こえた。
「おいおい、聞いたか? 『蒼穹の剣』の連中、もう終わりだってよ」
「マジかよ。あの高慢な女どもが、ざまあみろってな」
「腕だの目だの失くしたらしいじゃねえか。冒険者なんて、いつ落ちぶれるか分からねえもんだな」
低ランクの冒険者たちが、酒を片手に笑い合っている。
俺は、拳を握りしめた。
殴りかかりたい衝動を、必死で抑えた。
今、ここで騒ぎを起こしても意味がない。それよりも、やるべきことがある。
「レイドさん」
マリナが、俺の腕に触れた。
「気にしないで。ああいう人たちは、どこにでもいますから」
「……ああ」
俺は、深く息を吐いた。
「依頼の件、よろしく頼む」
「はい。適切な依頼を見繕っておきますね」
俺は、ギルドを後にした。
夜風が、火照った頬を冷やしていく。
明日から、戦いが始まる。
金を稼ぎ、職人を探し、彼女たちを救う。
長い戦いになるだろう。でも、諦めるつもりはない。
俺は、歩き始めた。
暗い夜道を、一人で。
でも、心は折れていなかった。
まだ、やれることがある。まだ、希望はある。
だから——俺は、戦い続ける。
(第2話 了)




