9 たとえ誤解されても、たとえ理解されなくても
此処は丹沢の駐車場。荏原学園の一年生たちは、遠足で来ていた丹沢から帰ろうとするときでした。1Aのバスはもちろん他のクラスのバスでも、外で教職員たちが慌てて動いている様子が見えていました。その時、鶴羽が驚愕のニュースを持ち込んできました。
「ねえ、理亜、玲華。隣のクラスの瑞希と幸恵の二人が、集合地点に帰って来てなかったんだって」
彼女の知らせは理亜と玲華だけでなく、女子男子を問わず、1A全員を驚かせました。
「先生たちは何て?」
「先生たちはもちろん、運転手さん、ガイドさんたちまで、全員で探し回っているわ」
女子生徒たちは互いに情報を交換し合い、男子生徒たちもまた、女子生徒たちの話から失踪の状況を断片的ながら把握していました。
「心配ないさ」
そう言ったのは、ユバルでした。
「なんでそう言えるの?」
「瑞希さんなら、この近くにご母堂の御実家があると言っていたぜ」
ユバルはそう指摘すると、言葉を交わしている鶴羽たちの目に一瞬光を送ったように見えました。
「あ、確かにそうだけど」
「それなら、心配ないじゃないか」
バスのクラスメートたちは、全員がなぜかユバルの言葉に同意し始めていました。
「そうね」
「そうだな」
ユバルは明らかに意思を操作していました。但し、木偶の坊ゆえにあまり明確な意志を持ちえていないジミーは、これらの会話とユバルの作用とを一切素通りしていました。
しばらく経ってから、隣のクラスから、『教師たちのところに幸恵が戻った』という一報がもたらされていました。
「幸恵がもどったの?」
「ええ、そうみたい」
「でも、彼女だけが戻ってきたみたいよ」
「じゃあ、一緒だった瑞希はどうしたの?」
「それが、あれほど仲のいい幸恵を、突然無視し始めたんだって」
「え、うそ!?」
「それが本当なのよ。それからというもの、幸恵が何を言っても無視しどおしだったらしいわ」
「それ、おかしいわよ」
理亜がそう言った時、ユバルが否定する声を上げていました。
「いや、おかしくないよ」
これには、バスの中の皆が一斉に反応しました。それを確かめるようにユバルは再び全員の目を一瞥するようにして眺めたのでした。すると、ジミーを除くバスの中の全員が否定的な表情を一切消しました。ジミーは意識がはっきりしなかったため、やはりこの時も明確な作用を受け取らなかったのでした。
失踪した瑞希の行方不明が決定的になった後、教師たちは問題の処理を現地の警察へ任せるしかありませんでした。無力感にとらわれた教師たちは、バスに待たされたままだった生徒たちとともに学園へと戻っていきました。
帰路に就いたバスは、疲れて眠りについた教師と生徒たちを乗せて荏原へと戻って行きました。帰路についてからしばらく走ったころ、ジミーだけが行動を起こし始めました。このとき、ジミーはたまたま理亜の顔を眺めながら呆けていたのですが、非常に不安そうな表情をしていた理亜の顔を見ていた時に何かを受け取ったのか、脳の片隅では計算が始まっていました。すると、計算された結果が意識の明確でないジミーをはっきり動かし始めていたのでした。
彼は、眠りについているクラスメイト達をそっと通り過ぎ、バス最後尾へすすんでいきました。ユバルはそれをしっかりと観察し続けていました。ユバルの記憶では、最後尾には、男子生徒たちが占領して横になったり互いに重なったりしており、ジミーが座り込む余地はありませんでした。それでも彼は最後尾席の奥に入り込んで行きました。
彼の中では、脳の片隅が計算したとおりに、自分の体、バスの速度、瑞希のたどった経路などが次々に明確に脳裏にイメージされていきました。このあと、彼の身体はバスから消え去ったのでした。
しばらくして、ジミーがいつまでたっても戻ってこないことを不審に思ったユバルは、バスの最後尾に行ってみることにしました。すると、そこにはジミーの姿はなく、また座り込んだ形跡もありませんでした。
「ジミーはどこへ行ったんだ?」
ユバルは注意深くジミーの行動を監視していたのですが、ジミーの中で何が動いたのかまでは何の兆候も見られなかったために把握できていませんでした。ですから、ユバルにとって何が起きたのかを想像することは難しいことでした。そのため、兄の分析指揮官ヤバルにこのことを早く連絡することができませんでした。
