チンパルキ
私の両親は、「学ぶ」という行為を、憎んでいた。
彼らにとって「学ぶ」とは、敗北を意味する。他者の正しさを認め、自らの無知を衆目に晒すことは、耐え難い屈辱だった。
父、正は、カーナビを「思考を怠惰させる悪魔の箱」と呼び、己の勘だけを頼りに見知らぬ土地で迷走を繰り返した。その結果、私たちは真夜中の山道でガス欠を起こし、暗闇から響き渡る獣たちの鳴き声に怯えながら夜を明かしたこともある。
母、聡子は、調理家電の取扱説明書を「思考を鈍らせ、機械の奴隷とするための呪文書だ」と言ってベランダで火をつけて燃やし、結果として、新品のオーブンを鉄屑に変えた。
彼らが唯一、絶対の真理としてその身も心も捧げていたのは、「川崎曼荼羅防衛隊」というカルト集団の、血塗られた教えだけだった。歴史も、科学も、医術すらも、防衛隊の教義に反すればすべて悪と見なされた。
彼らが信じるのは、防衛隊の教えに沿った自らの「思考」のみ。それは、経験や知識という骨格を完全に欠いた、病的な妄想だった。
その病理が、最もおぞましい形で噴出し、一家を地獄に変えたのが、あの夏の日のことだ。
母が買ってきた牛肉のブロックは、数週間前からキッチンのカウンターに放置されていた。真夏の湿気と室温が、培養器となっていた。肉の表面は鈍く光り、ぬめりとした粘液が薄い膜を張っている。ハエが産み付けたのか、微小な白い粒がいくつか付着しているようにも見えた。皿に溜まった血は、既に濁り始め、甘ったるい腐敗臭を静かに放っていた。
私はそれを見るなり、叫んだ。
「お母さん、それ!もう捨てて!常温だったじゃない!毒だよ!食べたら死ぬよ!」
私の言葉は、経験と知識に裏打ちされた警告だった。食品衛生学の講義で見た、菌の増殖曲線、ニュースで見た、食中毒患者の苦悶の表情、生物の教科書に載っていた、腐敗が毒を生成する過程。それら全てが私の頭の中でけたたましく警報を鳴らしていた。これはもはや、「思考」するまでもない、明白な事実だった。
しかし母は、私の警告を見下し、侮蔑するように鼻を鳴らした。
「また本の受け売り?雪、自分の頭で考えなさい。生きていた牛だって常温の中にいたのよ」
父がリビングからぬっと現れ、私の肩を掴んだ。その指の力は、骨が軋むほどに強かった。
「そうだぞ、雪。親の言うことを素直に聞けないのか。プライドが高いのもいいが、根拠のない断言は、醜いぞ」
逆だった。無知と妄信を「思考」と呼び、プライドという名の鎧で固めているのは、あなたたちの方だ。
私は、この家で幾度となく繰り返されてきた不毛なやりとりを諦め、最後の防衛線を張るしかなかった。
「わかった。でも、私は絶対に食べない。あなたたちがどうなっても、私は知らないから」
その言葉が、彼らの歪んだ自尊心という名の、乾ききった導火線に火をつけた。
夕食の時間、それは儀式の始まりだった。母は例の黒ずんだ牛肉をまな板に乗せると、分厚く切り分け始めた。包丁が入るたび、ぐにゃり、と肉が沈み、黒ずんだ肉汁が滲み出る。フライパンや鍋を用意する気配は微塵もなかった。母はこともなげに、その生肉の切り身を大皿に並べると──電子レンジの扉を開けた。
「まさか!」
「ステーキよ。」
母はそう言って、ぬめりを放つ生肉の皿を電子レンジに入れ、タイマーをセットした。低い機械音と共に皿が回る。肉塊の表面が部分的に白っぽく変色し、ある箇所では黄色い脂肪が溶け出してパチパチと音を立てた。
数分後、「チン」という軽薄な音が鳴った。
吐き気を催す蒸気がレンジの隙間から漏れ出した。腐敗臭と、肉の焼ける匂い。
母が取り出した皿の上にあったのは、「料理」と呼べる代物ではなかった。表面だけがまだらに灰色に焼け爛れ、内側はぬるい紫色の生肉。熱せられたことで、腐敗菌の活動はさらに活発になり、強烈な悪臭が鼻腔を突き刺した。
「さあ、できたわよ。火で温めるのも、電子レンジで温めるのも、結局は温めるという行為でしょう。温まっているのだから、同じこと」
母は、自らの哲学の正しさを証明した魔術師のように、誇らしげに言った。
「違う!それは毒の塊だよ!」
