なんにでも裏はある 3
その後は、葵さんが事務所で温かいココアを作ってくれた。
お湯を入れて溶かすインスタントのやつじゃなくて、ココアパウダーを少量の水で練って香りを立たせるところから丁寧に作るやつだ。生クリームをゆるめに泡立てたものが乗せられていて、生クリームのはじっこがココアと混ざりあっている。シナモンパウダーまでトッピングされていて、まるで喫茶店のココアみたいだった。
「なんで会社の冷蔵庫にホイップクリームがあるのか不思議だったんですけど……」
「こういう時に使うからね。ココアには生クリームがないと」
「なるほど……」
使ったボウルと電動泡立て器を葵さんはさっさと洗っているところだ。
なぜ会社のキッチンに電動泡立て器があるのかもひそかに謎だったけれど、まさかこんな時に使うとは。
キッチンで作業をする葵さんは細身の黒パンツをはいている。後ろ姿は本当に惚れ惚れするほどかっこよかった。スタイルがいいので、それでなくても長い足がさらにかっこよく見える。
葵さんは自分用にはクリームのかわりにバターをひとかけ落とし込むと、あまっている椅子に腰を下ろした。
「飲みながら少し話でもしよう。……いやじゃない?」
「ぜんぜん、やじゃないです」
「ならよかった」
この人の最大の強みは、濡れるような甘い声だとあたしは思っている。お客様もきっと同じことを言うだろう。だがその魅惑的な声を聞いても、今のあたしはなぜだか心が動かなかった。
生クリームのせココアをひとくち飲む。
とても美味しいのがひとくちめでわかる。
こんな贅沢に慣れたら、きっともうそのへんのお店のココアでは満足できないんだろうな、とも。
なのに、美味しいものを口にしたときの多幸感がぞくぞくと跳ね上がってくるあの感じはしない。
まるで心が麻痺してしまったみたいだった。
「そうだな、なにから話そうか……」
葵さんが口をひらきかけるのと、ルイさんの個室の扉がひらいたのがほぼ同時だった。
「ねえもう終わった?」
ルイさんは悪びれもせずそう尋ねる。
「終わったよ」
「お客様も帰ったよね? はーやれやれ」
なにもしていないくせに、ルイさんは大きく伸びをしている。そしてココアのマグカップを手に持っているあたしに目を止めると、ふうんと言って目を細めた。
「──逃げないんだ」
「……と言いますと」
「タイミング的には今だと思うけど。いいんだよ、逃げても」
葵さんが眉間にしわを寄せて顔をしかめる。余計なことを、と言いたげな表情だ。
「あの、逃げるもなにもあたしはケガひとつないですし」
「あれだけの怖い目に遭ったのに? 十分な理由だと思うよ」
「でも……ちゃんと守ってもらいましたから」
常ならぬことが起きているとわかる、店長の低い声を思い出した。扉の向こうのつらそうな話し方も。
あんなふうになってなお、店長はあたしを安心させることにだけ心を砕いてくれたのだった。
なにかあると不機嫌になったり、八つ当たりする上司も多いなか、彼は違った。
そんな人から逃げるという選択肢は、あたしの中にはない。
あたしはココアをもうひとくち飲んだ。
さっきより少しだけ、甘くてやさしい味だと感じる。
ココアを飲んで、深呼吸をひとつ。ゆっくり言葉を選択する。
「あたし、ここから逃げないですよ」
「──ふうん」
もう一度ルイさんは言って、まじまじとあたしを見下ろした。まるで品定めをするみたいに。
「あの、ルイさん?」
「だまれ」
彼はこれまで見せていた、甘い王子様の仮面を一瞬でかなぐり捨てたようだった。
視線は冷ややかで、肉食獣の鋭さがある。
こっちのほうが素なのだといやでもわかってしまう態度で。
ルイさんの茶色の瞳があたしをまっすぐ見つめている。その瞳の色が金色がかっているように見えるのは、気のせいだろうか?
