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第十七話 南への道

 「南へ……向かえ……」


 私は指示を出した。


 「南へ?」


 「そうだ……紀伊へ……」


 史実では、五瀬命は紀伊で死ぬ。

 だが、私にはまだ希望がある。


 この傷で死ぬかもしれない。

 だが、死ぬ前に、種を蒔いておかなければ。


 新しい国への、希望の種を。


 撤退する我が軍を、遠くから葛城の斥候が見ていたことだろう。

 弱った方を叩く。

 それが葛城の狙いだ。


 だが、そう簡単にはいかない。

 私にも、まだ策がある。


 血に染まった鎧を見つめながら、私は決意を新たにした。


 この命、最後まで使い切ってみせる。

 民のために。

 新しい時代のために。


 孔舎衙坂の敗北。

 それは終わりではなく、新たな始まりとなるはずだ。


 たとえ、私がいなくなっても。


 撤退から三日目。

 我々は河内の南部に野営していた。


 「五瀬様、傷の具合は」


 薬師が心配そうに尋ねた。


 「なんとか……持っている」


 実際には、かなり厳しい。

 矢は深く刺さり、毒が塗られていたのか、傷口が化膿し始めていた。


 「このままでは……」


 薬師の顔が青ざめた。


 「紀伊まで持てば良い」


 私は微笑んだ。


 「紀伊には、古くから薬草の知識を持つ者がいると聞く」


 それは、半分嘘だった。

 史実では、五瀬命は紀伊で息を引き取る。

 だが、その前にやるべきことがある。


 「五瀬様!」


 斥候が駆け込んできた。


 「葛城軍が動き出しました! 追撃してくるようです!」


 やはり来たか。

 弱った獲物を仕留めに。


 「数は?」


 「二千ほど。本隊のようです」


 今の我々では、まともに戦えない。

 負傷者も多く、士気も下がっている。


 「罠を仕掛ける」


 私は地図を広げた。


 「この狭い谷で、奇襲をかける。全滅は無理でも、追撃を諦めさせることはできる」


 「しかし、五瀬様の傷が」


 「問題ない」


 私は立ち上がった。

 激痛が走るが、顔には出さない。


 翌日の夜明け前。

 我々は谷の両側に伏兵を配置した。


 やがて、葛城軍が無警戒に谷に入ってきた。

 敵はこちらにはすでに戦う力は残っていないと見て、油断している。


 「今だ!」


 私の合図で、両側から矢と石が降り注いだ。


 「伏兵だ!」


 「罠だ!」


 葛城軍は大混乱に陥った。

 狭い谷では、身動きが取れない。


 「突撃!」


 私は痛みをこらえて馬を駆った。

 混乱した敵陣に切り込み、次々と敵を倒していく。


 だが、その時、傷口から鮮血が噴き出した。


 「うっ……」


 視界が霞む。

 意識が遠のきそうになる。


 「五瀬様!」


 部下が支えてくれた。


 「もう十分です! 撤退しましょう!」


 確かに、目的は達した。

 葛城軍は大打撃を受け、しばらくは追撃できまい。


 「紀伊へ……急げ……」


 私はなんとか命じた。


 それから数日後。

 我々は紀伊の山中に入っていた。


 傷はさらに悪化し、私はもはや馬にも乗れなくなっていた。

 担架で運ばれながら、朦朧とした意識の中で考える。


 長脛彦は、なぜ私のことを知っていたのか。

 第六天魔王……前世の名を。


 もしかすると、この世界には他にも転生者がいるのかもしれない。

 だとすれば、歴史はどう動くのか。


 「ここで良い」


 私は部下に命じた。


 紀伊の国見峠。

 眼下に紀伊平野が広がっている。


 「皆を集めてくれ」


 三千だった軍勢も、今では二千を切っていた。

 それでも、皆が私の周りに集まってきた。


 「聞いてくれ」


 私は最後の力を振り絞った。


 「私は……もう長くない」


 悲鳴が上がった。

