第九話 追撃の罠
夜が明けても、私は横になったまま身動きできずにいた。
眠れなかった。
目を閉じれば、血の匂いと悲鳴が蘇る。
倒れていく人々の顔が、次々と浮かんでは消えた。
「若様」
タジの声がして、我に返った。
「皆が集まっております」
そうだ。戦いは終わっていない。
私がここで立ち止まれば、もっと多くの血が流れるかもしれない。
重い体を起こし、陣に向かった。
兵たちの顔にも疲労の色が濃い。誰もが昨日の戦いの衝撃から立ち直れずにいるようだった。
登美の陣近くでは、勝利の興奮冷めやらぬ兵もいたが、長脛彦は険しい表情で敵の撤退した方向を見つめていた。
「追撃しますか?」
武将の一人が進言した。
「今なら、敵も混乱しているはず」
「いや、深追いは……」
長脛彦が慎重な姿勢を見せた時、物見が駆け込んできた。
「報告! 敵の兵の一部が坂の下で動けずにいます! 負傷兵が多数!」
陣営がざわめいた。
「今がチャンスでは?」
「いや、罠かもしれん」
議論が始まった中、別の兵も飛び込んできた。
「敵の退却後の探索をしていたものからの連絡です。
武器など使えるものは、ほとんど見つかりませんでしたが、
これが、見つかったとのことです。」
差し出されたのは、薄い木簡を束ねたものだった。
長脛彦が紐を解くと、そこには記号と線で描かれた簡素な地形図が。
「これは……」
父が息を呑んだ。
「各氏族の集落の位置、兵の配置まで記されている……」
「これが敵の手に渡っていたら」
家臣たちが青ざめた。
「いや、待て」
長脛彦が疑いの目を向けた。
「あまりにも都合が良すぎる」
しかし、さらなる報告が。
「敵の本隊が東へ向かっています! このまま登美や山辺氏の領地へ向かう模様!」
「なんだと!」
「やはり背後をついてくるか」
「見捨てるわけにはいかないが、
おそらくこれは罠だ」
長脛彦が断言した。
「敵は我々の兵力を分散させようとしている」
「しかし、背後に向かう敵を見逃せば、山辺らとの同盟は崩壊します」
父が苦悩の表情を浮かべた。
「比較的軽症の負傷兵もすでに登美に帰してしまっている」
私が口を挟んだ。
昨日の戦いで血を流した人々の顔が頭をよぎった。
「助けるべきじゃないかな」
長脛彦は私を見た。
その目には、昨夜と同じ複雑な感情が。
「戦場で情けは命取りだ」
「でも……」
私の声は震えていた。
もう誰も傷つけたくない。でも、見捨てることもできない。
激しい議論の末、長脛彦が決断を下した。
「……やむを得ん。三隊に分ける」
彼の顔には、苦渋の色が濃い。
「一隊は坂の下の捜索、一隊は山辺への伝令、残りはこの地の守備だ」
「私も行きます」
長脛彦が立ち上がった。
「足手まといになるだけでは」
誰かが言いかけたが、長脛彦の鋭い視線に黙った。
「指揮官が後ろに隠れては、兵の士気に関わる」
捜索隊は慎重に坂を下った。
長脛彦が先頭に立ち、警戒しながら進む。
確かに、負傷兵がいた。
地面に倒れ、苦しそうに呻いている。
「助けを……」
一人の兵が近づいた瞬間。
「今だ!」
負傷兵が飛び起き、大声で叫んだ。
偽装だった。
両側の崖から、油を塗った丸太が転がり落ちてきた。
火矢が放たれ、丸太が炎上する。
「退却! 退却だ!」
しかし、退路は炎の壁に阻まれた。
崖の上から、敵兵が現れる。
だが、攻撃してこない。
「武器を捨てろ! 命は保証する!」
五瀬命の声が響いた。
「我々は無駄な血を流したくない! 降伏すれば、丁重に扱う!」
長脛彦は剣を構えた。
「ここで退けば、何のための戦いだったか!」
彼は炎の壁に突撃しようとした。
老体に鞭打ち、最後の力を振り絞って。
だが、足元に仕掛けられていた落とし穴。
深さは人の背丈ほど。底には水が張ってあり、落ちても死なない。
しかし、落とし穴を避けようとした長脛彦は、体勢を崩した。
その瞬間。
崖の上から、正確に狙い撃たれた石つぶてが飛来した。
普通なら避けられたはずだ。
だが、体勢を崩していた長脛彦には。
「ぐあっ!」
石は右膝に直撃した。
鈍い音と共に、骨が砕ける音が響いた。
長脛彦が地面に倒れる。
すぐに敵兵が駆け寄ったが、武器を向けることはなかった。
「薬師を! 早く薬師を呼べ!」
「この方を丁重に扱え! 絶対に死なせるな!」
燃える丸太の向こうから、五瀬命の声が聞こえた。
「長脛彦殿! これは貴殿への警告だ!」
その声には、敬意が込められていた。
「貴殿の知略と武勇には心から敬服する! だからこそ、無駄に命を散らすべきではない!」
「次は必ず、話し合いの場を設ける! そのときまで、どうか生きていてほしい!」
結局、捜索隊は全員が武装解除されて解放された。
山辺への進軍も陽動だった。
地図も、よく見れば古い情報ばかり。
すべて、計算づくだった。
「完敗だ」
館に運び込まれた長脛彦が、苦々しく呟いた。
「兵力を分散させ、指揮官を誘い出し、無力化する。しかも、殺さずに」
薬師の診立ては厳しかった。
右膝は完全に粉砕。もう二度と、以前のようには歩けない。
「あの男……」
長脛彦の目に、複雑な感情が浮かんだ。
「かつての第六天魔王なら、皆殺しにしていただろう。だが今は……」
最小の犠牲で最大の効果。
敵に恨みを残さない、新しい戦い方。
「私も……老いたな」
長脛彦が自嘲的に笑った。
「若い頃なら、あんな罠には……」
「違います!」
私は叫んだ。
「私のせいです! 私が負傷兵を助けようなんて言ったから!」
昨日から何をやっているのか。自分が情けなくて、どうしようもない。
何かをすれば、全てが誰かを傷つけることになってしまっている。
涙が止まらなかった。
昨夜から溜まっていた感情が、堰を切ったように溢れ出した。
「泣くな」
長脛彦が私の頭に手を置いた。
「これが戦だ。誰かのせいではない。傷つけ合い、殺し合う。ただそれだけだ。」
その目には、もう自ら立って戦えないことへの絶望が浮かんでいた。
杖をつかなければ歩けない体。
もう、おそらく戦場に立つことはできない。
「次は……どう戦えばいいのだ?」
父が途方に暮れていた。
軍師を失った登美に、もはや勝ち目はないように思えた。
織田信長――五瀬命は、一滴の血も流さずに、我々の要を奪ったのだ。
しかし、五瀬命の軍は、そのまま引き返していった。
このまま侵攻しても、消耗戦になることを見越したためなのか。
いずれにしても、我々は、首の皮一枚残して、まだ、生き残っている。
私は震える手を見つめた。
戦いで人が傷つき、策略で味方が倒れる。
これが現実なのだ。
でも、前に進むしかない。
長脛彦が言ったように、苦しみながらも歩み続けるしかない。
たとえ、その道がどんなに辛くとも。




