第1話 別離
ギルドの酒場は、いつものように喧騒に包まれていた。
依頼達成の祝杯を挙げる者、次の仕事について語り合う者、酔った勢いで武勇伝を吹聴する者。冒険者という生き方を選んだ人間たちの、ありふれた日常の風景だ。
その片隅で、俺——レイドは、三人の仲間と向かい合っていた。
「——だから、レイド。あんたには抜けてほしいの」
幼馴染のセレナが、まっすぐに俺を見つめてそう言った。
蜂蜜色の髪を揺らしながら、彼女は言葉を続ける。その瞳には迷いがない。いつだってそうだ。彼女は決めたことを曲げない。幼い頃から俺の手を引いて、どんな困難にも正面から立ち向かってきた。その強さは、今も変わっていない。
「……そうか」
俺は、それだけを返した。
予感はあった。ここ最近、セレナが何か言いたげにしていたことには気づいていた。パーティの方針について話し合おうと言われた時点で、大体の察しはついていたのだ。
「あんたが弱いなんて言うつもりはない。でも、最近のあんたを見てると……」
セレナの声が、わずかに震える。
「生傷が増えてる。前は避けられていた攻撃を、受けるようになってる。あんた、無理してるでしょう」
反論はできなかった。
実際、その通りだったからだ。
俺たちのパーティ『蒼穹の剣』は、ギルドでも上位に数えられる実力を持っている。Aランクの依頼を主に受け、ダンジョン攻略を専門としてきた。セレナを筆頭に、メンバーは皆、一流の冒険者だ。
だが、俺は違う。
セレナのような天賦の剣才があるわけでもない。リゼットのような圧倒的な魔力を持っているわけでもない。フィーネのような繊細な回復魔法が使えるわけでもない。俺は斥候として罠を見抜き、索敵をこなし、時には前衛の補助として戦う——そういう、器用貧乏な立ち位置だった。
パーティの穴を埋める存在。それが俺の役割だった。
けれど、パーティが強くなればなるほど、俺の役割は曖昧になっていった。高難度のダンジョンでは、器用貧乏では対応しきれない場面が増えていた。結果として、俺は傷を負う機会が増えていたのだ。
「私は……」
向かいに座るリゼットが、口を開きかけて、止めた。
銀髪の魔法使いは、腕を組んだまま視線を逸らしている。かつては俺のことを「足手まとい」と公言してはばからなかった彼女だが、今はその言葉を飲み込んでいるようだった。
フィーネは、悲しげに俯いている。淡い桃色の髪が、その表情を隠していた。
「……誤解しないで」
セレナが、搾り出すように言った。
「これは追放じゃない。あんたのことが嫌いになったわけでも、役立たずだと思ってるわけでもない。ただ——」
「分かってる」
俺は、穏やかに頷いた。
「俺がいると、お前たちが本領を発揮できない場面がある。より専門的なメンバーを入れた方が、パーティとしては強くなる。そうだろう?」
セレナが、目を見開いた。
「……分かって、たの?」
「薄々はな。俺も馬鹿じゃない」
強がりではなかった。本当に、理解していたのだ。
俺と彼女たちの間には、才能という埋めがたい溝がある。セレナは生まれながらにして剣の天才だった。幼い頃から、その差は歴然としていた。俺はただ、彼女の背中に必死で食らいついていただけだ。
リゼットは、百年に一人と言われる魔法の才能を持っている。フィーネの回復魔法は、神官の中でも指折りの精度を誇る。
そんな彼女たちの中で、俺だけが凡人だった。
だからこそ、分かっていた。いつか、この日が来ることを。
「退職金は十分に用意してある。それと——」
「いらない」
「受け取って」
セレナの声が、強くなった。
「これは、命令。リーダーとしての、最後の命令よ」
その目には、うっすらと涙が滲んでいた。
ああ、そうか。
俺を追い出すことが、彼女にとってどれほどの決断だったのか。今、初めて実感した。
セレナは、俺を心配してくれている。このままでは俺が死ぬと、本気で案じてくれているのだ。
「……分かった。ありがたく受け取る」
俺がそう言うと、セレナは安堵したように息を吐いた。
「レイドさん」
フィーネが、ようやく顔を上げた。その大きな瞳が、涙で潤んでいる。
「わたし、レイドさんと一緒に冒険できて、本当に楽しかったです。だから——」
「泣くなよ、フィーネ。別に、もう会えないわけじゃないだろ」
俺は、努めて明るく笑った。
「お前たちがダンジョンから帰ってきたら、また一緒に飯でも食おう。俺の奢りで」
「……退職金、使い切らないでよね」
リゼットが、ぼそりと言った。
