第十一話 巫女王の黄昏
私が日御子の軍事顧問となって半年が過ぎた。
私の前世の知識では「卑弥呼」として記憶されている人物だが、この時代の人々は違う呼び方をしていた。若い頃は「姫巫女」と呼ばれ、美しく神がかった力を持つ巫女として崇められていた。それが歳を重ね、国を統べる女王となってからは「日御子」と称されるようになった。太陽のように国を照らす存在として。
後世の中国の史書が「卑弥呼」と記したのは、蛮族の女王として蔑んだ当て字だったのだろう。
邪馬台国の改革は順調に進んでいた。
津守氏――いや、今は尾張氏で培った農業技術を導入し、収穫は増えた。
鉄器の使用も少しずつ広がり、兵の装備も改善された。
しかし、それは同時に周辺国の警戒を招くことでもあった。
「報告します!」
朝議の最中、物見が血相を変えて飛び込んできた。
「南の国境に狗奴国の軍勢が! 数は二千を超えます!」
重臣たちが騒然とした。
狗奴国は邪馬台国の南にある強国だ。
その王は火御子と名乗る男王。阿蘇の山々、火を噴く山を聖地とする一族の長だ。火の神の御子を称し、女王の支配を認めず、機を見ては攻めてくる。
私の前世の知識では「卑弥弓呼」として記されていたが、これも中国側の蔑称だったのだろう。実際は「火御子」――火山の力を背景に、好戦的な国を治める王。
日御子と火御子。
太陽と火山。
女王と男王。
まさに対照的な二人の支配者だった。
「また来たか」
私は溜息をついた。
これで三度目だ。
前回は撃退したが、損害も少なくなかった。
しかも狗奴国の戦い方は狡猾だった。
こちらが守りを固めれば引き、
隙を見せれば素早く攻めてくる。
決定的な勝敗をつけさせない、消耗戦に持ち込む戦法だ。
「どうする、五瀬」
日御子が私を見た。
最近の彼女は、ほとんど私に軍事を任せきりだった。
「今回も同じでしょう。収穫期を狙った略奪が目的です」
私は地図を広げた。
「ただし、今回は少し違う」
「何が違う?」
「数が多い。そして時期が早い。まだ稲は実っていません」
つまり、略奪ではなく、本格的な侵攻の可能性がある。
私は決断した。
「先手を打ちます。敵が布陣を整える前に奇襲をかけます」
しかし、それは罠だった。
我が軍が出撃すると、狗奴国軍は素早く撤退した。
追撃しようとすると、別働隊が側面から現れる。
「引け! 引くのだ!」
私は撤退を命じた。
結果、大きな損害もなく引き上げたが、士気は下がった。
敵に翻弄され、何も成果を上げられなかったのだ。
「まるで、こちらの動きを読まれているようだ」
陣幕で、私は唸った。
前世でも、こういう敵は厄介だった。石山本願寺との死闘を思い出してしまう。
正面から戦わず、じわじわと消耗させてくる。
あの際、私は鉄砲で打たれあわやという危機もあった。
そして、最も厄介なのは――。
「民が不安がっています」
これも本願寺と同じだ。
部下の報告に、私は顔をしかめた。
「女王様の霊力で敵を追い払えないのか、と」
それが狗奴国の真の狙いだった。
軍事的勝利ではなく、日御子の権威を失墜させること。
私は日御子に進言した。
「守りを固めましょう。今は無理に戦う時ではありません」
しかし、日御子は首を振った。
「それでは、民の不安は増すばかりだ」
彼女の顔には焦りの色が濃かった。
「何か、民を安心させる方法はないか」
「それは……」
日御子は私の顔をじっと見た。
「五瀬、お前は暦に詳しいそうだな」
嫌な予感がした。
「多少は」
前世では、南蛮人から西洋の暦法も学んだ。
この時代の人間より、遥かに正確な計算ができる。
「では、天の異変を予言してくれぬか」
「天の異変……日食のことですか」
「そうだ。私の霊力がまだ健在だと示すのだ」
私は慎重に答えた。
「可能ですが、天候次第では……」
「構わぬ。次の日食はいつだ?」
私は手元の記録を確認し、頭の中で計算を始めた。
前世の知識と、この地での観測記録を照らし合わせる。
「およそ二月後の朔日と思われます」
正確には、二月と三日後。
だが、それほどの精度は期待できまい。
日御子の目が輝いた。
「よし、それを民に告げよう」
「しかし、女王様……」
私の制止も聞かず、日御子は翌日の朝議で宣言した。
「聞け、我が重臣たちよ。天が我に告げた」
そして大祭の日。