 皆が動揺している。


 「だが、我々の戦いは終わらない」


 私は続けた。


 「新しい国を作る。民が安心して暮らせる国を」


 「その夢は、私一人のものではない。皆のものだ」


 部下たちが涙を流していた。


 「南へ行け。熊野へ」


 私は指示を出した。


 「そこで力を蓄えろ。いつか必ず、大和へ戻る時が来る」


 「しかし、誰が我々を導くのですか」


 副将が尋ねた。


 「それは……時が来れば分かる」


 私は微笑んだ。


 神話では、五瀬命の後、神武天皇が東征を完成させる。

 だが、この世界に神武はいない。


 ならば、新たな指導者が現れるはずだ。

 民の願いが、新たな英雄を生むだろう。


 「一つ、約束してくれ」


 私は血を吐きながら言った。


 「決して、民を苦しめるな。民のための国を作れ」


 「はい!」


 皆が誓ってくれた。


 夕日が山々を赤く染めていた。

 美しい光景だ。


 前世では、炎の中で死んだ。

 今世は、この美しい夕日を見ながら……。


 「五瀬様」


 一人の老兵が前に出た。


 「私は、あなたに救われた村の者です」


 そうか、あの最初の村の。


 「あなたのおかげで、希望を持てました。ありがとうございました」


 次々と、民たちが感謝の言葉を述べてくれた。


 ああ、これで良かったのだ。

 前世では得られなかった、民の真の感謝。


 「皆……ありがとう……」


 意識が薄れていく。

 これで終わりか……。


 その時だった。


 「カァー、カァー」


 鴉の鳴き声が聞こえた。

 いや、違う。人の声だ。


 「まだ息がある! 急げ!」


 朦朧とした意識の中、黒い影が幾つも現れた。

 黒い羽根のような衣を纏った者たち。


 「こ、これは……」


 副将が驚きの声を上げた。


 「八咫烏やたがらす……三つ足の鴉の一族」


 「我らは熊野の山に住む者」


 黒衣の一人が口を開いた。

 顔は布で覆われ、表情は見えない。


 「この者を助ける。我らに任せよ」


 「しかし、なぜ」


 「天の導きだ」


 鴉族の長らしき者が、私の傷を診た。


 「毒が回っている。だが、まだ間に合う」


 素早い手つきで、薬草を傷口に当てる。

 不思議なことに、激痛が和らいでいく。


 「この者は死なせぬ。まだ、役目が残っている」


 「役目?」


 「それは、時が来れば分かる」


 鴉族は担架を用意し、私を運び始めた。


 「待て! 五瀬様を何処へ!」


 部下たちが騒ぎ始めたが、鴉族の長が手を上げた。


 「案ずるな。必ず、生きて返す」


 「だが、この者には休息が必要だ。傷も深い」


 副将が苦渋の決断を下した。


 「……分かった。五瀬様を頼む」


 「賢明な判断だ」


 鴉族の長は頷いた。


 「お前たちは、熊野へ向かえ。そこで待て」


 「いずれ、この者も合流する」


 担架に揺られながら、私は最後の力で言葉を紡いだ。


 「皆……熊野で……待っていてくれ……」


 「はい! 必ず!」


 部下たちの声が、遠ざかっていく。


 黒い森の中へ、私は運ばれていった。

 鴉族の隠れ里へ。


 (なぜ、助けるのか……)


 薄れゆく意識の中で、私は思った。


 史実では、五瀬命はここで死ぬはず。

 だが、この世界では違う流れが生まれている。


 三つ足の鴉……八咫烏。

 神話では、神武天皇を導いた存在。


 もしかすると、彼らも何かを知っているのかもしれない。

 この歴史の歪みを。


 「眠れ、五瀬」


 鴉族の長の声が聞こえた。


 「お前にはまだ、成すべきことがある」


 深い眠りに落ちていく。

 でも、もう死の恐怖はなかった。


 新たな運命が、動き始めている。

 

 そして私は、意識を失った。

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