「あの、ルイさん……」
「だまれってば」
ひどく居心地の悪い時間が過ぎて、やがて、ふっとルイさんが口のはしで皮肉に笑った。
「──いいんじゃない? それもお前の判断だ、僕が強制したわけじゃない」
「ルイさんはあたしがここにいることに反対なんですか?」
「人間風情がなんか言ってらあ」
あたしの質問は華麗に無視して、ルイさんが鼻で笑った。
「人間風情、ですか……」
前の会社で陰口はいろいろと言われていたけれど、それは初めて言われたなあとあたしが思っていると、ルイさんは再びあたしを見て肩をすくめた。
「あれ見て逃げ出さないなら心配いらないよね。いい感じの図太さだよ」
「え、え、えっと」
「じゃ僕は帰るから」
急な態度の変わり方にあたしは戸惑う。もしかして、なにか気にさわることを言ったりやったりしてしまったのだろうか?
「──いちか」
「はいっ!」
あたしが思っているのを見透かしたように、ルイさんは言った。呼び方までもが当然のように変わっている。
「身内の前でさ、猫かぶっても意味ないでしょ」
「身内……」
「また明日ね」
彼はそう言い捨てると、さっさと帰っていく。
説明終わり、十分でしょと言わんばかりに。
身内って言われた。身内って……。
「ごめんね」
かわりに葵さんが謝ってくれた。
「あいつ本当は、めちゃくちゃ口が悪くて」
「あ、はい。今のでだいたいわかりました」
「もうひとつ、縫代さんなら気がついてるかもしれないんだけど」
「はい」
「うちの仕事は、カウンセリングと称しているけど、実はお祓いに近いものなんだ」
「お祓い……」
さっきのを縫代さんは見ただろ、と葵さんは説明してくれた。
「店長のカウンセリングが必要なのはああいう人なんだ。うちは、おもに生霊を祓うことを専門としている」
「生霊……」
「普通のカウンセリングもするけどね、でも依頼が多いのは生霊祓いのほう」
葵さんはゆっくりひとつずつ説明してくれた。
カウンセリングの時間を使い、他者からの強い悪意をここでは祓っていること。呪いがかかっている場合はそれも返すこと。それが単なる悪意で済んでいる場合は自分たちのカウンセリングで事足りるが、呪いに転化している場合は店長でないと手に負えないこと。店長が呪いを返すのは本人にとっても大仕事で、それが終わるとしばらくは死んだように眠らなくてはならないことなどを。
「──ここまでで、なにか聞きたいことある?」
「あの、悪意ってどうやって祓うんですか」
「うーん、言葉にするのが難しいけど、私の場合はただ聞くだけだよ」
「ただ聞くだけ……」
「ルイは吸い取ってるみたいだけど」
「吸い取る??」
自分で質問したくせに、聞いてもよく意味がわからない。
首をかしげるあたしに、葵さんはちょっと笑った。
「わからなくて大丈夫だよ。私なんて、自分でやってることのくせに仕組みがよくわかってないから」
「そう、なんですか」
「縫代さんは、他人から悪意を受けて体調を崩す感じ、わかる?」
「わかる……と思います、多分」
いじめやパワハラで心身の調子を崩す人は現代社会において後を絶たない。あたし自身はそこまでになったことはないけれど、そうなる人が多いのはよくわかる。
そう言うと、葵さんはうなずいてから先を続けた。
「学校、家庭、職場、地域社会。他者から受ける悪意にはいろいろある。どんな人間でも、どんなに気をつけていたとしても、誰からも恨まれず、妬まれず、悪意を避けて生きることって難しいんだよね」
「わかります」
「それにさ、悪意があるとわかっていてその人から離れたくても、職場なら簡単には転職できないケースだってあるだろうし、よしんば転職したところで、新しい会社にいるのがいい人ばかりの保証もない。にこにこ笑って裏で悪意をぶつけてくる相手だっている」
「──はい、わかります」
あたしはかつての職場での出来事を思い返していた。
飲み終わった自分のマグを洗おうとして、給湯室に行った時のことだ。
「あの人にこれ教えなくていいの」
「いいよ、あの人なんか嫌いだし」
「そっかあ」
給湯室の中からそんな会話が聞こえてきて、あたしが姿を現すと、彼女たちはぴたっと口を閉ざした。
そして優しい笑顔で、お疲れさまー、ここ使う? と言ったのだ。
あたしがマグカップを洗っている間、彼女たちはひとことも話さなかった。
そして、そのことと関係あるのかわからないが、翌週に行われる朝の周辺清掃について、あたしは知らないままでその日を迎えたのだった。
年に一度ある社外の周辺清掃は一時間早く出勤しなくてはならないため、強制参加ではなく有志社員で行われるボランティアに近いものだ。
だが、ある朝普通に出勤した時の社内の冷ややかな空気をあたしは今でも忘れられない。
「さっきの小林様のことだけど」
あの時のことを思い出してあたしがしょんぼりしていると、葵さんが続けた。
「怖かっただろうけど、できたら彼女を嫌いにならないであげて欲しいんだ」
「……というと?」
「本来これは守秘義務に抵触する話なんだけど、説明しないとさすがにわからないと思うから、少しだけ言うね。あれは、彼女が言いたくて言った言葉じゃない」
言いたくて言った言葉じゃない……?