私の絶叫を、父が地を這うような声で遮った。
「健太。お前は誰を信じる。姉の出鱈目の世迷言か?それとも、お前をここまで育ててきた、この父さんと、母さんか?」
弟の健太は、青ざめた顔でその肉の塊を見つめている。彼の喉が、ごくりと恐怖を飲み込むのが見えた。
「…姉さんが、危ないって」
「我々は、知性を信じている。思考を信じている。お前も家族の一員ならば、人として、その正義をその身で証明しろ」
それは、もはや食事ではなかった。歪んだ信仰を試す、踏み絵の儀式だった。父は健太の隣に仁王立ちし、その巨体で逃げ道を塞いでいる。母はテーブルの向こうから、獲物を狙う爬虫類のような冷たい目で見つめている。嫌だ、と弟が言えないことを私は知っていた。彼は生まれた時から、両親の絶対的な支配という名の檻の中で飼育されてきたのだ。
健太は泣きそうな顔で、懇願するように私を見た。私は小さく、必死に首を振る。食べるな、と目で訴える。しかし、父の無言の圧力が、健太の弱い抵抗を粉々に押し潰した。
彼は震える手で、その生温かい肉の塊を口に運んだ。歯を立てると、ぐにゃり、と抵抗なく沈み込む。咀嚼もそこそこに、涙でぐちゃぐちゃになった顔で、彼はそれを嚥下した。喉を通る異物感に、彼の体がびくりと痙攣した。
「…おいしい、よ」
絞り出した声は、ひび割れたガラスのようだった。
その一言を聞いて、両親は満足げに、勝利の笑みを浮かべた。彼らは自らの「思考」が、科学と常識に勝利したことを確信し、まるで戦利品のように、そのおぞましい物体を次々と口へと運んでいった。父は肉汁が滴るのも構わず、獣のようにぬちゃぬちゃと食らいつき、母は一口ごとに目を閉じ、防衛隊への感謝を小声で呟いていた。彼らの口元は、血と脂でぬらぬらと光っていた。
その地獄のような光景を前に、私は一人、何も口にせず、黙り込んだ。
悪夢の演奏は、深夜に始まった。リビングの床を転げ回り、喉をかきむしる健太。その口から吐き出されるのは、胃液と未消化の肉塊が混じった、茶褐色の泡だった。床のカーペットは、彼の嘔吐物と制御不能な下痢で、見るも無残な地図を描いていく。獣のような呻き声は、やがて「痛い、腹が焼ける、腹が、焼ける。助けて、お姉ちゃん!」という掠れた懇願に変わった。
「救急車を呼ばなきゃ!」
私は固定電話に駆け寄った。しかし、受話器を掴んだ私の腕を、巨大な万力のような父の手が締め上げた。
「やめろ」
その声は、もはや人間のそれではなく、地獄の釜の底から響いてくるような響きを持っていた。父の目は狂信者のそれだった。血走り、焦点が合っていない。
「今、医者などを呼んでみろ。それは我々が、『学び』に屈したことになる。学びの結晶である医者に助けを求めたら、我々は負けるんだ!この戦いに!お前は地球を守る気はないのか!うーっ!うーうーっ!」
父はそう絶叫すると、私に殴りかかってきた。抵抗する私を床に組み伏せ、私の顔面に拳が何度も叩きつけられる。痛みよりも、実の息子が目の前で内臓を焼きながら死にかけているというのに、己の思想の勝敗に固執する父の狂気が、私を恐怖の底に突き落とした。
その地獄の只中で、母は全く別の世界にいた。
彼女は、その地獄絵図をまるで一枚の絵画のように眺めていた。やがて彼女の瞳から焦点が消え、虚空を見つめながら呟き始めた。
「でも、この子が倒れたら、私が悪いと近所から指摘されるかもしれない。坂谷さんも相田さんも私を馬鹿にするかもしれない。内田さんはいい服を着てくるはずだわ。その時に平静を装うためには……普段よりいい服を着ていた方がいい。ええ、新しいブランドの服を。せめて吉田さんよりいい服じゃないと。シワひとつない服は、心の平静の証。心の平静があれば、惑星を守れる…防衛隊の教えよ…」
母は取り憑かれたようにアイロン台を立てると、クローゼットから一番上等なワンピースを取り出し、血走った目で、必死の形相で、アイロンをかけ始めた。健太の苦悶の喘ぎと、私の悲鳴と、父の怒声が響き渡る部屋で、ジュウッ、というスチームの音だけが、不気味に、場違いに響き渡っていた。
