大きなブラックツリー 2
アラームが鳴って起きてみると、部屋の電気がつけっぱなしだった。着替えもしていなかったので、どうやら昨日はそのまま気を失うように寝たらしい。
あたしはどんよりした気持ちでメイクを落とす。昨日の崩れきったメイクを。
今落としたのにまたすぐ化粧をしなければいけないのは理不尽なことよと思いながら髪をまとめ直し、なんとか社会人らしく見た目を強引に整える。やりたくはないが、やらないわけには出勤できないので心を無にして手を動かす。
とるものもとりあえず駅に行くと、なんとそこには、葵さんとルイさんが並んであたしを待っていた。
「「おはよう」」
ふたりはリエゾンのように言う。
ふたりの背後に後光が射しているように見えるのは、決してよく晴れた朝だからではない。ふたりがあまりにかっこいいので道行く人が彼らを見てゆく。
「朝からまぶしすぎです……」
「なに言ってんの」
「なに言ってんだ」
「おふたりが美しすぎて目がつぶれそうだって言ったんです」
昨日お風呂にも入ってないあたしには、とは、言わなかった。
ふたりは一瞬顔を見合わせてから、もう一度、さっきと同じことを繰り返した。
「なに言ってんの」
「なに言ってんだ」
ルイさんの両腕は、今はもう元通りになっている。
どんな魔法を使ったのか、ちゃんと動いてもいるようだし痛そうなそぶりもない。
(まあ、痛そうなそぶりは昨日もなかったけど)
こうしてみると、昨日のことなどなかったみたいだ。
心なしか、ルイさんは細胞単位で入れ替わったみたいにはつらつとしていた。駅貼りのポスターで見かける女優やモデルと比べても、格段にルイさんのほうが肌がきれいである。
なんというか、肌のつやと透明感に目が離せないような凄みがあるのだ。
「なぁに見てんだよ、ド平民が」
あたしが吸い込まれるようにルイさんの横顔に見入っていると、じろりとにらまれてそう言われた。
容赦ない毒舌にちょっと安心する。よかった、ルイさんほんとに元気そうで。
あたしがへらへら笑っていると、ルイさんは小さく舌打ちしてから付け加える。
「僕はお前の部屋の前で待った方がいいって言ったんだけどさ」
「な、なんでですか」
「逃がさないためにはそれが一番だろう」
逃がさないって、そんな、獲物みたいな。確かに今朝はちょっと出勤するの体が重かったけれど、そんなことくらいで無断欠勤なんてしませんよ。あたしはぼんやりした頭で言い返した。
「体が重い? よわっちいな、あれくらいで」
「なので欲を言えばしゃがんでくれるとありがたいです」
「なんでだよ」
「ルイさんは背が高いので、見上げて話すと首が疲れるからです」
「ふざけんな、はったおすぞ」
軽く歯をむき出しにして威嚇するように言ってから、ルイさんは葵さんを指でさした。
「家の前で捕まえる方が確実だと僕は言ったんだけど、こいつがやめろって言うからな」
「普通にいやでしょ、ただの同僚に部屋の前で待たれてたら」
「お前いやかあ? 家まで迎えに来られるの?」
そんなわけないよな、こんな美形に朝から会えたら嬉しいよな、と臆面もなく圧をかけてくるルイさんである。
家に来られるのも困るけれど、駅で待たれるのもかなり困る、と言っていいかどうかわからずあたしはあいまいに答えを濁した。
「あたしがちゃんと出勤できるか気にしてくれたんですよね、ありがとうございます」
歩きながらちょっと頭を下げると、葵さんが言った。
「縫代さん、朝ごはん食べられた?」
「えっと、はい」
一拍おいて嘘をつくと、葵さんはじっとあたしを見つめてから、ダウト、と言った。
「カウンセラーに嘘が通用すると思ったら大間違いだよ。食べてきてないでしょう。食べられなかったの? 食欲なかった?」
えーとあの、そうじゃなくて、アラームが鳴ってちょっとぼうっとしてたはずだったのに、気がついたらもうありえないような時間だったんです。朝ご飯よりも優先すべきものがあるんです、という内容を遠回しに、婉曲に、口ごもりながらあたしが言うと、葵さんは無言であたしの肘のあたりにふれると、駅構内にあるマクドナルドに連れ込んだ。
「まだ時間あるし、というか、今日は多少遅れたところで誰も怒らないから、なにか食べてからいこう」
「葵さんでもマックに入ったりするんですね……」
