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第二話 生駒の賢者

 私は八つ(数え年)になった。

 

 朝まだ暗いうちに目が覚めた。

 竪穴住居の中は冷え切っていて、薄い麻布一枚では寒さを防げない。体を丸めても、土の床から冷気が這い上がってくる。

 ヤマトの盆地、冬の寒さは厳しい。家の中でも、油断すると氷がついているものがある。

 

 隣では、傅役の老爺タジがすでに起きていた。

 彼は私が目覚めたことに気づくと、無言で頷いた。


 「若様、お目覚めですか」


 私は黙って身を起こした。

 背中が少し痛む。ゴザの下の固い土だが、もうずいぶん慣れたものだ。ベッドに寝れたらと一瞬思う。

 

 朝食の支度をする音が聞こえる。

 母が、かまどの前で粥を煮ているのだろう。


 竪穴から這い出ると、まだ星が見える空の下、集落はひっそりと静まり返っていた。

 井戸まで歩き、冷たい水で顔を洗う。

 

 手がかじかむ。

 前世なら温かいシャワーがあった。蛇口をひねれば湯が出た。

 だがここでは、冬の朝の水は氷のように冷たい。


 家に戻ると、父が既に起きていた。

 いや、もしかすると一晩中起きていたのかもしれない。

 

 最近の父は、日に日に憔悴していく。

 葛城からの貢納要求が、月を追うごとに増えているからだ。


 「また葛城から使者が来る」


 父の声は枯れていた。


 「今度は何を要求してくるのか……」


 母が不安げに尋ねる。


 「わからぬ。だが、秋に収めたばかりであるのに、この冬に入ってから又だ」


 私は黙って粥をすすりながら、父の話を聞いていた。

 

 前世の歴史知識では、この時期の葛城氏は確かに強大だった。

 

 「吉備との争いが激しくなっているらしい」


 父が続ける。


 「西の吉備が、淡路の海人と結んで海から摂津を奪うことを欲している。葛城は対抗するために、軍備を整えねばならん」


 吉備。現在の岡山県にあたる地域の豪族だ。

 瀬戸内海の交易路を押さえ、鉄器生産で力をつけていた。

 

 「和泉河内の諸豪族も不穏な動きを見せているという。彼らは半島との交易で富を築き、独自の勢力を形成しつつある」


 さらに父は声を落とした。


 「出雲も蠢動を始めた。日本海側の要衝として、ヤマトの地を脅かしている」


 葛城はこれらの勢力に対抗するため、配下の豪族からより多くの物資と人員を徴発する必要に迫られていた。

 そのしわ寄せが、我々のような小豪族に来ているのだ。


 「このままでは、登美も……」


 父の言葉が途切れる。


 「何か方法があるはずです」

 

 私は言った。

 前世の記憶では、葛城氏はいずれ衰退するはず。

 だが、それをどう説明すればいい?

 そもそも、歴史が同じ流れを辿る保証もない。


 「生駒の山に、賢者と呼ばれる者がいると聞きました」


 私は思い切って言った。

 村人たちの噂話で聞いたことがあった。

 かつてはおおしの長として河内で名を馳せた武人だが、今は生駒の山で隠居していると。


 「長脛彦ナガスネヒコか」


 父の表情が複雑になった。


 「あの者は確かに知恵者だが……変わり者でもある。近づく者は少ない」


 「でも、もしかしたら」


 私は身を乗り出した。


 「何か知恵を授けてくれるかもしれません」


 父は長い沈黙の後、深くため息をついた。

 

 「やはり無理だ。彼は河内の凡一族、すでに吉備と組んでいるかもしれん」


 私は、虚しく引き下がるしかなかった。

 朝食を終えると、こっそり一人で生駒に向かうことにした。

 朝食の一部も昼食用に懐に入れている。

 こっそり出かけると、後ろから…来る。タジだ。

 「やっぱり向かいますか?」

 「何のことだ」

 「連れ戻されたいのですか」

 「まいった。でもなぜ分かった」

 「顔見れば、懐を見れば、分かります」

 「速聴からもいってくれと頼まれました。山は危険だと」

 「おとうさんも」

 もう何も言えなかった。


 私はタジと共に生駒の山へ向かった。

 

 道中、荒れた田畑が目についた。

 葛城への重い貢納で、農民たちは働く意欲を失っている。

 作っても作っても奪われるなら、最低限しか作らない。

 

 当然の帰結だった。


 「若様、本当に行かれるのですか」


 タジが心配そうに言った。


 「長脛彦様は、気難しい方だと聞きます。下手に機嫌を損ねれば……」


 「でも、このままでは」


 私は拳を握った。

 無力な子供の体が憎い。

 知識はあっても、それを活かす力がない。


 山道を登っていくと、やがて小さな畑が見えてきた。

 

 私は息を呑んだ。

 

