表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

21/23

第二十一話 邪馬台国の日々

 邪馬台国に来てから、すでに七日が過ぎていた。


 台与との会談は続いているが、援軍の準備には時間がかかる。

 その間、私は邪馬台国の豊かな生活を体験することになった。


 「ニギ様、朝餉の準備ができました」


 女官が優雅に頭を下げる。


 この国の朝は早い。

 日の出と共に人々は活動を始め、市場には新鮮な魚や野菜が並ぶ。


 「ありがとう」


 食事は質素だが、味付けが洗練されている。

 大和とは違う、独特の香辛料が使われていた。


 「これは何という香辛料だ?」


 「南の島々から運ばれてくる胡椒でございます」


 女官が答えた。


 「海の交易路を通じて、様々な品が入ってきます」


 なるほど、邪馬台国の豊かさの秘密は、交易にあるのか。


 朝食後、台与に招かれて宮殿の庭を散策した。


 「ニギ様、我が国はいかがですか」


 「素晴らしい国です。民も豊かで、活気がある」


 「それも五瀬様のおかげです」


 台与は微笑んだ。


 「交易の重要性を教えてくださったのも、五瀬様でした」


 庭園には、見たことのない花々が咲いていた。

 南国の植物だろうか。


 「ところで、ニギ様」


 台与が立ち止まった。


 「実は、お会いいただきたい人がいます」


 「誰でしょうか」


 「我が国の軍師です。変わり者ですが、優秀な人物です」


 宮殿の一室に案内されると、そこには一人の青年がいた。


 二十代半ばだろうか。

 端正な顔立ちで、凛とした雰囲気を纏っている。

 

 だが、その瞳は深く、何を考えているのか全く読めない。


 「初めまして、ニギ殿」


 青年は深々と礼をした。

 

 その所作は完璧で、隙がない。


 「私は神倭伊波礼毘古命。イワレビコとお呼びください」


 私は息を呑んだ。


 神倭伊波礼毘古命……後の神武天皇となる人物。

 そして、五瀬殿の弟。


 「五瀬殿の……弟君ですか」


 「はい」


 イワレビコは静かに答えた。

 

 その表情からは、何の感情も読み取れない。


 台与が説明を加えた。


 「イワレビコ様は一年前、邪馬台国を訪れました」


 「兄上の安否を尋ねて、ここまで」

 

 「そして、そのまま留まり、我が国の軍事顧問として力を貸してくださっています」


 イワレビコは謙虚に頭を下げた。


 「台与様のご厚意に甘えているだけです」


 「兄上の消息を待つ間、少しでもお役に立てればと」


 私は改めてイワレビコを観察した。

 

 礼儀正しく、言葉遣いも丁寧。

 だが、その完璧さが逆に不気味でもある。


 「兄上は、ご無事です」


 私が伝えると、イワレビコの表情が一瞬だけ変わった。

 

 安堵か、それとも別の感情か。

 すぐに元の無表情に戻ってしまった。


 「それは、何よりです」


 淡々とした口調だった。


 「詳しくお聞かせ願えますか」


 私は大和での出来事を説明した。

 

 五瀬殿の戦い、長脛彦の犠牲、そして東への撤退。


 イワレビコは黙って聞いていた。

 時折、小さく頷くだけで、感情を表に出さない。


 「なるほど」


 話が終わると、イワレビコは一言だけ呟いた。


 「兄上らしい」


 それが褒め言葉なのか、皮肉なのか、判断できなかった。


 午後、私はイワレビコの案内で邪馬台国の軍事施設を見学した。


 「これが我が国の主力部隊です」


 整然と訓練を行う兵士たち。

 その数、五千はいるだろうか。


 「精強な軍だ」


 「そうでしょうか」


 イワレビコは兵士たちの動きを冷静に観察していた。

 

 その目は、まるで将棋の盤面を見るように、全体を俯瞰している。


 「葛城と戦うには、不十分ではないでしょうか?」

 「私は、葛城兵を見たことはありません。しかし、多くの戦いの中で

 鍛えられた精強な兵たち」

 「我々は、まだ十分な実戦を体験していません」

 「実戦では、負けるのではありませんか」


 冷徹な物言いだった。


 「援軍として、どれくらい送れる?」


 「実戦に耐えうる部隊は、三千」


 イワレビコは即答した。

 

 まるで、事前に計算していたかのように。


 「ただし、海路での輸送を考慮すれば、一度に送れるのは千五百」


 「二回に分けることになります」


 その分析は的確だった。

 だが、感情が込められていない。

 

 まるで、他人事のように。


 その夜、歓迎の宴が開かれた。


 邪馬台国の重臣たちが集まり、私を温かく迎えてくれた。


 「五瀬殿の盟友を迎えられて、光栄です」


 老臣の一人が杯を掲げた。


 「我々も、新しい国づくりに協力したい」


 皆が賛同の声を上げる。


 宴の途中、イワレビコが私の隣に座った。

 