どういうことだろう、とあたしは思った。
「あれはね、彼女が言われ続けた言葉なんだよ」
あたしは息をのんだ。
はいじゃないでしょう。
仕事ってそういうものじゃないのよ。
口ごたえしないで。
思い出すと、自分のことのように胸が苦しい。
「本来の小林様は、大人しい普通の女性だ。多分だが上司か誰かにそれを言う人がいるんだと思う」
「そんな……ひどいです」
「ひどいよね」
そしてね、と葵さんは言葉を続けた。
「理不尽な悪意をぐっとこらえて我慢するタイプの人はね……店長のお客になりやすいんだ」
「呪いを受けやすいということですか?」
「そうなる」
「でも、だって、小林様が悪いわけじゃないのに」
「悪いわけじゃなくてもだよ」
あたしはなんだかやりきれなかった。
だって、悪意をぶつけてくる人は正当な理由があってぶつけてくるわけじゃない。ただ嫌いだからといって必要な連絡事項を伝えない人もいる。
だとしたら、あの時あたしはどうやって悪意を避けたらよかったんだろう。
小林様は、日々暴言を吐く上司の下でどうやって正気を保てばいいんだろう。
小林様はつらいはずだ。あんな高額を支払ってもいいと思えるほどには。
だけどそんなことを言う上司には、大人しくしていてもダメだし、なにか反発などしたら今以上にひどいことになるのは部外者のあたしにも想像がつく。
(こんなの、ひどすぎる……)
これが現実だとしたら、あたしたちは、どうやって悪意から逃れたらいいんだろう?
それを口にすると、葵さんは簡単だよと言った。
「淡々と幸せに生きてたらいいんだ。自分に悪意を向ける人とは距離を置いて、その人がいないところではその人のこと考えたりしないで」
「……それは、そうでしょうけれど」
「理不尽な悪意を他人に向けるような人が、満たされて日々幸せに生きてると思うかい? 否。自分の感情を自分で始末できないような薄っぺらい人間は、元々タメがないから放っておけば自滅する。ある程度の長期戦になれば相手は必ず自滅すると心に刻んで、自分は自分で淡々と幸せに生きたらいいんだ」
「でも葵さん、それは」
「だけどそれができる人はめったにいない」
あたしが言うより早く、葵さんは言ってくれた。
「悪意を気にしない、もしくは自分で跳ね返せるのが一番だけど、なかなかそういう人はいないよね」
そうですよね、とあたしは力強くうなずいた。
『あの人ちょっと言い方きついんだけど、気にしなくていいから』
『そういう人ってどこにでもいるよねー。気にしたらだめだよ』
人間関係の悩みを人に相談するとよく言われる言葉である。
確かにその通りではあるし、善意で言ってくれているのはよくわかる。だけど、気にしないって、そんなに簡単なことだとはあたしには思えないのだ。
「そうですよね、気にしないって、実はかなりの高等スキルですよね」
あたしが言うと、葵さんはじっとあたしを見つめた。
「な、なんでしょうか」
「君は自分で跳ね返してきたタイプの人だよね。珍しい」
「えっ」
「結構な嫌がらせにあってきたでしょ」
「ええっ」
「見ればわかる。というか、悪意を自分で跳ね返せるタイプの人っていうのは、嫌がらせする側からするとものすごくムカつくものなんだよ。だから余計にヒートアップしがちっていうね」
「そ、そうなんでしょうか……」
私もこの仕事長いからね、その辺は見たらわかるよ、と言って葵さんは肩をすくめた。
「悪意を自力で跳ね返せる人はめったにいない。だからこそ、私たちの仕事が成り立ってるわけなんだけど……やりきれないよね」
「そうですね……でもそんなすごいことができてた自覚はないんですが」
「できてるよ。というか、店長がスカウトしたんでしょう」
「そ、そう言っていいのかどうか」
「ハロワで見かけて口説いたって聞いてるよ」
「く!」
口説かれてたのか、あれは。そんなつもりはまったくなかったのだけど。