ジミーはバスから瞬時に移動し、次の瞬間には瑞希の後ろに現れました。おそらくその周囲にいた者たちには、突然現れたように見えたでしょう。ジミーは、目の前の様子から、瑞希が両腕を捕らえられて連行されていくところであることを一瞬で把握し、彼らに声をかけたのでした。
「瑞希ちゃんをどこへ連れて行くのか?」
いきなりそのように問いかけられ、驚いたように振り向いた人影は、普通の人間ではありませんでした。耳はとんがり、色白で背が高く、目は青色のイケメンたちでした。
「どうやって追跡できたのかは知らんが、ここまで追いかけて来るとは、大した人間だ」
「人間? あんたたちは何者だ?」
「私たちも人間だよ。但し、私たちはあんたたち現生人類の上位種族のカインエルベンだ。あんたたちにとっては『カインエルフの末裔』もしくは『エルフ族』と言ったほうがいいかもしれないな」
この返事が終わると同時に、瑞希を捕まえていた二人のうちの一人がジミーを攻撃し始めました。しかもそこにはいつのまにかユバルに似たエルフが、ジミーの敵方に加わっていました。
「ユバル、あんたは、僕たちのクラスメイトじゃなかったのか?」
「ユバル? クラスメイト? 私はヤバルだが」
「ユバルに似ていると思ったが...」
たしかに200センチほどのユバルに比べて、250センチの身長とその体格は、170センチのジミーには確かにより一回りも大きく見えていました。
「では、ヤバル。彼女をどこへ連れて行くんだ?」
「あんたはこの女に何の用だね?」
「同級生だ」
「ほ、ほう? だが、彼女はこの世界には未練がないそうだ。だから、彼女の理想の男がたくさんいる世界へと連れて行ってやるだけだぜ」
「世界だと? そんな世界があるはずがないだろう」
「お前たちが知らないだけだね。そうか教えてやろう、この現時空以外にも異次元時空、つまり異世界があるのだよ。しかも現時空を含めた異次元時空は、インフレーション以来、時間経過とともに多数に分岐する多次元世界なのだよ」
「多次元世界?......」
「そうさ、我々はこの時空を知り、異世界を知る人類さ。いわば、あんた達人類の上位種族。我々はエルフもしくはカインエルベン族と呼ばれている。我々の世界は理想の世界だ。だから、彼女にとって理想の男たちがたくさん彼女を迎えてくれるだろうよ」
「それはお前たちが勝手に連れて行こうとしているだけだ......」
「いや、我々の姿を見せただけで、彼女はもうその気になっていたぜ。我々種族の男たちがホストとして奉仕して差し上げるとほのめかしただけで、彼女はその気になったぜ」
「こんなことを、僕らの周辺で行うとは......許せん」
「この時空のほかの場所、ほかの星でも行われていることだぜ」
「ほかの場所、ほかの星?」
「そう、あんたたちのこの時空のさまざまな星や場所で、我々の同胞たちが、多くの性的相手を得たいと渇望しているあんた達の輩を、こうして連れ去ってやるんだ。あんたは多くの相手を同時に侍らせたいと考える男女を、許せないだろう、だから我々がそんな男女を掃除してやっているだけだぜ」
「そんなことを願う男女が居るはずが......」
「今、知らせがあったが、お前、ジミーだな。どうやってバスからここまでやってきたんだ? そうか、ジミー、お前は我々が警戒してきた特殊な人物だったな。それにお前は、不特定の異性はおろか、特定の相手でも契約を交わしていない異性を眺めることに耐えられない、そんな異常に潔癖な人間だ、と聞いている」
「ぼくが、か?」
「そうだろ、女の子の体を見ることができないなんてな」
「確かに、僕は婚約を経なければ、その女の子の体を見ることに耐えられない。ちょっと前であれば、体がこわばったものだ。しかし、それは本来の姿、すなわち、啓典の主が結び付けた二人同士のみが一体となることができるという現時空の美しい姿を、体現しているだけだ」
「だから、あんたを今まで見張って来たのさ。あんたは我々一族を呪った創造主が、最も愛する一人だからな。あんたの主はあんたをそう造り上げ、あんたの行動を決定づけることは予想していたよ。だから、このあたりでの我々の連れ去り作戦に対して、あんたが必ず来ることも予想していたのさ」
「そうか、よく調べ上げているんだね。それなら僕に対抗する策も用意しているんだろうな。それなら容赦する必要はないね」
「そうさ、それでは我々の最高の技を受けてみるんだな」
