第四楽章:鍵盤の前で
第4楽章:鍵盤の前で
授業が終わり、放課後の校舎は少し静かになった。
教室にいるのも落ち着かず、僕はまた音楽室の方へ足を向ける。
胸の奥がそわそわして、手のひらが少し冷たい。
音楽室の扉の前に立つと、まだギターは鳴っていない。
昨日、今日と深瀬の演奏を聴いて、胸の奥に小さな温かさが残っているけれど、
その一方で、ピアノに向かう自分にはいつも小さな抵抗がある。
(……触れたら、また間違えるかもしれない)
小さい頃、コンクールで二位になった日のことが頭に浮かぶ。
曲の最後まで弾けず、間違えるたびに父の怒声が飛んだ。
「なんでここで間違えるんだ!もっとちゃんと弾きなさい!」
鍵盤に指を置くたびに、叩かれるかもしれないという恐怖が付きまとった。
練習中も、家でも、どこにいてもその声は消えず、いつも心臓がぎゅっと締めつけられるようだった。
だから今も、ピアノに近づくことさえ怖い。
音楽室のドアの前に立つだけで、胸の奥がざわつく。
指先を鍵盤に置くなんて、まだ考えられない。
それでも、音楽は好きだ。
旋律や和音に耳を澄ませると、少しだけ心が軽くなる。
あの日、弾けなかった音――
父の声で潰されてしまった勇気――
そのどちらも、まだ胸に引っかかっているけれど、
触れなくても、そばにあるだけで、心はほんの少し動く。
僕はそっと息を吐き、音楽室の扉を少し開けて覗いた。
窓から差し込む光が、埃を淡く照らしている。
昨日の深瀬はいない。だからこそ、少し勇気を出して、音楽室の中に立ってみようと思った。
椅子の端に腰を下ろす。
指先はまだ鍵盤には触れない。
ただ座って、鍵盤を前にするだけで、胸の奥がぎゅっとなる。
あの日のことがフラッシュバックのように蘇り、心臓の奥で小さな不安が渦巻く。
(……まだ、弾けない)
それでも、心のどこかで小さな声が言っている。
「また、弾きたい」
指先がほんのわずかに動く。
触れることすらまだできないけれど、鍵盤の冷たさを手のひらで感じる。
その感触が、昨日、今日の深瀬のギターの音と重なって、
胸の奥が少しだけ軽くなる気がした。
「……いつか、弾けるかな」
小さくつぶやき、僕は椅子の背もたれに寄りかかる。
まだ音は鳴らさない。
ただ、そこに座って、触れて、感じる――
それだけで十分だった。
校舎の外から、放課後の風の匂いが微かに入ってくる。
音楽室は静かで、光も柔らかい。
昨日聴いたカノンの余韻が、胸の奥で少しずつ溶けていくような気がした。
そして、僕はそっと決めた。
明日も、またここに来よう。
ピアノの前に立って、少しずつ、少しずつ――弾く勇気を取り戻すために。




