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大きなブラックツリー 1

 その翌日のことだった。


 予約もないのに、ふと、ドアの外で足音が聞こえた気がしてあたしは顔をあげる。

 足音は小さかったのに、不思議とはっきり聞こえた。


 ──なんだろう、いやな予感がする。


 その予感は当たった。

 こん、こん、こん。

 ノックの音がしてあたしは扉をあけたけれど、あける前からそこに誰がいるか、なんとなくわかっていた気がした。


「こんにちは、小林です」

「いらっしゃいませ」


 予約はない。事前の電話もない。

 唐突に、当たり前みたいに現れた彼女を、あたしは中に入って欲しくないと思ってしまった。

 だけどあたしはこのサロンの受付である。お客様に対しておかしな態度をとるわけにはいかない。


「どうなさいました、お忘れ物でも?」

「違うわよお。店長います?」

「あの小林様」


 一見尋常な様子に見えるけれど、そう言いながらつかつかと中へ入ってくる様子を見るに、そうとも言い切れない。


「申し訳ありません、店長は本日休業でして」

「あ、そお。でもいるんでしょう、出してよ」


 だめだ、とあたしは思った。

 どうしてそう思ったのか自分でもよくわからないが、今の小林様に話は通じない。昨日あれからなにがあったのか知らないけれど、今の小林様は本来のこの人ではない気がした。


「申し訳ありません、店長は本日出勤しておりません」

「うそうそ」


 頭を下げて言うあたしを、小林様は笑い飛ばした。


「あーやだわ、ほんとに今の子って、はいわかりましたって言えないのよねえ」


 あたしは背筋がぞっとした。

 きっと、今の彼女は本来の彼女ではないのだ。

 これがきっと、『呪われてしまった』状態なのだ。

 呪いはきっと、簡単には解けないのだ。


 だがあたしはここの事務員である。店長にも「あとは任せる」と言われているのである。事務員としての職務はまっとうしなくてはならない。

 あたしは意を決して背筋を伸ばした。


「小林様」

「なによ」


 顔色は真っ白なのに、彼女の眼だけがギラギラしていることにあたしは気づいた。

 怖いと思う気持ちを殺し、あたしは彼女の前に歩み出た。


「申し訳ありません。カウンセリングでしたらご予約が必要でございますので……」

「あはははは、カウンセリングですって!」

「本日のご用件はわたくしが承ります」


 あはははは、と小林様はまた甲高い声で笑った。

 これは本来の小林様ではない、本当の彼女は大人しい常識的な人だということを懸命に思い出しながら、あたしは通路に立ちふさがった。

 お客様には近づきすぎないように、と言われたことを忘れたわけではなかったが、状況的にそうするよりほか仕方がなかったのだ。

 体が細かく震えていたが、あたしはせいいっぱい勇気を振り絞る。


「ご予約がない場合はご案内できない決まりでございますので」


 そんなあたしを小林様はぎろりとにらんだ。


「ほんとに、今の若い人は自己主張ばっかり達者なんだから。あなたの意見は聞いてないのよっ」


 そして、あたしの肘をわしづかみにした。

 ──!!!