相変わらず素直じゃない言い方だが、その声には隠しきれない寂しさが滲んでいた。
かつて、俺を見下していた彼女。けれど、幾度もの死線を共に潜り抜けるうちに、少しずつ認めてくれるようになった。セレナとは比べものにならない才能の持ち主でありながら、必死で食らいつく俺の姿を、彼女なりに評価してくれていたのだと思う。
「ああ。お前に奢れなくなったら困るからな」
「……馬鹿」
リゼットは、そっぽを向いた。
その横顔が、少しだけ赤く見えたのは、きっと酒場の照明のせいだろう。
*
数日後、俺は『蒼穹の剣』の拠点を後にした。
手には、思っていた以上に重い金貨の袋。これまでの活動で得た報酬の、俺の取り分。そして、セレナが「退職金」として上乗せしてくれた分。
正直、こんなに受け取っていいのかと思うほどの額だった。
拠点の前で振り返ると、三人が見送りに立っていた。
「元気でね、レイド」
セレナが、いつものように笑う。けれど、その笑顔がどこか無理をしているように見えた。
「お前こそ。俺がいなくなっても、無茶するなよ」
「それはこっちの台詞よ。あんた、一人になったら絶対に無理するんだから」
「しないって」
嘘だ。俺は自分が無理をする人間だと、よく分かっている。
でも、今は嘘をついてもいいだろう。心配させないために。
「新しいメンバー、ちゃんと見つけたか?」
「ええ。あんたが推薦してくれた子——カイナ、だっけ。あの子に声をかけてみるわ」
「そうか」
カイナ。俺の後輩にあたる冒険者だ。
生意気で口が悪いが、斥候としての腕は確かだ。俺と違って、専門性がはっきりしている。『蒼穹の剣』には、俺よりも彼女の方が合っているだろう。
「あいつによろしく言っておいてくれ。先輩の分まで頑張れってな」
「自分で言いなさいよ」
「ははっ、そうだな」
軽口を叩き合いながら、俺は一歩、また一歩と歩き出した。
背中に、三人の視線を感じる。
振り返りたい衝動を、必死で抑えた。
振り返ってしまったら、きっと俺は泣いてしまう。
彼女たちとの思い出が、走馬灯のように蘇る。初めてパーティを組んだ日。初めてダンジョンを攻略した日。死にかけた日。奇跡的に生き延びた日。喧嘩した日。仲直りした日。
全部、かけがえのない宝物だ。
でも、だからこそ——俺は前を向かなければならない。
いつか、また彼女たちの隣に立てるように。
足手まといではなく、対等な仲間として肩を並べられるように。
俺は、自分を鍛え直すのだ。
*
それから、俺の新しい日常が始まった。
退職金のおかげで、生活には困らなかった。安い宿を借り、質素な食事を取り、残りの時間は全て鍛錬に費やした。
まず取り組んだのは、前衛としての技術を磨くことだった。
俺はこれまで、斥候としての能力を中心に伸ばしてきた。罠の察知、索敵、奇襲。それらは確かに俺の強みだったが、パーティを離れた今、それだけでは生き残れない。
一人で依頼をこなすなら、正面から敵と戦う力が必要だ。
短剣だけでなく、剣も、槍も、扱えるようにならなければならない。
毎朝、日が昇る前に起き出して素振りを繰り返した。ギルドの訓練場で、他の冒険者たちと手合わせをした。低難度の依頼を受けて実戦経験を積み、夜は宿で体の使い方を反省した。
地道な日々だった。
けれど、確かに成長している手応えがあった。
月に一度、セレナたちと会って食事をした。彼女たちは、相変わらず忙しそうだった。カイナが加入してからは、より高難度のダンジョンに挑戦しているらしい。
「カイナちゃん、すごく優秀よ。あんたの目は確かだったわ」
セレナがそう言った時、俺は素直に嬉しかった。
「でも、口は相変わらず悪いわね。リゼットと毎日のように言い合いしてるわ」
「はあ? あの小娘が一方的に突っかかってくるだけでしょう」
「どっちもどっちだと思うけど……」
フィーネが苦笑いする。
俺は、その光景を眺めながら、穏やかな気持ちになった。
カイナが上手くやっているなら、俺が抜けた穴は埋まったということだ。『蒼穹の剣』は、これからも最前線で戦い続けるだろう。
そして、俺もいつか——
「レイド先輩」
ふと、声をかけられた。
振り返ると、件のカイナが立っていた。短い黒髪に、勝ち気な目つき。小柄な体には、俊敏さを感じさせる筋肉がついている。
「よう、カイナ。上手くやってるみたいじゃないか」
「まあね。先輩が抜けた穴、しっかり埋めてますよ」
生意気な口調だが、悪気はない。カイナなりの照れ隠しだ。
「でも、正直言うと——」
