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なんにでも裏はある 2

 翌日の来店時に異変は起こった。


「こんにちは」


 小林様が予約の時間に現れた時、あたしは気がついたのである。

 彼女の様子がどこかおかしいことに。


(この人……昨日、こんな感じだったっけ……?)


 もちろんカウンセリングの前と後とでお客様の様子は変わる。

 憑き物が落ちたように晴れやかな表情になる人もいるし、来た時は感情に蓋をした能面のような表情だったのに、帰る時には涙をこぼしている人も多い。だが、今日の小林様の感じはそのどちらでもなかった。


「お待ちしてました。奥の個室へどうぞ──」


 あたしが促しても、入口のとある箇所で立ったままじっと動かないのである。

 そしてまばたきもせず、あたしを凝視している。


「小林様……?」

「いいわねえ、あなた」

「えっ」

「お名前なんて言うの?」


 あたしは一瞬言葉に詰まる。

 胸元に名札などはつけていないが、小林様の視線がそのあたりを探るように見ているのがわかる。胸元、顔、それからまた胸元。不躾なほど視線はじろじろと上下する。


「──佐々木と申します」


 あたしはとっさに偽名を使った。

 ここに入った時言われていたのだ。もしもお客様に名前を聞かれても、本当の名前は決して教えないようにと。


「あそう、ささきさん。ささきさんはいいわねえ」

「……と、申しますと?」


 あたしがやんわり聞き返すなり、急に小林様の音量が跳ね上がった。


「聞いてなかったのささきさん! いいわねって言ったのよ! いいわねえって!」


 どきっとするほど激しい口調でそう言われて、あたしは言葉に詰まってしまった。


「返事しなさいよ! 返事できないの!」

「あっはい」

「はいじゃないでしょうっ」


 明らかに今日の彼女は様子がおかしい。昨日とはあまりにも違いすぎる。

 彼女は近くの壁を手の平で叩きながら続けた。


「いいわねって言ったの! 毎日ここで働けてなにも苦労なくていいわねって!!」


 昨日はうつむきがちだった顔がまっすぐあたしの方を向いており、前髪の間から目がらんらんと光っているのが見えて、あたしは思わず一歩あとじさった。

 そして、そのわずかな動きを彼女は見逃さなかった。


「今逃げたの?」

「いえ、そんな」

「いえそんなってなに! 口ごたえしないで!」


 こうなってしまうともう、はいともいいえとも答えることができず、あたしは口ごもるしかなかった。

 小林様はさらに続けてくる。


「ねえささきさん! あなた、ねえ逃げたでしょ!」

「小林様……」

「逃げたでしょ! あなた、人の話を聞く気あるの、ないの! 仕事ってそういうものじゃないのよやる気あるの!ないの!」


 ぎらぎらと目を見開き、大きくこちらに詰め寄ってくる小林様は両手をあたしの方へ伸ばしていて、その指先が鉤爪のように曲がっていた。

 ──どうしよう、どうにかしなくちゃ、でもこわい。


「鎮まれ」


 その瞬間。

 あたしの背後ではっきりと声がした。

 けっして大きな声ではないのに、あたりによく響く声。

 その声を耳にするなり、小林様がぎくっとしたように動きを止める。声は続けた。


「俺の声を聞き、鎮まれ。この言葉に従い鎮まれ」


 それは頼もしい声だった。身体の深いところに響くような、この人が来てくれたからもう安心だと思わせてくれるような。


(……えっ、この声って)


 一瞬遅れてあたしは気がつく。

 その声の主が、ルイさんでも葵さんでもないということに。


(ということは……)


 あとは店長しかいない。

 だが今の声は──。


(違いすぎる。いつもの店長の声とはあまりにも。でも)


 あたしは振り向こうとしたけれど、それより早く、「ごめんねー」と言って目隠しの布をかぶせられた。


「あっはい……」


 今の「ごめんねー」をあたしは知っている。店長がよく言うあの感じだ。それに、いまあたしにかぶせられているのは、今日店長が着ていた白のファーケープ。


「店長、奥からなにか持ってくるか?」

「いや大丈夫、なんとかなる」


 どきどきしているあたしをよそに、別の個室から出てきて声をかけたのは葵さんだった。


(店長って言った、店長って……)