数千の民衆が広場に集まった。
「二月後の朔日、太陽が欠ける! 昼が夜となる!」
民衆は恐怖の声を上げた。
しかし、女王の霊力は健在だという安堵の声もあった。
「しかし、この闇も、私の祈りで再び日の光に変えることができる。
安心せよ。」と
私は内心で頭を抱えた。
なぜそんなに断言してしまうのか。
二月はあっという間に過ぎた。
運命の日の朝。
空は厚い雲に覆われていた。
「晴れてくれ……」
私は必死に祈った。
計算に間違いはない。日食は必ず起きる。
だが、この雲では見えない。
正午前、民衆が広場に集まり始めた。
予定の時刻。
確かに、辺りが薄暗くなった。
しかし、それが雲のせいなのか、日食のせいなのか、誰にも分からない。
「どうなっている?」
「太陽は? 欠けているのか?」
民衆がざわめき始めた。
私は必死に叫んだ。
「雲の向こうで日食は起きている! この薄暗さがその証拠だ!」
しかし、民衆は納得しなかった。
「見えないではないか!」
「女王様の霊力でまず、雲をのかせろ……」
保守派の神官たちも、一緒になって騒ぎ立てる。
「これも五瀬が改革などするからだ!」
「男に頼るから天が怒った!」
しばらくして、曇り空の中日食は終わった。
人々の中には
「確かに火は翳っていた」という人もいたが、ほとんどの人にとって
いつもと変わらない1日だった。
その夜、日御子は私を呼んだ。
「五瀬……」
声に力がない。
一日で、十歳は老けたように見える。
「申し訳ございません。このようなことになってしまい……」
「分かっている。雲は誰にも操れぬ」
日御子は力なく微笑んだ。
「だが、民は理解してくれぬ。私の霊力は失われたと思っている」
「時が経てば……」
「もう、時はないのだよ、五瀬」
彼女の言葉は予言めいていた。
それから日御子の体調は急速に悪化した。
狗奴国は再び国境に圧力をかけ始めた。
国内でも、不穏な動きが相次いだ。
「五瀬を追放せよ!」
「新しい巫女を立てるべきだ!」
民衆からの声は高まっていった。
私の立場は日御子あってのものだ。
日御子の立場の弱体化は私の立場の弱体化そのものであった。
民衆の中からは、日御子の代替わりの声が起こりつつある。
もう昔の話だが、日御子が姫巫女と呼ばれていた頃、まだ彼女は特別なものではなかった。
当時は集団指導体制であったがその筆頭のものを指導者のことを御子様と呼んでいたそうである。
巫女であった彼女を当時の御子が自分が倒れた時に、姫巫女様と呼んでそのまま、亡くなったことから、
彼女の権威が高まった。
この時の彼女はまさに神がかっていた。指導者の中で、狗奴国と内通しているものを、言い当て、処分を下し、
農作物の、植える時期、収穫の時を宣言し、天候による災害を最小限にとどめ、さらには、病気のものまで、
直してしまっている。圧倒的な指導者となった。
今、民衆はまさにその時の姫巫女を求めていた。一部の指導者層からは、次期日御子として、まだ幼いが、
時々、神がかった発言をする台与を推す声もあった。
そんな中、日御子が倒れた。
「日御子様!」
朝議の最中、突然意識を失ったのだ。
薬師たちが駆けつけたが、もはやこれまでのように立って歩くこともできなくなってしまっていた。
私は毎日、日御子の床を訪れていたが、ほとんど意識が戻ることもなかった。
「もはや。これまでか」と
私も、覚悟を決めていた。
そんなある夜のこと、彼女が意識を戻した。私を呼んでいるとの連絡があった。
慌てて、駆けつけた。
「日御子さま。意識が戻られたようで、何よりです。」
「五瀬……来たか」
声は蚊の鳴くように小さい。
「私は、もう、長くはあるまい」
「そんなことは……」
「分かっている。老いには勝てぬ」
日御子は私の手を握った。
冷たく、骨ばった手だった。
「五瀬、昔の私は本当に未来が見えていた」
「はい」
「人の心も読めた。神の声も聞こえた」
彼女は遠い目をした。
「だが、それも若さゆえ。歳を取れば、誰もが普通の人間になる」
「日御子様は今でも……」
「慰めはいらぬ」
日御子は微笑んだ。
「ただ、一つ頼みがある」
「何なりと」
「この国を……民を……頼む」
その言葉に、私の胸が熱くなった。
前世、本能寺で死ぬ時、私は何を思っただろう。
天下布武? 自分の野望?