 周囲の荒れた田畑とは違い、そこだけが整然としていた。

 土が美しく盛り上げられ、畝が真っ直ぐに伸びている。

 作物も青々として、明らかに他とは違う。


 「これは……」


 タジも驚きの声を上げた。


 畑の中央で、大柄な老人が黙々と鍬を振るっていた。

 その動きは老人とは思えないほど力強い。

 

 私たちに気づいているはずだが、振り返ろうともしない。


 「長脛彦様でしょうか」


 私は恐る恐る声をかけた。

 

 老人の手が止まった。

 ゆっくりと振り返ったその顔は、深い皺が刻まれていたが、眼光は鋭く生きていた。


 「……誰だ」


 低い声だった。

 値踏みするような視線が、私を射抜く。


 「登美のニギと申します。登美が葛城に苦しめられています。どうか、知恵をお貸しください」


 私は深く頭を下げた。

 

 長い沈黙が流れた。


 「知恵?」


 長脛彦は鼻で笑った。


 「知恵などいくらでもある。だが、実行する力がなければ意味がない」


 「でも……」


 「この畑を見ろ」


 長脛彦は自分の畑を示した。


 「なぜ、ここだけが豊かだと思う?」


 私は畑を見回した。

 畝の作り方、水路の配置、すべてが計算されている。


 「効率的だからです」


 「それだけではない」


 長脛彦は鍬を地面に突き刺した。


 「ここは『私の土地』だからだ。努力の成果が、すべて自分に返ってくる。だから人は働く」

 

 その言葉に、私ははっとした。いや知っていた。社会主義国家が失敗したことを。今更ながら恥ずかしい。

 

 「民に……土地を?」


 「簡単に言うな」


 長脛彦の声が厳しくなった。


 「既得権益を持つ者たちが、易々と手放すと思うか? 変革には血が流れる」


 確かにその通りだ。

 しかし、このままでは緩やかに滅びるだけ。


 「それでも」


 私は顔を上げた。


 「何もしないよりはましです」


 長脛彦は私をじっと見つめた。

 やがて、その厳しい表情が少し和らいだ。


 「……面白い童だ」


 彼は懐から干し芋を取り出し、私に投げてよこした。


 「食え。話はそれからだ」


 私は素直に受け取り、口に入れた。

 素朴な甘さが広がる。


 「ニギか。まさか饒速日か。まさかな。いい名だ」


 長脛彦は自分も干し芋を齧りながら、遠くを見た。


 「わしもかつては、河内摂津の豪族のおおし一員だった。だが、いくら知恵があってもどうしようもないこともある。」

 「残念ながら、力不足よ」


 その声には、苦い思い出が滲んでいた。


 「力のない正義など、無意味だと思い知らされた」


 「でも、今も畑を耕しておられる」


 私の言葉に、長脛彦は初めて笑みを見せた。


 「そうだな。諦めきれぬ何かがあるのかもしれん」


 彼は立ち上がり、畑の端にある小屋へ向かった。


 「ついて来い」


 小屋の中には、様々な農具が整然と並んでいた。

 どれも手入れが行き届いている。


 「これを持って帰れ」


 長脛彦が示したのは、小さな鉄の鋤だった。


 「これは……」


 「わしが作った。形を真似て、木でも作れる。効率が三割は上がる」


 私は驚いた。

 農具の改良。それは確かに、すぐにできることだ。


 「ただし」


 長脛彦の表情が再び厳しくなった。


 「小手先の改良だけでは、根本は変わらん。いずれ、もっと大きな決断が必要になる」


 「はい」


 「その時は、また来い。お前が本気なら、もっと教えてやろう」


 帰り道、私は鉄の鋤を大切に抱えていた。

 

 「若様、本当に良かったのですか」


 タジが心配そうに言う。


 「あの方は、確かに知恵者ですが、危険な思想の持ち主とも……」


 「危険?」


 「民に土地を与えるなど、今の秩序を覆すことです」


 確かにその通りだ。

 だが、今の秩序のままでは、登美に未来はない。


 館に戻ると、父が待っていた。


 「どうだった?」


 私は鉄の鋤を見せ、長脛彦との会話を報告した。

 父は複雑な表情で聞いていた。


 「農具の改良か……確かに、それなら……」


 「まずは、これを木で作って、農民たちに配りましょう」


 私の提案に、父は頷いた。


 「そうだな。小さなことから始めよう」


 その夜、私は考えた。

 長脛彦の言葉は重い。

 いずれ、もっと大きな決断が必要になる。

 

 その時、私は決断できるだろうか。

 

 窓の外では、冬の星が冷たく輝いていた。

 葛城の重圧は増すばかりだが、今日、小さな希望の種を手に入れた。

 

 でも饒速日って言ったよな。何者か?もしかしたら長髄彦さんも転生人なのか?

 

 疑問は疑問のままだ。きっと良い日が来るだろう。今はそれを信じるだけだ。

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