 小林様に触れられた瞬間、あたしはビリっと刺すような寒気を感じて、とっさにその手を振りほどいてしまった。

 なんだか、一秒でも早くその手から逃れたくて。

 くくくくく、と小林様は笑っている。

 長めの前髪で表情は半分隠れているが、口元が笑っているのでそれとわかる。

 気づくと、前髪の隙間からこちらを見ている瞳があった。

 くろぐろとしているのに、やたらギラついた瞳が。


「最近の人はほんとに反抗ばっかりして。いい? あなたの代わりなんていくらでもいるんですからね」


 これは小林様ではない。誰か他の人の言葉なんだとあたしは自分に言い聞かせる。

 だが、そう思ってはいても怖いことには違いがない。


「ほらまたそういう顔するっ! どうしてもっと素直に謝れないのよっ。仕事ってそういうものじゃないのよ。お給料ってね、我慢料なの。怒られることも仕事のうちなのよっ」

「──あなたはそんな」

「は?」


 後になって思い返してみると自分でも冷や汗が出るのだけど、あたしはその時、どうしても我慢ができなかった。

 こんな言葉を毎日投げかけられていたら、おかしくなって当たり前だ。小林様はなにも悪くない。そう思ったら、急に腹が立ってきたのだ。


「あなたはそんなひどいことを、毎日小林様に言ってるんですか。誰が聞いてもおかしいです。理不尽がすぎます。あなたが誰か知りませんけど、小林様はあなたのサンドバックじゃありません。小林様が大人しいのをいいことに、そんなこと言うのはやめてください。誰もあなたの不機嫌を受け止める都合のいい人形じゃないんですよ」

「ちょっとあなた! 誰に向かってそういうこと言ってるのよ!」

「誰であってもそんなこと言っていい理由にはならないです!」

「ほんっとに生意気なんだから最近の女の子は!」


 どん、と腕が伸びてきて、あたしは彼女に突き飛ばされた。

 今となってはもうはっきりわかる。この人は小林様ではない。小林様をこんなふうにした張本人なのだ。

 突き飛ばされたのは一度ではなかった。あたしがよろめいてバランスを崩したところにもう一回、追加で強めに突き飛ばされる。

 ああこの人は会社でもこういうことを日常的にしてるんだろうな、と嫌でもわかってしまう振舞いだった。

 指導ではなく、自分の感情のはけ口として怒る。相手がひるんだらそこをさらに追い詰める。そういうことを普段からやっているに違いないと。

 あたしは廊下にしりもちをついた格好になり、その隙をつくようにして彼女はつかつかと早足で歩いていくと、店長のいる部屋のドアノブに躊躇なく手をかけた。


「ギャアッ!!!」


 あたしが止めるまでもなかった。

 彼女がドアノブにふれるなり、じゅっ、という音がした。彼女は獣じみた動きでドアから飛びのき、じたじたと右手の平をかばっている。

 なにかが焦げるいやなにおいが鼻をかすめて、あたしは思った。

 ああ、店長はさすがだ。ちゃんとなにが起きてもいいように防壁を張っている。


 ドアに鍵はかかっていなかったらしく、扉は半開きになっている。

 このままにしておいてはよくない気がして、あたしは急いで起き上がると片方の靴を脱いだ。靴の先っぽでそっと扉を閉めようと思ったのだ。

 だが、靴を持ったままあたしは扉の前で固まってしまった。


(────えっ、これっていったいなん)


 扉の隙間から見えたのは、真っ黒いなにかだった。


(……うろこ??)


 見たものをそのまま言うとしたら、それは爬虫類の鱗だった。

 ただしそれは、あたしが今まで見たこともないほど大きな鱗だ。一枚がほとんど手の平ほどの大きさである。あたしの目線からは尻尾の付け根だけ見えていて、その先は暗いのでよくわからない。だが、確かに鱗だった。


「縫代さんっ」


 切羽詰まった声が聞こえて振り向くと、個室から葵さんが出てきたところだった。


「あっドア開いちゃったのか! そこ、閉めて!」

「はいっ」


 言われるままにあたしは両手でドアを閉めた。せっかく靴を脱いだのに、なんの意味もなく素手で。

 バタンと音をたててドアは閉まり、あたしの手は嘘みたいにきれいなままだ。小林様の形をしたものは、今も右手を押さえてギャアギャアわめいているというのに。

 どういうしくみなんだろう、これは。

 自分の手を見下ろしながらそんなことを考えていると、葵さんが再び大きな声を出した。


「縫代さん、そこどいて!」

「でも、あたしはここを守る職務が……」

「いいから逃げろ!」

「いいえええ、逃がさないわよおう」


 やけにくぐもった声だった。


「感ジの悪イ、事務員、サン」


 顔をひきつれさせ、歪ませたまま、小林様の形をしたものがゆっくりあたしめがけて進んでくるところだった。

 冗談じゃない、だめだ、冗談じゃない。

 こんな時だというのにあたしはそんなことを思う。


 店長を守るのはあたしの役目で、あたしはそれをまっとうする。

 だって、あたしは留守を任されたんだから。


「いいから、逃げろ!」


 葵さんが彼女をはがいじめにしたのと、小林様の形をしたものが口をひらいたのが同時だった。かぱ、とひらいたそこはやけに大きくて、人間離れしていて、そしてその奥に炎が見えた。

