第2楽章 風に混じるカノン
教室での緊張が少し落ち着いた昼休み。
僕は机に向かいながらも、
どこか落ち着かない気持ちを抱えていた。
思い出すのは、幼い頃のピアノのこと。
コンクールで二位になった日、間違えるたびに叩かれたこと。
「もっとちゃんと弾きなさい!」
父の声が耳に残り、
鍵盤に触れるだけで胸がぎゅっとなる。
だから今、ピアノに近づくことさえ怖い。
音楽室のドアの前に立つたび、
指先が鍵盤に触れることもためらってしまう。
それでも、音楽は好きだ。
旋律や和音に耳を澄ませると、胸の奥が少しだけ温かくなる。
――あの日、弾けなかった音。
――弾く勇気をくれなかった父の声。
僕はそっと息を吐く。
(……いつか、また弾ける日が来るのかな)
まだ指を置くことすらできないけれど、
音楽を聴くと
心のどこかが少しだけ軽くなる。
賑やかな教室から少し離れたくて、
僕は校舎の奥の廊下をゆっくり歩いていた。
そのとき――
ふと、空気の奥に細く伸びる音が混じった。
(……ギター?)
静かなアルペジオ。
どこか懐かしいような、やさしく降るみたいな音。
耳を澄ませると、曲の輪郭がゆっくりと浮かんでくる。
――パッヘルベルのカノン。
誰かが音楽室で弾いているらしい。
この学校で、ギターでクラシックを弾く人がいるなんて思わなかった。
好奇心というより、ただその音に引っ張られるように、
僕の足は音楽室へ向かっていた。
扉の前に立つと、音がさらに明確になる。
規則正しく流れる分散和音。
とても丁寧で、揺れがなくて、
それでいて少しだけ孤独な響きがした。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。
(……誰だろう)
そっとドアに手をかけた。
開けるべきか迷った。
勝手に入るのは失礼かもしれない。
けれど、立ち去るにはあまりにも音が綺麗すぎた。
息をゆっくり吐いて、意を決してドアを押す。
ギィ……と音を立てながら開いた扉の向こう。
窓からの光の中、ひとりの男子がいた。
背中越しに見えるギター。
指が弦の上を滑るたび、柔らかい音が室内に広がっていく。
声をかける勇気なんてもちろんない。
ただ、見つめることしかできなかった。
彼は弾き終えると、静かに肩を落とした。
演奏後の余韻を味わっているようでもあり、
何かを考えているようでもあった。
僕はそのまま息を殺すように立っていたが、
ほんのわずかな物音で気づかれてしまう。
彼が、ゆっくりとこちらを向いた。
「あ……」
短い吐息みたいな声。
驚いた表情。
僕の心臓も、少しだけ跳ねる。
言葉がうまく出なくて、
それでも無言でいるのはもっと変な気がして、
慌てて口を開いた。
「……その、今の……すごく綺麗だった」
気づけば、胸の奥に浮かんだままの感想が漏れていた。
彼は一瞬だけ目を瞬き、
それからほんのり照れたように口元をゆるめる。
「……ありがとう」
それだけなのに、
さっきまでとまったく違う空気が流れ込んでくる感じがした。
沈黙が落ちる。
けれど、嫌な沈黙ではない。
少しだけ気まずいけれど、妙に落ち着く空気。
彼の指が、ギターの弦にそっと触れる。
「今日は……弾こうか迷ってたんだけどね」
「迷ってた?」
「うん。なんとなく。気分」
そう言って、彼は窓の外をぼんやりと見る。
その横顔には、少しだけ影があった。
僕は何も言えないまま立っていたが、
どうしても聞きたくて言葉が落ちる。
「……君がギターで弾くこの曲、大好きなの。」
言った瞬間、
自分で自分に驚いた。
彼はまた少しだけ驚いた顔をして、
今度はゆっくりとうなずいた。
「そっか。……なんか、嬉しい」
昼休みの終わりを告げるチャイムが、
遠くから小さく響いた。
僕は少し身を引き、
そっと頭を下げて音楽室を出る。
扉を閉める前、
彼がまだこちらを見ているのがわかった。
名前も知らないのに――
たった数分の会話なのに――
胸の奥が、どこか不思議な音を立てていた。