カイナは、少しだけ声を落とした。
「あたし、先輩の代わりなんかじゃないって思ってます。先輩は先輩で、あたしはあたし。役割は似てても、やり方は全然違う」
「……そうか」
「だから、先輩。いつでも戻ってきてくださいね。あたしがいても、先輩の居場所はありますから」
カイナは、そう言って笑った。
その笑顔は、普段の生意気さとは違う、真っ直ぐなものだった。
「……ありがとな、カイナ」
「礼を言われることじゃないですよ。先輩には、いろいろ教えてもらいましたから」
カイナが去った後、俺は空を見上げた。
澄み渡る青空。雲一つない、良い天気だ。
いつか、必ず。
俺は、あの場所に戻る。
そう心に誓いながら、俺は再び鍛錬の日々に戻っていった。
*
それから一年が経った頃——
俺の元に、信じられない噂が届いた。
「『蒼穹の剣』が、壊滅したらしい」
ギルドの酒場で、冒険者たちがそう囁き合っていた。
俺は、息を呑んだ。
「……何だと?」
「ああ、知らないのか? 最深部で、とんでもない化け物に遭遇したらしい。命からがら逃げ出してきたって話だ」
冒険者の言葉が、頭の中で反響する。
壊滅。命からがら。
嘘だ。あり得ない。セレナたちが、そう簡単にやられるはずがない。
だが——
「生きてはいるらしいが、もう冒険者としては終わりだろうな。なんでも、全員がひどい怪我を負ったらしい」
俺は、酒場を飛び出した。
走った。全力で走った。
頭の中は真っ白だった。ただ、一刻も早く彼女たちの元へ行かなければという思いだけが、俺を突き動かしていた。
彼女たちが暮らしている場所は知っている。何度も訪ねたことがあるのだから。
息を切らせながら辿り着いた時、俺が見たのは——
閉ざされた扉と、静まり返った建物だった。
ノックをする。返事はない。
もう一度、強くノックをする。
「……誰」
か細い声が、扉の向こうから聞こえた。
フィーネの声だ。けれど、いつもの柔らかさはない。枯れ果てたような、虚ろな響きがあった。
「俺だ、レイドだ。開けてくれ」
沈黙が流れた。
長い、長い沈黙。
やがて、ゆっくりと扉が開いた。
そこに立っていたのは——
俺の知っているフィーネでは、なかった。
両腕が、なかった。
肩から先が、包帯で覆われた断端だけになっていた。
「フィーネ……」
声が、掠れた。
フィーネは、虚ろな目で俺を見つめた。涙の跡が、頬に残っている。何度も、何度も泣いたのだろう。
「レイドさん……来ないで、ください……」
「何を言って——」
「お願いです……今の私たちを、見ないで……」
その時、奥から別の声が聞こえた。
「誰だ……?」
リゼットの声。けれど、そこにはかつての傲岸さも、鋭さも感じられなかった。
暗い廊下の奥から、リゼットが姿を現した。
壁に手をついて、おぼつかない足取りで。
俺は、息を呑んだ。
リゼットの目は——両目とも、白く濁っていた。
見えていないのだ。何も。
「レイド……なの……?」
「ああ、俺だ」
声が震えた。震えを抑えられなかった。
「来るな」
別の声が、鋭く響いた。
セレナだ。
廊下の奥、さらに暗い部屋の中から、その声だけが聞こえてきた。
「来るんじゃない、レイド。帰れ」
「セレナ——」
「帰れって言ってんのよ!」
悲鳴のような叫びだった。
俺は、それでも足を踏み入れた。
セレナの部屋の前まで歩き、扉を開けた。
暗闘の中、ベッドの上にセレナがいた。
毛布から覗いているのは、左腕だけ。
右腕は——利き腕は——肩から先が、なかった。
「見るな……」
セレナの声が、泣いていた。
「こんな姿、あんたに見られたくなかった……」
俺は、何も言えなかった。
言葉が見つからなかった。
ただ、膝をついて、セレナの傍に座り込んだ。
そして——
「……俺がいる」
それだけを、言った。
「俺が、ここにいる。だから——」
何を言えばいいのか、分からなかった。
どんな言葉をかければいいのか、見当もつかなかった。
でも、ただ一つだけ、確かなことがあった。
俺は、彼女たちを見捨てない。
何があっても。
絶対に。
「——大丈夫だ。俺が、何とかする」
その言葉が、嘘か本当か、俺自身にも分からなかった。
でも、言わずにはいられなかった。
セレナの嗚咽が、暗闘に響いた。
リゼットが、壁にもたれて崩れ落ちた。
フィーネが、声を殺して泣いていた。
俺は、ただそこにいた。
何もできないまま、それでもそこにいた。
これが——俺の、新しい戦いの始まりだった。
(第1話 了)