「なに言ってるの、ほんとにもう」
葵さんとルイさんはやけに息が合っており、僕先に席とっとくからね、おー、というやりとりののち、葵さんはずらずらと商品を注文した。横で聞いていて震えが走るほどの量だ。とりあえず、三人で食べる量ではないことだけは確かだった。
「食べたいのあったら言いなよ。追加で頼むのもありだけど」
「いえもう、注文聞いてるだけでお腹いっぱいになります……」
「そういうことはちゃんと口に入れてから言って」
そして商品を待つためにちょっと脇に寄ったところで、あたしにしか聞こえないような小声で付け加えた。
「私は正直、こういうのって非常食だと思ってるんだけど、ルイくんが好きなんだよね」
「そうなんですね……」
「バランスよく食べるのは生きることの基本だよ、もう少し仲良くなったらお弁当作ってあげようか?」
けっこうです、謹んで遠慮いたします、とあたしはお断り申し上げた。
たくさん注文したのでトレイはひとつで足りるわけもなく、あたしも一緒に手伝って二階席まで運び上げると、ルイさんが行儀悪く足を組んで窓際の席で待っていた。
当然のことだが、ここでもふたりはものすごく注目を浴びている。
女性客ばかりではない。葵さんを見た作業服のおじさんが朝マックを食べるのをやめて目をぱちくりさせている。
「エビのやつどれ」
「書いてあるだろ、包み紙に」
「ローカルな言語を読み取る労力の意味がわからん」
何年住んでんだよ、と言いながら葵さんがルイさんにエビフィレオを押し出す。
ややしてふたりは無言でバーガーにかぶりついた。
そしてあっという間にひとつめを食べ終え、ふたつめに手を伸ばしながら、
「食べないの?」
「食わねーの?」
いただきますと言ってあたしは一番手前のテリヤキ味にかぶりついた。ああ、疲れてる時のマックって、なんでこんなに染み渡るんだろう。
あたしが口をつけたのを見て、おふたりはなんだかほっとしたようだった。
「これは、信じても信じなくてもかまわねえが」
やがて、ルイさんがぽつりと言った。
「僕の牙を見せたろ」
「はい、見ました」
「焦げた腕も見たよな」
「はい」
ルイさんはポテトを三本くらいまとめて口の中に放り込んだ。
「僕は、吸血鬼の末裔。だから普通の人間よりは、焼けても切れても修復が早い」
「……それが本当だとして、なんで朝日差し込む窓際席でマックをむしゃついてるんですか」
「いちいち朝が来るたび灰になってたら面倒でしょうがないだろうが」
そういうもんかなあ、とあたしは思ったが、一応は黙って聞いておいた。
「じゃあ人間と同じもの食べてる件については?」
「なんでお前ら下等生物が食えるものを僕が食べられないと思うわけ?」
冷たくにらまれたけれど、なぜだろう、あたしはもうあんまり怖いと思わなかった。
「わからないから聞いてるんですけど……」
「血液から栄養素を摂取する方が無駄がないが、他のものが食べられないわけではない。ただ、血液以外から栄養をとろうとすると莫大な量が必要になるだけだ」
「なるほど……」
「お前だって、一日のカロリーを荷車一台分の食糧からとれと言われたらいやだろうが」
「まあ……そこまで胃腸が丈夫ではないですね」
「そういうこと」
ルイさんは順調にトレイの上を減らしながら、店長の血の味が好みであること、だから彼が死ぬまでの間契約してることなどを話した。
「もしかして、めちゃくちゃお肌がつやつやしてるのは……」
「店を守るために消耗したんだから、対価をもらって当然だろう。お前もなにかあれば僕に言ってこい。お前の味もそこそこ悪くなさそうだからな」
考えておきますとあたしは言って、視線をめぐらせると頬杖をついた気怠げな葵さんと目が合った。
「私? 私は普通の人間だよ」
「なわけ!」
ルイさんがかぶせ気味にかみついた。
「なんでただの人間なのに、僕より指名が多いんだよ! おかしいだろ! 魔力だって使えないくせに!」
「ルイくんは元々の魔力にあぐらをかいて努力とか勉強とかしないからでしょ」
「なんだとこら!」
葵さんがさらりと毒を吐いて、危うくマックの二階席で戦争が勃発しそうになり、まあまあまあとあたしは慌てて割って入った。
おかしい、まだ出勤もしてないはずなのに、すでにお疲れさまの気分だ。
◇◇◇
「縫代さん! おはようございます!」