 無言で杯を傾ける。

 その横顔は、まるで能面のように無表情だ。


 「ニギ殿」


 不意に、イワレビコが口を開いた。


 「兄上は、なぜ東へ向かったのですか」


 「尾張に知己がいると聞いています」


 「そうですか」


 イワレビコは遠くを見つめた。


 「兄上は、いつもそうだ」


 「どういう意味ですか」


 「前へ、前へと進む。振り返ることなく」


 その言葉には、複雑な感情が滲んでいるように感じられた。

 

 だが、表情は相変わらず読めない。


 「イワレビコ殿は、なぜ邪馬台国に?」


 私は尋ねた。


 「できれば兄上と共に戦いたいと思っています」


 即答だった。


 「そして、ここで待つことにしました」


 「なぜ待つことに?」


 「兄上は、必ずここに使者を送ると思っていましたから」


 イワレビコは杯を置いた。


 「本当は、本人が戻ってくるかと思ったのですが、私の予想は、外れたようです」


 その声に、失望があるのか、安堵があるのか。

 

 やはり読み取れない。


 その時、台与が立ち上がった。


 「皆の者、聞いてください」


 宴席が静まり返った。

 

 台与の隣には、いつの間にかイワレビコが立っていた。


 「我々は、五瀬様を支援します」


 歓声が上がる。


 「第一陣として、千五百の兵を送ります」


 「イワレビコが指揮を執り、ニギ様と共に大和へ向かいます」


 私は驚いてイワレビコを見た。

 

 だが、彼の表情は微動だにしない。

 まるで、最初から決まっていたことのように。


 「承知しました」


 イワレビコは静かに頭を下げた。


 「台与様のため、邪馬台国のため、そして兄上のために、力を尽くします」


 その声は平坦だったが、台与は何か違和感を覚えたようだった。

 

 不安そうな表情で、イワレビコを見つめている。


 翌日から、出発の準備が始まった。


 兵の選抜、武器の準備、船の手配。

 イワレビコの指揮は的確だった。

 

 だが、その完璧さが、かえって不気味でもある。


 「見事な采配だ」


 私が褒めると、イワレビコは首を振った。


 「当然のことをしているだけです」


 感情のない返答だった。


 準備の合間に、私は台与と最後の会談を行った。

 

 イワレビコも同席していたが、壁際に立ったまま、一言も発しない。


 「ニギ様、これを」


 台与は一振りの剣を差し出した。


 「邪馬台国に伝わる宝剣です」


 美しい装飾が施された剣だった。

 不思議な力を感じる。


 「こんな貴重なものを」


 「五瀬様にお渡しください」


 台与の目に、強い意志が宿っていた。

 

 そして、一瞬イワレビコの方を見た。

 

 「イワレビコ」

 

 「はい」

 

 「五瀬命を……よろしくお願いします」

 

 台与の声には、何か言い尽くせない不安が滲んでいた。

 

 イワレビコは深く頭を下げただけで、何も答えなかった。


 「そして、必ず戻ってきてください」

 

 台与は私に向き直った。


 「はい、必ず」

 

 だが、台与の不安そうな表情は、最後まで消えなかった。


 出発の前夜、私は一人で邪馬台国の街を歩いた。


 平和な街並み。

 笑顔で暮らす人々。


 これが、我々が目指すべき国の姿だ。


 「美しい夜です」


 背後から声がした。

 振り返ると、イワレビコが立っていた。


 「眠れないのですか」


 「いえ」


 イワレビコは空を見上げた。


 「明日から、兄上の元へ向かう。それを思うと」


 初めて、感情らしきものが声に滲んだ。


 「兄上に会うのを、楽しみにしているのですか」


 「……分かりません」


 意外な答えだった。


 「兄上は、強い人です。常に前を向き、決して立ち止まらない」


 イワレビコは続けた。


 「私は、そんな兄上を追いかけてきました。でも……」


 「でも?」


 「時々、思うのです。兄上は、何を見ているのだろうと」


 その横顔に、初めて人間らしい迷いが浮かんだ。

 

 だが、すぐに元の無表情に戻ってしまった。


 「失礼しました。忘れてください」


 そう言って、イワレビコは去っていった。


 私は一人、夜空を見上げた。

 

 この謎めいた弟は、五瀬殿との再会で何を思うのだろうか。


 翌朝、ついに出発の時が来た。


 港には、千五百の精鋭が整列していた。

 皆、士気が高い。


 「行ってらっしゃい」


 台与が見送りに来ていた。


 「ニギ様、そして兵士の皆さん」


 「邪馬台国の誇りを胸に、戦ってください」


 「はい!」


 兵士たちの声が、朝の空に響いた。


 船に乗り込みながら、私は思った。


 これで、反撃の準備が整った。

 五瀬殿、もう少しだけ待っていてください。


 必ず、援軍を連れて戻ります。


 船が港を離れ始めた。


 新たな戦いへ向けて、船は出航した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