第五話 水を巡る争い
葛城から戻って半月ほど経った頃、領内に緊張が走った。
「山辺氏が川の水を止めてきた!」
「川の水を止めるって、どういうこと?」
「田にはこれからまだまだ水がいる、今年は雨が少なく、川の水量が例年の半分ほどしかない。
上流に位置する山辺氏が、自分たちの田に水を引くために堰を作り、水を溜める池を作った。
これでは、下流のわれわれのところにはほとんど水がこなくなる。」
農民たちが血相を変えて報告に来たのだった。
山辺氏は我々の東側に領地を持つ小豪族だ。
「なんということだ」
父の顔が青ざめた。
「水がなければ、せっかく増えた収穫が逆に災いになって、餓死者が出る」
「やむを得ぬ。すぐに兵を集めろ! 堰を壊しに行く!」
若い戦士たちが殺気立った。
みな、剣や槍を手に取り始める。
これに先ほどの農民も、一緒に行って堰を壊そうと、騒ぎ出した。
「待って!」
私は慌てて前に出た。
「戦はダメだ! 死者が出るかもしれない」
「では、このまま田畑を枯らせというのか!」
一人の農民が怒鳴った。
確かにその通りだ。でも……。
「話し合いで解決できるはずだ」
私の言葉に、皆が困惑した顔をした。
「若様、相手は既に水を止めた。このままでは私たちは死を待つだけだ。」
タジが心配そうに言う。
どうしたらいいのだろうか。考えても分からない
「でも、山辺だって困ってるんでしょう? 同じ小豪族同士、争ってたら、みんなもっと苦しくなる。
われわれが弱ったら、葛城のような大豪族は、黙っていません。結局彼らを喜ばすだけになってしまう。」
長脛彦の教えを思い出す。
『人は利益があれば動く』
「父上、私に任せてください」
父は長い間、私を見つめていた。
「……わかった。だが、どうするつもりだ。彼らとは、今まで、協力しあってきた仲だ。お前がいってもいきなり傷つけることはあるまいが、
もしものこともある。護衛はつけよう」
私は数人の護衛と共に、山辺氏の館へ向かった。
道中、干上がりかけた田を見て胸が痛んだ。
山辺の領地に入ると、こちらの田も同じように水不足で苦しんでいるのがわかった。
「登美の若様がお越しです」
館の門で告げると、すぐに通された。
現れたのは、私より少し年上の若い族長だった。
山辺ヤマトヒコ。父が亡くなり、最近家督を継いだばかりだという。
「これは……登美の若様とは」
彼も困惑していた。
まさか子供が交渉に来るとは思わなかったのだろう。
「水のことで、お話があります」
私は懐から木簡を取り出した。
昨夜、必死に考えて書いたものだ。
「これは?」
「約束の証です」
木簡には、文字でこう書かれていた。
『登美と山辺 水の約定
昼は山辺 夜は登美
登美より米を謝礼として』
この時代、まだまだ、文字を読みこなす者は少ない。
ヤマトヒコは文字は読めるだろうが、文章にすると、漢文になり、
意味が伝わらない。あえて単語だけを書いたものを見せたのだった。
山辺ヤマトヒコは木簡を見て、苦笑した。
「ニギよ。なんだこれは、お前も、私と同じく、若いとはいえ苦労して、一族を代表しているのではないのか?
字の練習か?」
「これはわれわれがこれから仲良く、水を分け合うことを示す証として持ってきました。
「堰に水路を通して、夜だけ、我々登美に水を流してください。
これによって、すべての田畑は無理でも、かなりの田畑をギリギリで収穫を上げることができます。
多くの餓死者を救えます。お礼に収穫できた米の一部を山辺に送りましょう。」
「なるほど……時間で分けるというわけか」
「しかし、それでは登美が損をするのでは?」
「戦をするよりマシです」
私は真っ直ぐに彼を見た。
「それに、来年も再来年も、ずっと水で争い続けるんですか?」
山辺ヤマトヒコは黙り込んだ。
「実は……」
やがて彼は口を開いた。
「我々も困っていたのです。水を止めたくはなかったが、このままでは民が死ぬ、死なせるわけにはいかぬのだ。」
「だったら、一緒に考えましょう」
私は身を乗り出した。
「葛城みたいな大豪族は、たくさん水路を持ってる。でも、私たちみたいな小豪族は、一つの川に頼るしかない」
「確かに……」
「だから、協力するしかないんです。今日は水、明日は何か別のことで、お互いに助け合えるかもしれない」
山辺ヤマトヒコは考え込んだ。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……わかりました。この約定を受け入れましょう」
「本当ですか!」
「ただし」
彼は真剣な顔で続けた。
「これは一時しのぎに過ぎません。根本的な解決には、新たな水源を見つけるか、葛城のような灌漑設備が必要です」
「はい、わかってます」
私は頷いた。
「でも、今は生き延びることが大事です」
約定は、その場で二枚の木簡に記された。
一枚ずつを、それぞれが持ち帰ることにした。
「ニギ様」
別れ際、山辺ヤマトヒコが言った。
「いずれ、東側の小豪族で集まりませんか。葛城への対抗は一族だけでは難しい」
「はい、ぜひ」
館に戻ると、父が安堵の表情で迎えてくれた。
「本当に話し合いで解決したのか」
「うん。約束の木簡も作った」
私は誇らしげに木簡を見せた。
「山辺さんも、葛城に対抗したがってた。味方になってくれるかも」
「そうか……」
父は複雑な表情をした。
「お前は、私よりも先を見ているのかもしれんな」
その夜、水路に水が戻ってきた。
約束通り、夜の間だけだが、それでも十分だった。
「若様のおかげだ!」
農民たちが喜んでいる。
でも、私は手放しでは喜べなかった。
これは一時的な解決に過ぎない。
いつか、もっと大きな力が必要になる。
でも、今日は一歩前進した。
山辺という味方も得た。
小さな一歩でも、積み重ねていけばきっと……。
日が落ちて夕暮れには一番星が瞬いていた。
あの星のように、いつかは一番星としてなってみたい。
ふと、柄にもなくそんなことを考えてしまった。




