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甘やかしのすすめ 1

 それから一週間、あたしはたちまち新しい仕事に慣れてしまった。

 とはいえ、慣れるほどの仕事もなかったのだが。


「縫代さんには電話番と、予約客の受付対応をやっていただきます」

「はい」


 今日の出勤はこのふたり、予約スケジュールはこれ、と手渡されてみるとカウンセラー2名の予約はすでにぎっしり埋まっていた。

 客同士が鉢合わせしないよう、予約の時間は30分ずつずらされている。


「基本的に当日の飛び込みはお受けしないでください。それからお客様には近づきすぎず」

「雑談しないようにという意味ですか? それとも物理的に?」

「物理的な意味でですが、可能ならどちらも気をつけて」

「──はい」


 よくわからない部分もあったけれど、あたしはとりあえず、そう言っておいた。


「それさえ守ってもらえれば、あとは事務所でなにをしていても構いません。お茶飲んでても、映画見てても」

「……は、い」

「どうぞこれ、タブレット」


 ぽんとタブレットを手渡されてあたしは少々面食らった。

 業務中にサボってていいよと言われる職場って、どうなんだろうと思ったのだった。


(しかも、この給与待遇で……)


 これはなにか裏があるに違いない、とあたしは店長の言うことを、とりあえずあんまり真に受けないようにしようと思った。

 そんなあたしの内心を知ってか知らずか、あっそうだいいものあったんだ、と店長は胸の前で手を合わせた。

 事務所の片隅から高級そうな紙袋を持ち上げると、中からつや消しの黒い箱を取り出す。


「縫代さん、甘いもの平気ですか?」

「好きですが……」

「よかったですー」


 あたしはこのあたりから段々気づきはじめていた。

 店長が甘くゆったり語尾を伸ばしてしゃべる時は、本音でしゃべっている時なのだと。

 店長が横を向いていると、白い喉にはっきりとした凹凸が見える。のどぼとけだ。

 普通の男性よりよほど立派なそのラインだけが、唯一、彼の外見で男とわかる部分だった。


「よかったらこれ、食べてください」


 ノートパソコンほどの大きさの、ずっしりと厚みのある箱である。

 蓋をひらくと、なかはまるで宝石箱のように二段になっていて、そこにはずらりと粒トリュフやバトンチョコレートが並んでいた。


「な、なんですかこれは……」

「うふふ、頂き物ですー」


 たたずまいからしてもう、手をつけるのがもったいない品である。

 こんな豪華なチョコレートの詰め合わせは初めて見る。


「さ、どうぞどうぞ」


 店長がにこにこしているので、あたしがおそるおそる一粒つまもうとすると、「えっ」と言われた。


「これ全部、縫代さんのですよ。箱ごとどうぞー」

「えっ」


 今度は同じことをこちらが言う番だった。


「あの、店長のぶんは……」

「まだ同じやつ3箱ありますから」


 両手で支えなくてはいけないほど重たいそれを三つ、軽々持って彼は奥のほうに消えていった。


 あたしは呆然とチョコレートの箱を見つめる。

 イートンメス、チョコレートマカロン、キャラメルチーズケーキ。

 リーフレットの絢爛豪華な写真を眺めながら思う。

 こんなにも甘やかされる職場がこの世にあったのかと。そして、すぐ我に返った。

 ダメだ。

 この生活に慣れたらダメ。

 前の職場がある日いきなりなくなったみたいに、ここの会社だっていつなくなるかわかりはしないのだ。

 こんな甘やかされる日々に慣れていたら、ここがなくなった時、どこでも働けなくなってしまう。


(──それは、ダメっ)


 もらっている給料ぶんとまではいかなくとも、できることは自らすすんでしなくては。

 そう心に決めると、チョコレートの大箱をそっと冷蔵庫にしまい込んで、あたしは腕まくりをして事務所の掃除に取り掛かったのだった。


 ◇◇◇


 店長が礼儀正しく、また紳士的な人だということはすぐにわかった。


 あたしが座っている事務所はお客様受付も兼ねているため、特に扉のようなものはないのだが、店長があたしに用事があって事務所にやってくる時、彼は必ず、コンコン、と手前の壁をノックするのだ。


