表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

泉鏡花作品 エッセイ

泉鏡花『辰巳巷談』雑感

作者: らいどん

 鏡花、明治三十一年二月作。『湯島詣』が書かれた前年にあたる。


 題名の「辰巳」は、江戸城から見て辰巳(東南)の方角にあった洲崎花街を指すのだが、本作の直接の舞台になるのは、洲崎に隣接した深川木場である。

 芝居や時代劇でもよく描かれる、辰巳芸者の粋と意気地を形成したのが、木場の労働者たちが形成したコミューンの風俗であり、作中でも船頭たちの荒々しい言動や、半裸全裸で立ち回る男女が活写されている。赤坂から深川まで椀車(くるま)を引いてきた車夫が「まるツきり世界が違つてますから。」と漏らす様子からして、鏡花から見たそれはちょっとした異界なのだ。


 例によって作品の構成に目を向けるのもいいのだけれど、エピソードの重層や枝葉があまりにも多い本作では徒労に終わりそうだ。前半と後半で陽と陰がきっぱり分かれた鏡花前期の典型的な悲劇とは、タイプを異にしている。

 登場人物も多種多様で、読み終えると、当時の深川で暮らすたくさんの人の、忘れがたい人生をのぞき見たような気持ちになる。それでいて描かれた場所は限られていて、芝居でいえば背景や大道具を四景しつらえれば事足りるほど。たくさんだと思えた登場人物も、実際はその多くが会話や回想や関係性のなかで像を結んでいるだけだ。


 主要な舞台の一つに、お君とお重が暮らす平田三八の長屋部屋があるのだが、主人の三八はその人となりが語られるだけで、最後まで姿を見せない。

 沖津が暮らす富岡門前の裏長屋には、たの字という渾名の清元の師匠が隣家に暮らしているのだが、その師匠は「たの字」という章題にさえなっているにもかかわらず、戸の内側から「は、姉さん。」と一言、いい声を聞かせるのみである。ちょうど歌舞伎の儲け役のように……いや、(清元といえば愛妻すずをモデルにした人物を出さねば気がすまないという通例からして)鏡花がすずをカメオ出演させたつもりなのかもしれない。

 そもそもの話、「辰巳巷談」と題しながら、洲崎遊郭は遠景の街灯りとして描かれるだけ、回想のなかに現れるだけなのである。


 冒頭では、鏡花の典型的な主人公というべき美青年の(かなえ)が、花魁あがりのお君との恋を背負った立ち回りを演じるので、当然彼が主人公だと思って読者は読み進めるのだが、それっきり彼の消息を不明にしたまま物語は進んでいく。鼎に代わってその心情にフォーカスが絞られるのは意外にも、型どおりの憎まれ役として配置されていた船頭の宗平(そうべい)である。

 単純な陽陰の対比ではなく、悲劇を裏返すと別の悲劇があり、さらに裏返してももとの悲劇ではなく別の悲劇が現れる。男と女の因果物語かと思えたものがねじれにねじれて、女と女の因果に帰着する。


 それだからといって『辰巳巷談』を構成の破綻した小説だと考えるのは早計で、読後にはたしかに、失敗だと感じさせるどころではない、充実したなにかが残っている。ちょうどバルザックの『ゴリオ爺さん』のような小説と同じで、多種多様な登場人物の暗躍のなかで、後半に至ってようやくラスティニャックが主人公たる位置を占めるように、この小説の終幕においては、中盤に出番がなかった沖津がすべての因果を引き集める。

『ゴリオ爺さん』が、あえて迂回した語りによってパリという都市の全体を描く意図を鮮明にしたのと同じ方法によって、鏡花も深川・洲崎のありったけを写し取ろうとしている。


 ただし、ときには饒舌を垂れ流すかのようなバルザックの小説と比べると、鏡花のそれははるかに技巧的である。大都市パリに比べるとかなり小規模な地域だとはいえ、洲崎遊郭を舞台にすることなく遊郭の悲哀を描き、簡潔な短編に収めているのは驚くべきことだ。

 とはいっても、鏡花がバルザックと同じように野心的な方法論を構えていたといえば、ちょっといいすぎになるだろう。

 すくなくとも鏡花が採った方法は、当時の文壇が熱望していた舶来の方法論とは違っていた。それは想像するに、想い描いた物語をいったん頭のなかで舞台上演して、その舞台装置や美術、衣装、そして役者の演技や演出の勘所を小説の描写として写し取るといった、古き良きものの再活用のようなものだったのではないか。


 想像のなかのものとはいえ、舞台ならではの制約を真似ることから必然的に、枠に囲まれた空間からことばによって全体を描く、圧縮された語りが生みだされる。

 夜の深川を舞台にするにあたって、お約束のように背景に描かれる月は、ただの書き割りであるはずなのだが、それを小説の描写としてふたたびそこにあるものとしてとらえようとする空想の力を得たとき、同じように想像上の人物や風景に対しては実際の月よりも、象徴性を倍加した作用をおよぼすことになる。


 [お君は] 月をあびたから(けぶり)のやうな蒼白い光が染みて、昼はまだ帷子(かたびら)を着るのであらう、洲崎の燈籠も一ツ二ツ次第に消えていつの間にかひッそりした時好(じこう)であるから、夜は、殊に、月夜は殊に殊に川風の(ひやや)かなので、(かいな)にも胸にもひツたりおしつけるやうに(うすもの)を吹いて寒さうで(あわれ)である。(『辰巳巷談』はがひじめ)


 先に、古き良きものの再活用といったけれど、言葉を換えていえば、いったん虚構化したものを幻視することで、ふたたび現実としてよみがえらせるという、その虚構というものが日本の伝統に根ざしたものだとすれば、日本でしかありえない象徴主義、神秘主義が鏡花の方法になったともいえる。


 そういう独自の方法を突き詰めようとする姿勢は、ときとして理解を超えるような奇景としてあらわれることもあって、のちの『春昼』や『草迷宮』といったおばけがらみの小説で読者はそれに突きあたることになるのだけれど、『辰巳巷談』にもそれらに劣らない奇景がある。

「百夜通」という、物語の転換点にあたる重要な章がそれで、そこでは多くの物語的な意味が含まれているにもかかわらず、なんとお君の衣装や容姿の描写だけで一章のすべてが埋めつくされている。


 鏡花にしてみれば、劇場の花道を思い入れたっぷりに練り歩くていのお君を描くにはなにを写すべきなのかを素直に取捨選択した結果なのかもしれない。けれども西洋文学においてそんなものは、ドナルド・バーセルミのポストモダンな前衛小説の出現を待たなければお目にかかれなかったような奇景なのだ。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