だが、この老女は最期まで民のことを思っている。
「必ず、お守りします」とは答えた。
安心させたかったのだ。
しかし、彼女亡き後、私には何の力もない。有力者が私をこのままにするはずがない。
良くて領国への帰還命令、悪くすればそのまま殺されるだろう。
どうしたものか、結論が出ないまま、時間だけが過ぎていった。
三日後の明け方、日御子は静かに息を引き取った。
偉大なる巫女王の、静かな最期だった。
葬儀は盛大に行われた。
大きな塚が築かれ、百人の殉死者と共に葬られた。
私はその光景を複雑な思いで見ていた。
殉死。
前世でも見た、無意味な風習。
だが、今の私にそれを止める力はない。
日御子の死後、予想通り混乱が起きた。
「以前のように物事は話し合いで決めよう。もう偉大なる日御子様はいないのだ」
「いや、日御子様亡き後、狗奴国との戦いに備えて男王御子を立てよう!」
「いや、今こそ代替わり、新しい巫女を!」
重臣たちの意見はバラバラに分かれてしまった。
その隙を狙って、狗奴国が本格的に攻めてきた。
「今度こそ邪馬台国を滅ぼす!」
火御子自ら、三千の兵を率いての侵攻だった。
この事態に、さすがの指導者層も、慌てた。
「この事態に対応できるのは、五瀬しかおらね」
「今回だけと限って、彼を向かわせるしかないようだ」
私は、奇しくも、敵の攻撃のよって首の皮一枚のところで助かった。
すぐさま、兵が集められたが、この混乱の最中、有力者たちは皆、兵を出したがらず、
かき集めた一千人の兵となった」
これでは敵三千と対峙するのは難しい。
私は決断した。
この兵の武力を背景に、一部有力者に働きかけ
「台与様を新しい女王に」
という流れを作った。
台与を日御子の宗女ということにして、まだ十三歳の彼女を擁立したのだ。
彼女をして、狗奴国撃退の命令を発してもらう。
これしか作戦を思いつかなかったのだ。
「幼すぎる!」
反対の声も多かったが、私は兵の力を見せて押し切った。
「今は団結の時です。内輪揉めをしている場合ではない」と。
しかし、私の予想以上に彼女には巫女としての才能があった。
まだ、何をしたわけでもないのに、周りの雰囲気が変わる。
言葉の一言一言に神聖な力が宿っているように感じられた。
「私を日御子と呼ぶものがいる。
しかし、それは違う。偉大なる日御子様はお隠れになられたが、
私の中にいる。私は台与である。」
「皆は、私の命に従うことができるのか」
皆は返答ができない。
この時、もともと彼女を女王に推していた有力者が、
異議を申し立てた。
「あなたの中に日御子様がいるというが、日御子には霊力が薄なわれていた。
そんなあなたは女王になれるのですか」
彼女が、彼を見た。
その瞬間だった。彼は急に苦しみ出した、首を押さえて
「息が詰まる。苦しい」と言いながら倒れた。
彼女は近づき、そっと彼に触れた。
途端に、彼は苦しみから解放された。
「まだ、意見はありますか」
台与は静かに尋ねた。
誰も何も言えなかった。
そして、初め小さく一人のものが
「台与さま、万歳」と口にした。
次々皆が唱和始めた。
最後には、皆大声で
「台与さま、万歳」と叫んでいた。
これで決まった。
先ほど苦しんだ奴。あれは芝居だったのか?
私は、疑わざるを得なかった。しかし、本当のところは、私にもわからないままだった。
そして、狗奴国との決戦に臨んだ。
台与の号令もあり兵力は互角となった。
しかし、士気ではまだ劣っていた。
まだ、台与の威光は一部のものにしか届かず、多くのものは単なるお飾りの少女と思っていたのだ。
私は台与を前面に立てた。
「見よ! 新しい女王様だ! 日御子様の霊力を継ぐ方だ!」
「この一戦が、邪馬台国の運命を決める。この戦いに負ければ、
日御子様が皆と作り上げた、この国はなくなり、狗奴国に支配さえれた
国となる。作物も今のようには取れなくなる。彼らには、神のお導きはないのだ。
今が、日御子様のご恩に報いる時ではないのか?
今が、皆で作ってきた邪馬台国を守る時ではないのか」と
少女とは思えない凛とした姿に、兵たちの士気が上がった。
戦いは激戦となった。
私も前線に立ち、剣を振るった。
前世の経験が、この体にも宿っている。
「押せ! ここが正念場だ!」
戦いは夕刻まで続いた。
両軍とも必死だった。
だが、ついに敵の陣形が崩れ始めた。
火御子の本陣から撤退の銅鑼が鳴り響く。
狗奴国軍は秩序を保ちながら、しかし確実に後退していった。
「勝った……勝ったぞ!」
兵たちから歓声が上がった。
台与が前に進み出た。
その小さな体から、不思議な威厳が放たれていた。
「皆の者、よく戦った。日御子様も天から見守っておられよう」
その言葉に、兵たちは涙を流した。
完全な勝利ではない。
火御子はまた攻めてくるだろう。
だが、今日のところは邪馬台国は守られた。
そして何より、台与という新しい指導者を得た。
私は戦場を見渡しながら、静かに決意を固めていた。
もう、私のここでの役目は終わったのかもしれない。