「縫代さん、そっちに行ってもいいですか?」

「もちろんどうぞ」


 あたしがそう返事してから店長はようやく姿を見せる。

 彼の店だし、自由に行き来してくれていいのだし、と本人にも言ったのだが、ここは縫代さんにおまかせしているあなたのパーソナルスペースだと思っているから、と言って譲らないのだ。


「暑いとか寒いとかないですかあー?」

「ありがとうございます、ちょうどいいです」

「エアコンのリモコンはここ、あとブランケットがここにあるので必要なら使って下さいね?」


 お茶とコーヒーはここ、Wi-Fiのパスはこれ、給湯まわりはもう好きなように使って下さいね、と店長は必要なことをひとつひとつ教えてくれた。

 そして用がない時は奥の自室に入ったきり、出てこない。

 そんなこんなで、なんだかもう初日にしてあたしは身が引き締まる思いだった。

 ここまでしてくれるのだから、できることはなんでも見つけて頑張らなくてはと思って。


 10時少し前になって、入口の扉がゆっくりひらいたかと思うと、スタッフのひとりが出勤してきた。


「ああ、今日からの人だよね」


 その人はあたしを見るなり、王子様みたいなやさしい笑顔でそう言った。


「店長から聞いてるよ、よろしくね」


 よ、よろしくお願いします。

 とあたしは言えたのだったか。

 思わず言葉をなくしてしまうくらい、その人は整った容姿をしていた。

 入り口に頭がぶつかりそうな長身、すらりとした体躯。甘い顔立ちに金に近い茶色の髪はさらさら。ダークスーツの下にはおそらくシルクであろうシャツを着ている。


「店長から聞いてるかな? 僕、御堂ルイです」

「ぬ、縫代いちかです」


 身長差がありすぎるので彼は長身をかがめるようにしてあたしの顔を覗き込んでくる。

 その瞳の芯でじっと見つめられて、あたしはどぎまぎしてしまった。

 童話の中から王子様が間違えて出て来ちゃったかな? と思うくらい、彼の雰囲気は浮世離れしているのだ。

 そんな彼はあたしを見つめたまま小さくうなずく。


「あー、なるほど」


 なにがなるほどなのか、あたしにはわからない。

 わからないのに、それを追求するだけの力がない。


「うん、店長が好きそう」


 店長が好きそう。

 てんちょうが、すきそう。


 それがどういう意味なのかあたしが口に出すよりも早く、御堂ルイはあたしの左手をすくいあげると、手の甲に唇を落とした。

 恭しいといってもいい仕草で、手の甲に口づけされる。


 手の甲にキス。手の甲にキス。手の甲にキス。

 そんなことをされたのは28年の人生で初めてで、あたしは体が硬直してしまって動けない。

 御堂ルイはその茶色の瞳でじっとあたしから目を離さない。

 目を離さないまま、長い長い口づけを手の甲に落としている。

 あたしの指先がカタカタと小さく震えはじめる。頭の芯がぼうっとなって、くらくらするのは気のせいだろうか。


「こらこらこら、ルイくーん!」


 奥の部屋から店長が飛び出してきて、あたしたちの間に割って入るまでそれは続いた。


「なにやってるの、味見しないの」

「やだなあ味見だなんて。ご挨拶だよー」


 ここ日本ですよね。あたしたち日本人ですよね。

 口の端までそんな言葉が出てきかける。

 それを実際に言わなかったのは、我慢したというよりは声にならなかったからだ。


「そんなご挨拶があるかー」


 かわりに店長が言ってくれた。

 ルイさんがあたしから離れると、現実が確かさをもって戻ってくる。さっきまで視界にもやがかかったみたいになっていたのが嘘みたいだ。


「ごめんね新人さん。大丈夫?」


 ルイさんはやさしく笑った。

 まるでなんにも特別なことはしてないよ、みたいに。


「だ、だいじょうぶです」