店に入ると、脚立のてっぺんに座って壁だのドアだのを拭き掃除している店長がぱあっと顔を輝かせて挨拶してきた。
おはようございます、掃除ならあたしがやりますよというより早く、店長はぴょんと脚立から飛び降りてあたしの前に駆け寄った。
店長の服は今日もかわいい。今日は大きく広がった袖がチャイナドレスを連想させる、クラシックレッドのセットアップだ。髪も頭の高いところでふたつのお団子にしており、そのお団子にしゃらしゃら揺れるアクセサリーを刺している。
「昨日は本当にご迷惑かけてしまって……ごめんね、怪我なかった? 大丈夫だった?」
「大丈夫ですよ」
「ほんと? ほんとにほんと?」
店長はあたしのまわりでパタパタ動き、まるで手を取って脈でも確かめかねない勢いだったので、あたしは軽くガッツポーズを作ってみせながら言った。
「ほら、大丈夫ですよ。それより店長のお具合はどうですか?」
「僕は全然大丈夫ですよう、昨日しっかり休みましたし」
「でも献血したって聞きましたよ」
店長はエメラルドグリーンの瞳をぱちくりさせた。そして一瞬のちに、あはー、と大口をあけて笑った。
「ルイくん、話したのかあ」
「あのすみません、守秘義務はもちろん守るつもりですけどその……普通の献血でもしばらく安静にしてろって言うじゃないですか。あと栄養とれとか」
うんうん、と店長は楽しそうに笑った。
それから笑顔のまま、じっとあたしのことを見上げた。
「あとは、なにを聞いたの?」
その時思い浮かんだのは、昨日、店長の扉の隙間から見えた大きな黒い鱗のことだった。一瞬のことではあったけれど、光沢のある大きな爬虫類がうずくまっているように見えた。
あたしは気力を総動員して、視線を泳がせないように気をつけながら言う。
「あとは、葵さんが本当は女性だって聞きました」
「ああそのこと」
店長は心なしかほっとしたように見える。
あの黒い爬虫類のことはこっちからは聞かずにおこう、とあたしは心に誓った。いつか必要があると思ったら店長から言ってくれるに違いない。
それまでは、あたしの胸の中に秘めておくんだ。誰だって、土足で踏み込んでほしくない部分ってあるんだから。
「縫代さん、ここはもう掃除終わったからどうぞ」
店長はそう言って、あたしを事務所に促した。そして自分も掃除の手を止めて、改めて向かい合わせに座る。
「縫代さん」
「はい」
「昨日、小林様のために怒ってくれたんですってね、本当にありがとう」
店長はそう言って深々と頭を下げた。
「僕はそれを聞いて、あなたに声をかけて本当に正解だったなと思いました。小林様も喜んでるはずです」
「えっあれ、聞こえてるもんなんですか」
「どこまで彼女が覚えてるかは正直、彼女次第です。でもやさしくしてもらったことは覚えてるんじゃないかな」
店長はぽつぽつと事情説明をしてくれた。
あまりにも他者からの悪意を我慢し続けると、昨日みたいな現象が起きること。カウンセリングによって表面上はきれいになったように見えても、時間差でまた吹き出してくること。それはさながら浸透圧にも似たしくみで、いったん心の表面がきれいになったから、余計に深部に溜まったものが浮き上がってくるのだということ。
「浸透圧ですか……」
「火山の働きともよく似てます」
「というと?」
「火山の活断層にできた火口を見たことがありますか? あれはね、内側でマグマがずるずる動いて表層を動かすんですよ。大きな爆発だけが活火山ではないんです」
そうですか、とあたしは相槌を打つにとどめた。
店長が話していることはわかるような、わからないような感じだったけれど、話している彼がなんだか楽しそうに見えたので。
「いやあ、人の心の働きと地層プレートの働きに相似点があるっていうのは本当に、研究のしがいがありますよねぇー。人の世界って本当に興味深い」
「店長、あまり話し込むとお客様が来ちゃいますよ」
「あっ大丈夫! 今日の午前中は僕が連絡してキャンセルさせてもらったからー」
そんなことってあるんだ、と思ったあたしが予約表を確認してみると、店長の言うとおり、今日の午前中はきれいに予約が移動されていた。