その時だった。朦朧としていた健太が、最後の力を振り絞って汚物の中を這い、自分の携帯電話を掴んだ。震える指で、1、1、9と押そうとする。それは、暗闇に差し込んだ、最後の希望の光だった。
だが、その光は父によって無慈悲に掻き消された。
「いかん!」
父は健太の手から携帯電話をひったくると、その画面に唾を吐きかけた。
「病院に、荒川さんは、いないんだよ」
荒川さん。両親が唯一信奉する「川崎曼荼羅防衛隊」のメンバーの一人だ。「宇宙医学」なる根拠のない妄想を信者たちに熱心に説く「四次元科学者」の一人だ。
父は携帯電話を床に叩きつけ、安全靴の踵で何度も、何度も踏みつけた。バキリ、ゴリッ、という嫌な音が響き渡る。液晶が蜘蛛の巣状に砕け、内部の基盤が剥き出しになる。それはまるで、健太の最後の希望が粉々に砕かれていく音だった。
健太は、自宅のリビングで息絶えた。汚物と絶望の海の中で。
最後の瞬間、彼の濁った瞳が私を捉えた。口がかすかに動き、声にならない声で「傑作だよな…」と呟いたのを、私は確かに聞いた。そして、彼の体から最後の空気が漏れ出すように、長く、細い息が吐き出された。開かれたままの瞳は、もはや何も映してはいなかった。
数時間後、両親もまた、同じ症状で倒れた。彼らの体は、自らが信奉した「思考」という名の猛毒によって、内側から確実に腐り落ちていた。病室のベッドで、二人は凄まじい苦痛にもがきながら、最初は私を睨みつけ、呪いの言葉を吐いていた。
「お前のせいだ…!」
「お前が我々の思考を揺るがせたからだ…!」
だが、死の淵が彼らの足元に迫るにつれ、その憎悪は剥き出しの、獣じみた恐怖へと変わっていった。そして……
「チンパルキ…」
母が、喘ぎながらその意味不明な言葉を呟いた。大きな声で叫べば叫ぶほど運勢が良くなるという、防衛隊の救済の呪文だった。父もそれに同調し、二人の呟きは次第に大きくなっていく。
「チンパルキ…チンパルキィィ!」
二人は、合唱を始めた。
「「チンパルキったらチンパルキ!チンパルキったらチンパルキィィ!」」
それは祈りというより、絶望の咆哮だった。内臓が内部で腐り、焼け付くような激痛の中で、彼らはただその一語を、運命に抗う最後の武器として叫び続けた。彼らの狂気はもう誰にも止められなかった。
そして、最期の瞬間。
二人は顔を見合わせ、まるで示し合わせたかのように、残った生命のすべてを絞り出し、喉が張り裂けんばかりに、絶叫した。
「「チィィィンッッッ!!!パルッッッ!!!キィィィィィィィィィィッッッ!!!」」
それは、人の声とは思えなかった。断末魔の絶叫。喉が裂け、口の両端から血の泡が吹き出す。
その叫びを最後に、二人の体は弓なりに反り返り、そして、崩れ落ちた。
私の家族は消えた。
がらんとした家には、死の匂いが染み付いているようだった。嘔吐物の酸っぱい匂い、腐肉の甘い匂い、そして両親が最後に放った恐怖の匂い。私は一人、健太の部屋を片付けていた。机の上には、彼が読みかけていた歴史の本が開かれている。そこには、過去の様々な過ちと、そこから得られた教訓が記されていた。両親が最も憎んだ、「学び」の痕跡だ。
私はその本を静かに閉じた。
彼らは、自らの「思考」を信じていると言った。だが、それは思考ではなかった。知識という土台のない思考は、ただの思い込みだ。経験から学ばず、歴史に学ばず、科学に学ばず、空っぽの頭の中で捏ね上げたそれは、自分たちの脆弱なプライドを守るためだけの、致死性の妄想に過ぎなかったのだ。
私は生き残った。経験と知識が、私を守った。
「思考」とは、経験と知識があって初めて意味をなす。
空っぽの頭で考えることは、思考ではない。それは、狂気への最短距離だ。
窓の外では、あの日のような暑い夏の日差しが、死臭の漂う静まり返った家を、何事もなかったかのように照りつけていた。
……以上の物語は、筆者である王牌リウの家庭で起きた実話を元に描いたものである。私が何故「学び」と「思考」を愛し、同時にそれを放棄することの恐怖を訴え続けるのかを、少しでも理解していただけたら、幸いである。