 まだなにもわかっていなかったあたしはそう答える。


「そ、ならよかった」


 今度ゆっくりお話ししようね、またね。と言って現代の王子様は奥の個室に消えていった。

 その後ろ姿をあたしはぼんやり見送る。

 ゆったり優雅な物腰としなやかな長い手足。整った顔立ちに現実離れした立ち居振る舞い。

 どれもが少女漫画から出てきた王子様みたいだと思った。

 ──なにしろ、その時はまだ彼のことをなにも知らなかったので。


「ごめんね、うちのスタッフしつけがなってなくて」

「あ、いえいえ……」

「もうあんなことさせないからね、大丈夫?」


 あたしよりも頭ひとつぶん背の低い店長が、すまなそうにこちらを見上げてくる。そのエメラルドの瞳が真摯にあたしを案じているのがわかり、あたしは笑顔を作ってみせた。


「大丈夫です、ちょっとびっくりしちゃっただけで」

「僕からよく言っておくから。本当にごめん!」


 そんなやりとりをしているうち、再びゆっくりと入り口がひらいた。

 その人が姿を現したとたん、あたしは今度こそ、心臓が止まりそうになる。


「…………はよ」


 けだるげに掠れた声で言いながら出勤したその人は、あたしのことを一瞬ちらりと見たけれど、すぐに視線を外して奥の個室に向かおうとする。

 あたしは心臓のど真ん中を射抜かれた気分になった。


 こ、こ、この人だ。

 最初に電話をとってくれたの、この人だ。


 だがその人はあたしを一瞥するなり、興味なさそうに目を逸らした。電話の時のてきぱきとした有能そうな感じとはえらい違いだった。


「──そんじゃ」

「ちょおちょおちょお!」


 店長がそれを引き戻して、無理やりあたしの前に立たせる。


「新しい人来るから紹介するって言っておいたじゃない」

「聞いたけど。朝は苦手だって知ってるじゃん……」

「もう10時半でしょー」

「朝だよ」


 甘く低い声で抑えぎみに話すその人は、なんと……なんというか、ものすごかった。


「縫代さん、この人ね、うちのもうひとりのスタッフで葵永羽です」

「よ、よ、よろしくおねがいいたします」


 あたしはロボットのように頭を下げた。


 電話の時も、ひどく吸引力のある声と話し方だと思ったけれど、本人を目の前にすると更にすごい。

 ありていに言うとあたしは、葵さんから立ちのぼる色気にやられてしまっていたのだった。

 ひとめで高級品だとわかる光沢のあるシャツ。黒の上下に銀のアクセサリーをごくわずか。襟足だけ長めにしてある黒髪が、首筋にひと房まとわりついている。

 水も滴る色気って、きっとこういうのを言うんだろう。


「…………もういい?」


 もっと話せよとかなんとか、店長はぶうぶう言っていたけれど、葵さんは関節の目立つ手を雑に振ってそれをいなす。


「それじゃまたね、縫代さん」


 いつの間にあたしの名前を覚えたのか、それだけ言って葵さんは個室にこもった。

 店長とふたりきりになるや否や、あたしはもうもう我慢できなかった。


「あの!!!」

「なあにー」

「ここって実は出張ホストの待機所なんですかっ」


 まさかあーと店長はおかしそうに手を叩いた。


「本当ですか、本当ですね!」

「違う違う、第一出張してないもん」

「……それはそうですが」

「うん、ハコ型ハコ型」


 縫代さんてほんといいなあ、本当に来てもらって正解だった、と言いながら店長は上機嫌で奥に引っ込んでいった。

 そっか、箱型だから大丈夫か。セーフか。


 そこまで考えてから、あたしははっと気がついた。

 違う、そこじゃない!


 うまいこと店長にはぐらかされたと気がついたのは、少し遅れてからのことだった。

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