 身構える暇もなく、火があたしめがけて飛んでくる。


(あっだめだ、死ぬ)


 とっさにそんなことを思いながら、ぎゅっと目を閉じた、その瞬間。


「なに固まってんだこのぐず!」


 罵りながら飛び込んできてくれたのは、ルイさんだった。

 あたしの周囲を熱風が渦巻いている。

 熱いし息がしにくいし、目もあけられないけれど、ルイさんが体であたしをかばってくれているのはよくわかった。


「おい大丈夫か、無事か」

「だ……大丈夫です」

「人間風情が無茶するんじゃねえ」


 ひっかかる言い方をルイさんはしたけれど、あたしは聞き返す余裕もなかった。だって、あたしの耳はルイさんの体が燃える音を聞いていたし、ルイさんの体が燃える匂いがあたりに漂っていたから。


「ル、ルイさん、逃げて」

「俺がここにいないとお前が燃える。お前になにかあると店長に怒られる」

「で、でも」

「お前もそのうち、耐火用の衣服を用意してもらったほうがいいな。店長の客はよく火を吐くから」

「よく、ひを、はく」

「そうだ。なんでも備えておくに越したことはない」


 ルイさんがあまりにも平然と言うので、あたしは熱さをこらえて目を少しだけあけてみた。

 もしかして、ルイさんは平気なのかと思って。でも一瞬でもそう考えたことをあたしはすぐに後悔した。

 平気なんかじゃなかった。

 ルイさんは両腕を翼のように広げる格好であたしを炎から守ってくれていた。そして、その両腕と背中は怖いほど燃え上がっている。


「ル、ルイさん、燃えてます」

「ああ……僕は火に弱いからな」


 そういう問題ではなかった。

 小林様の形をしたものが吐き出した炎はまるで意志を持っているようにルイさんを狙い、燃やし、焦がしている。現にルイさんの両腕はこの短時間で黒く焦げてしまっている。

 あれはきっと、ルイさんがあたしをかばっているのが気にくわないのだ。

 どうしよう、あたしがすくんでいたらルイさんが逃げられない。でも、今も膝から下が熱くてたまらない。


(──こわい)


 あたしはぎゅっと体をこわばらせた。

 怖くてたまらない。そして、そんな自分が悔しい。

 目にじわっと涙が浮かんできたとき、いとも平然とルイさんが呼びかけた。


「葵、あれを持ってこい」

「ふざけんなよ」


 葵さんが打ち返すように即答する。


「私はお前と違って普通の人間なんだ。こいつを押さえてるだけでギリギリだ」

「コヒャァァァア! ガヒャアアァァア!!」


 熱風が強くてあたしはそれを見られなかったのだけれど、あとで聞いたところ、小林様の形をしたものは人間離れした力であたしの方へ来ようとしていたらしい。葵さんが全体重をかけていてもじりじりと引きずられるくらいに。