「行くよ、舌かまないでね、せーの」


 あたしがなにか大事なことを考え始めるより早く、どん、と重い爆発音が上がり、空気と床がびりびり振動する。


「ぎゃあっ、ぎゃああっ、ぎゃあああっ」


 女性が出しているとは思えないほど、しゃがれた絶叫が響く。

 それが小林様のものなのか、それとも別のなにかのものなのか、あたしにはわからなかった。


「あのっ、なにが……」

「まだだめ」


 あたしにかぶせたファーケープをそっと押さえて言ったのは、甘くやさしい低音ボイスだった。


「もう少しだけじっとしてて」


 落ち着いた声の中に気遣う気配を感じたので、あたしは口を閉ざした。

 命令されてそうしたというよりも、その人のためにそうしたかったから。


「今、返してる最中だからじっとしててね」

「はい」

「ん、いいお返事」


 少しだけ声が笑い、それから、ケープごしにぎゅっと抱きしめられる感覚があった。

 返すとはなんのことかあたしにはわからなかったけれど、ひとつだけわかることがあった。

 それは、その人の編み上げブーツは、今日店長が履いていたのと同じものだということだ。


「ごめんね縫代さん。不安にさせて」

「いいえ、大丈夫ですよ」

「頼もしいね」


 店長のブーツを履いたその人が、くすっと笑った。

 爆発音のあと、絶叫はしばらく続いていたがやがて次第に小さくなり、ヒィヒィとすすり泣くような声に変わりつつあった。


「葵、縫代さんを頼む」

「おっけ」

「こっちは俺がなんとかするから」


 あたしを抱く手が交代したのがわかる。

 今、ケープ越しにあたしを立たせてくれているのは葵さんだ。


「ゆっくり歩ける? ケガない?」

「大丈夫です」


 葵さんがあたしを事務所に連れて行ってくれると同時に、店長の個室の扉が閉まった音がした。

 濃厚だったとげとげしい空気が一気にかききえ、あたしはほっとため息をつく。


「葵さん」

「ん」

「この目隠し、もうとっても大丈夫ですか」


 いいよと葵さんが言うので白ケープをとると、店内は静まり返っていた。

 まるでなにもなかったみたいに。

 落ち着きを取り戻した事務所で、葵さんもあたしも無言だった。


 さっきのあれはなんですか。小林様になにが起きたんですか。あの低い声の人は店長だと思うんですけど、どうなんですか。あとさっきの爆発音はなんですか。小林様は無事なんですか。


 聞きたいことはいくつもあったけど、口にはしなかった。

 あたしは落ち着くための時間が必要だったし、葵さんはそれをせかす人でもなかったので。

 そして、ひとつわかったような気がした。

 こんな時でも、ただ黙って一緒にいてくれる。そんなことができるからこそ、葵さんはカウンセラーなのだ。


 長い長い時間が過ぎてから、あたしはようやく口をひらいた。


「あの……」

「うん」

「小林様は今、店長といるんですよね」

「そうだね」

「店長は大丈夫なんですか。……その、あんな状態の小林様と一緒で」

「あいつは慣れてるから」

「そうですか……」


 情け容赦なく時間は過ぎて、店長の部屋から小林様が出てきたとき、あたしは思わず音を立てて椅子から立ち上がってしまった。さっきのショックがまだ抜けきっていなかったので。


「大丈夫」


 そうささやいてくれたのは葵さんだ。


「大丈夫だから、心配するな」


 肩をそっと押さえられてあたしは再び椅子に座る。


「あのう、お世話になりました……お支払いお願いしてもいいでしょうか……」


 だが、出てきた小林様はすっかり常識人で大人しめの女性に戻っていた。

 私がやるから、と葵さんが手際よく会計を済ませる。

 本日の会計は、15万円。


(ひーーーーーっ)


 額が多すぎる。いくらなんでも、多すぎる。

 だが小林様は平気な顔でそれを払い、葵さんも当たり前に受け取っている。


「次回のご予約はどうなさいますか」

「えーと、なんだかすごくすっきりしたから、しばらく大丈夫かも」

「そうですか」

「またなにかあればご相談します」

「かしこまりました」


 その時の葵さんは、あの時と同じだった。

 はじめてあたしがここに電話をしたときの、てきぱきと有能そうなあの感じ。


「それではどうも──」


 拍子抜けするほどなにごともなく、小林様が会釈をして帰っていく。

 あたしと葵さんは彼女を見送ってしまうと、店長の部屋の前に駆けつけた。

 葵さんが手荒くノックしながら声をかける。


「お前、大丈夫なの」

「大丈夫だよおー」


 いつも通りののんびりした口調が返ってきて、あたしはちょっとだけほっとした。でもまだ声が低いままだ。葵さんは続けた。


「縫代さんが心配してる。なんか言ってやれば」

「ああ、ごめんね縫代さん。すごくびっくりしたと思うし、なによりも怖い思いさせて本当にごめん」

「いえそんな!」

「責任はすべて僕にあるし……本当に縫代さんには、心から」

「いいえ大丈夫です!」


 店長はまだ話そうとしていたけれど、あたしは慌てて割って入った。

 なぜって、声が苦しそうだったから。平気そうにしてはいるけれど、話すのもつらそうな気配がある。


「あたしなら大丈夫です。なにかして欲しいことはありますか?」


 沈黙が落ちた。

 なにか変なことを言っただろうか? 心配になるくらい長めの沈黙が落ちたあと、店長はゆっくり言葉を紡いだ。


「じゃあ……ひとつお願いしてもいい?」

「なんでもどうぞ」

「明日も出勤してきてくれますか?」

「当たり前じゃないですか」


 なにを言ってるんだろう、この人は。あたしはかぶせ気味でそう答えた。


「ちゃんと来ますよ。明日も明後日も」

「そっか……よかった」


 そこからは、店長と葵さんとの間でひともんちゃくがあった。


「あのね、葵。金庫から封筒を出して縫代さんに受け取ってもらって……」

「やめろ」

「えっでも、本当に怖い目に遭わせちゃったから」

「やめろって言ってんだ。お前それをするから余計怖がられるってことにそろそろ気づけ」


 えーでもー。いいからやめろ。えーでもー。うるせえ。

 口げんかにも似た応酬が続き、結局、折れたのは店長のほうだった。


「んーじゃあわかったけど……そうだ、僕、原状回復しないとだから、明日は休みます」

「ゆっくり寝ろ」

「なにもないとは思うけど、縫代さん」

「はいっ」

「あとはおまかせしますね」

「おまかせください」

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