「僕のお客さんが暴れた後ってね、目には見えないかもしれないけど、瘴気みたいなものが店内にべったりこびりついてるんですよ。ただでさえ気持ちの弱ったお客様をそんなところに招き入れてしまったら、カウンセリングどころか悪影響を及ぼしかねない。だから予約はキャンセルなんです」
「──わかりました」
じゃあ今日はお掃除デーってことですね、とあたしはシャツの袖を大きく腕まくりした。
「ええっ、いいよいいよ、縫代さんは休んでなよー」
「なんでですか」
「だって縫代さんだって昨日は大変な目に遭ったわけだし」
「それは店長も同じですよね。ルイさんに血をあげた後でもありますし」
でもー、だってー、それは僕の契約上の話でもあるしー、と店長はもじもじしている。
そんな彼の手から、あたしは黙ってぞうきんを取り上げた。
◇◇◇
ぎょっとしたのは、翌月の給与明細を見た時だ。
明らかに額が多い。見間違いだろうかと思ってよくよく見ると、見慣れぬ文字列が印字されている。
火気使用特別手当、五万円。
「な、なななんですかこれはっ」
店長に言いつのるあたしを見て、ルイさんが意地悪そうに笑った。
「お前わかってねーな、口止め料に決まってるだろ」
「違うよー、ちゃんとした手当てだよー。変なこと言わないでよルイくん」
頬をふくらませて反論する店長を、ルイさんも葵さんもきれいに無視した。
「お前、もう撃ち方覚えたろう。次はひとりで撃てるよな」
「ひ、ひとりで、ですか」
「無理にとは言わないけど、もし縫代さんがひとりで撃てるようになったら更にあれがつくよ、えっとなんだっけ」
「危険手当」
「そうそう、それ」
はわわ、あわわわわ。
あたしは右を見たり左を見たりしてみたけれど、適切な助け舟を出してくれる人はひとりもいない。
待って、いったん落ち着こうあたし。
冷静になろう、縫代いちか。
これは仕事だ。ようやく見つけた条件のいい事務員の仕事。
いくら事務員といえど、会社によってやり方にいろいろ違いがあるのは会社員あるある。ちょっとくらい、自分の予想と違うからといってじたばたしてもいいことはない。大事なのは、慣れだ。順応だ。
最初はなにもかも初めてだからぐったり疲れたりするけれど、なんだって最初の時より二度目の方が上手くやれる。店長のお客様が暴走した時の対応も、次はもう少し落ち着いてできるかも。あの武器っぽいものの撃ちかただって、ちゃんと習えばもしかしたら……。
そこまで考えて、あたしははっと我に返った。なんか違う!
「や、ちょっと待ってください!」
「ごめん! 額が少なすぎた? 支給は来月になっちゃうけど追加で増額しようか?」
「そういうことじゃありません!」
「縫代さんはすごくよく働いてくれたから、会社としては全然問題ないよ。えーと、15万でいいかな」
「そういうことじゃないですったら! やめてください!」
言い返しながら、あたしは痛切に思っていた。
おかしい、こんなはずでは。
あたしは安心して働ける事務職を希望してたはず。そのはずなのに、なんだか、日に日に普通から外れていっている。
「それでなくても毎週のように高級お菓子をいただいてるのに! こんなに頂くわけにはいきません!」
「あれはお客様からのいただきものだし」
「この前店長、りんご飴専門店で全種類自腹で買ってきてくれたじゃないですか!」
「あれば普通におやつとして……僕も食べてみたかったから……」
あたしと店長のやりとりを、ルイさんと葵さんはおかしそうに眺めている。
「おかしなやつ。金はないよりあったほうがいいだろ。もらっとけよ」
「縫代さん、社内資格とってみたら? 研修受けたほうが縫代さんも安心かもしれないし、そしたらまた手当てもつくし」
「あ、あ、あの」
「そうしなよ。ね」
「つべこべ言ってっと魔力で洗脳しちまうぞ」
「こらこらふたりとも、圧かけないの。せっかく見つけた優秀な事務員さんなんだからねー」
店長は笑ってそう言うけれど、その笑顔はまんま、昔の警察ドラマのあれに見えた。容疑者を落とすためにわざと怒鳴る警官と、それをなだめる警官のそのやさしいほう。
「い、い、いやああああ」
「あはは、縫代さんかわいいなあ」
「いちかが泣くとこも次は見てみたいよな」
「もールイくんはひどいなあ」
「笑いごとじゃないですからあああ!」
あたしの魂の叫びは、三人の笑い声できれいさっぱりかき消された。
5年間勤めた会社が倒産した、秋の終わりのことだった。