 はぁ、とルイさんがため息をつく。


「仕方ないな……お前、動けるか」

「う、動けます」

「なら僕の言うとおりにしろ。奥の部屋へ行け」


 ルイさんはあごをしゃくった。両手が黒焦げなのでそうやってしか指示ができないのだ。

 だがあたしは、指示通りに奥の部屋のドアをあけて、そこで再び立ちすくんでしまった。

 な、なんだろういったいこれは。

 ルイさんはぽんぽんと続ける。


「ブラックツリーを……中のそいつを持て。黒くて細長いそれだ」

「あの、でもこれ」

「迷ってる暇が今あると思うのか、ぼんくら」

「でもこれっ、どう見ても武器ですよ!」

「だからどうした」


 だからどうした、って……。

 そう言い切られてしまうとあたしにはもう拒む理由もなくて、おそるおそるその黒くて武骨なフォルムのそれを両手で持ち上げた。

 一見してバズーカ砲のような形をしている。アクション映画に出てくるようなやつだ。あとで調べてみたところ、対戦車砲ロケットランチャーとかいうらしい。


「そうそう、それを肩にかついで。ああ前後逆! 反対だ! 銃も撃ったことねえのか平民が」

「ないですよ!」


 あたしはルイさんにがみがみ言われながら、ようやくのことそれを肩にかつぎ上げて、そして改めて途方に暮れた。


「あの化け物に照準を合わせて、撃て」

「簡単に言いますけどそんなことできると思うんですかっ」

「できるかできないか聞いてるんじゃねえ。今それが撃てるのはお前しかいないと言ってるんだ」


 あたしはぐっと詰まってしまった。

 確かにルイさんの両腕は燃えて黒くなってしまっている。今のルイさんに両手を使えというのは無理であって、小林様を抑えてくれている葵さんにもそれはできない。

 そして店長は今、いない。

 となるとこの状況では、撃てるのはあたししかいない。

 それはわかる。わかるのだが。


 黒い武器はずっしり重く、冷たかった。それがあたしの肩の上でぐらぐら揺れているのは、あたしが震えているせいだ。


「は、初めてですし、できるかどうか」

「なんにでも最初の一回てもんはあるだろ」

「当てる自信もないんですが……」

「自信がなくても撃たなきゃ当たらねえ」


 あたしがなにを言ってもルイさんはびくともしない。


「で、でも葵さんに当たってしまったら……」

「あいつなら気にしねーよ」

「するよ!!!」


 かぶせぎみに葵さんが大声を出した。だがすぐさまあたしに向かって言い直す。


「でも確かに、こっちのことは大丈夫だ。気にせず撃て」

「う……う……う」


 迷っているあたしを鼻で笑いながら、ルイさんはてきぱきと指示を飛ばす。まるで、自分の両腕が黒焦げになっていることなどなんでもないというように。

 彼はあたしの背後に回ると、体を密着させて耳元でささやいた。


「反動対策に背中を支えておいてやる。今から言われたことを遅延なくやれ」


 わかったな、と言ってルイさんはあたしを膝でぐいと押した。

 あたしは言われた通りにあっちを動かし、こっちをスライドさせて、あとは手元の引き金を引くだけという段になり……だがそこでどうしても、どうしても指が動かない。

 後ろからルイさんにどれだけ罵倒されても、撃てないのである。


「縫代さん、大丈夫だから!」


 葵さんが励ましてくれているのはわかるのだが、でもだからこそ、撃てるわけがない。


「ごめんなさいルイさん……できないです……」


 ふがいなさとどうしようもなさで涙をこぼすあたしに、ちっとルイさんが舌打ちをもらした。


「舌打ちされても無理なものは無理で……」

「おい、いちか」

「えっ?」

「こっち向け」


 とっさに顔をあげたあたしの視界に大写しになったのは、ルイさんがくわっと牙をむいた姿だった。

 口の中にはぎらつく犬歯があって、ルイさんの瞳は茶色から真紅に変わっていた。


「ぎゃ……!!!」

「さっさとやれ。食い殺すぞ」


 その声までが化け物じみたしゃがれたものに変わっていて、小林様を呪っている人より何倍も怖かった。あたしは思わずぎゅっと手の中のものを握りしめた。意識してやったのではなく、怖さで力が入ってしまったのだ。


「ひいいいいいい!!!」


 あたしはなにかを撃った気がする。バタつくあたしの体を後ろでルイさんが支えていてくれた気もする。よしよし、よくやったよ大丈夫だよと葵さんがあたしの頭をなでてくれた気もしないでもない。

 だけど、そのあたりのことはよく覚えていないのだ。


「よーし、とろくさい人間の割にはよくやったぞ」

「そういう言い方ほんと良くない、ルイくん」

「あとはいいから今日は帰れ。……って、荷物忘れてんじゃねーよ、愚民。手間かけさせんな」


 口の悪いルイさんに、それでもなんだかんだと世話を焼かれて、おらよ、と足で背中を押されて送り出された気がしないでもない。


 そこから、どうやって帰ったのか自分でもわからない。

 問題は、翌朝だった。

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