「縫代さんがそういう人だからスカウトしたんだと思うけどな。あいつもぼーっとしてるように見えて、人を見る目は確かだから」
うーん、とあたしは沈黙してしまった。
今思い返しても、そんなすごいことができてたつもりはまったくない。
ただ、あたしは思ったことを時折口に出してしまう悪いくせもあるし、決して完璧な人間じゃないからこそ、仕事は誠実に丁寧にやろうと心掛けていただけだ。
──誠実に仕事をしたからといって、陰口も仲間外れもなくなりはしなかったけれど。
考え込むあたしの前に、すっと、指の長いきれいな手が差し出された。
「まあ、私は縫代さんが来てくれて嬉しいよ。女同士、仲よくしよう」
「なんですかそれ、女同士って」
握手のつもりで出してくれた手に応じることもなく、あたしはまたしても、思ったことを口に出してしまった。
「なにかの比喩表現ですか? それとも故事熟語みたいな?」
「違う違う」
葵さんは白い歯を見せて愉快そうに笑う。その顔を見て、あたしははっと我に返った。
まただ、悪い癖だとわかっているのに、気を抜くと出る自覚もあるのに。
「ご、ごめんなさい!」
「いいよ」
「だって言葉の通りに受け止められなくて。女の人にはちょっと見えないっていうかそんなふうに見えたこともないっていうか……ああっ更にごめんなさい!」
言えば言うほどドツボにはまってしまう。
背中に冷や汗を感じるほど焦るあたしを、葵さんはひたすら楽しそうに眺め、最後のほうでは声をあげて笑っていた。
「いいよ、全然いい」
葵さんが笑うと、目元が下がり、見慣れているはずのあたしでもドキッとするような人懐こさがある。
「むしろ、思ってることそのまま口にしてくれた方がありがたいから。女に見られないのは高校生の時から慣れっこだし」
「ですよね! ……じゃなくて!」
力いっぱい手刀を切りながら言うあたしに、葵さんはまたしてもげらげら笑った。
「表面上は取り繕ってさ、腹の中ではなに考えてるかわからない人の方がよほどいやだよ。いるでしょう、たまに、自分は嫌いな人なんていませんよみんな好きですよって仮面みたいな笑顔で言う人」
「います……でも葵さんは、相手がなに考えてるかだいたいわかりそうです」
「わかるけどね。一応カウンセラーやってるし。ていうか、仕事でそういう人を見てるから私生活ではうんざりなんだよ。私だってリラックスして人と話したい」
なるほど……。なんだかあたしは妙に納得してしまった。
「で、さっきの縫代さんの疑問に答えるけど、性転換したわけでもなく、トランスセクシャルなわけでもなく、男装癖があるわけでもなく、正真正銘女だよ、私は」
「それで男装してないっていうほうがびっくりですよ」
「じゃあ逆に聞くけど、私がスカートはいて似合うと思うの」
「……ごめんなさい、あたしが間違ってました」
「よろしい」
でもでも、だけど、今こうして見ても葵さんはとても女性には見えなくて、でもそれを口にするのはさすがによろしくないという理性もあって、頭の中をぐるぐるさせるあたしに葵さんはいたずらっぽく笑った。
「証拠見せようか」
「えええっ」
そんな、いくら女同士だからって、こんなところでいきなり脱がれたらさすがに目のやり場がないのではないか。それとも一緒に温泉行こうとかそういう意味?
ありとあらゆる妄想が一瞬で駆け巡るあたしをよそに、葵さんはポケットからウォレットを出して一枚のカードを差し出した。
「はい、これ」
それは健康保険証だった。あたしは目をぱちくりさせる。
そこには確かに「性別・女」と書いてあった。
「これで納得してもらえないなら、ここで脱ぐしかなくなるんだけど?」
「い、いえそんなっ」
「でも脱いでも私の場合たいして女らしい身体ではないんだよね……それでも良ければ全然脱ぐけど」
「脱がないでください、お願いだからそれはやめてくださいっ」
シャツのボタンをはずしかける葵さんを、あたしは必死の思いで押しとどめたのだった。