ヤバルはジミーを睨みつけると、ジミーめがけて何かの高速射撃を始めていました。それらは、カインエルベン族の住む地の呪われた土、ヘクサマテリアルによる現象でした。しかし、ジミーは平然として射線を見定めると、射出された物体や光線の進む方向を歪めたうえ、平然とそして徐々にヤバルに近づいていきました。
「むだだ。こちらに撃ち出しているものが何かは知らないが、無駄だ。すべての敵対行動を止めた方がいい。これは勧告だ」
「なんだ? お前のその魔術、もしくは魔法は…」
「ほ、ほう? これを魔術、魔法というのかね。ということは、あんたたちのその能力は魔術、魔法ということになるね」
ヤバルたちとのそのやり取りをしている隙に、瑞希は既にジミーの左側に転移しており、彼が左腕で抱えていました。
「な、何、いま、どうやって?」
「それは、あんたたちのつかう魔法、魔術の類ではない、とだけ言っておこう。ただし、これ以上やるなら、あんたたちは一度に消えることになるぞ」
「な、なんだと」
ジミーは構わずにエルフ族の二人を一瞬で蒸発させていました。ただ、一瞬早くヤバルは何が起きるかを察して、別次元へと逃げだした後でした。
こうして、無事に瑞希はバスに戻ることができたのでした。
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「あ、あれは......」
遠足から戻り、春から夏へ向かう頃、そろそろ各クラスでは、クラス内の気に入った者同士が共に下校する姿が見られるようになりました。そうすると、気の合った者同士で一緒に行動するようになるものです。この二人の少年たちもそんな気の合った友人同士でした。この目ざとい少年たちは、ある種の写真や映像には敏感でした。この年頃の男子であれば、普通は異性の様々なところに強い関心を持っていたのです。
1Cの新藤英二と新原和人は、この日、荏原学園からの帰り道、駐車場の奥を何気なく見ていました。そこには、極彩色、特に人間の肌の色が映っている18禁のグラビア雑誌があったのです。彼らは反射的にその駐車場の奥へと入り込んでいきました。
「こ、これは」
「す、すごい」
「あ、こんななところまで」
英二と和人は、足元にある18禁のグラビア雑誌をのぞきながら、大声で話すことに夢中になっていました。
「そう言えば、1Aのチャウラ玲華と体形が似ているぜ。細身なのに胸が大きくてよ」
「こっちの女の身体、少しぽっちゃりで、チャウラ理亜に似ていないか?」
彼らは、あろうことか、同学年の別クラスの混血娘たちを話題に挙げて、歓声を上げていました。ジミーはたまたま運悪く、そこに通りかかったのです。
「あんたたち、1Cだよな。僕のクラスの理亜と玲華のからだがどうしたというんだ?」
ジミーはそう言いながら、英二と和人に近づいていきました。しかし、英二と和人は、ジミーを嘲笑しながらも無視し、二人だけで話を続けていました。
「1Aの変人、数野じゃないか。お前には関係ないよ。あっちへ行けよ......おお、和人、この写真、すげーぞ」
「あ、あんたたち、それを見ながら同級生の女子を貶める話をしていたのか」
ジミーは、相手二人の足元に18禁のグラビアがあることを一瞥し、それ以上近づきませんでした。しかし、目の前の二人が相変わらず理亜と玲華の胸や体形の話を続けていることに、我慢が出来ませんでした。この時、彼の脳の一部が計算活動を始めていました。
「あ、あんたたち、玲華と理亜の体形の話をするな!」
ジミーはそう言うと、二人の足元にあるグラビア雑誌を空へと蹴り上げました。
「この野郎、何をする」
「こいつ、いい子ぶりやがって」
彼らはこういうとジミーの腹を蹴り上げました。蹴りはいなせたものの、彼はうずくまるしかありませんでした。このままではジミーは怒りのままに彼らを殺しかねませんでした。
彼らはジミーを一瞥したものの、ふたたびグラビア雑誌を眺めながら、同級生の女子生徒たちをネタに談笑をつづけていました。そこへ、二人のスレンダーな少女が近づいてきました。耳はとんがり、色白で背が高く、目は青色の少女たち。少女とは言っても、すでに胸は十分にたわわに実った葡萄の房でした。彼女たちは、倒れこんでいるジミーを横目で見ながら、談笑にふけっている二人の男子に近づいていきました。
「あなたたち、私たちと一緒に遊ばない?」
「え、ぼくたちと?」
英二がそういうと、和人も驚いたように少女二人を見つめていました。
「こ、このグラビアの女性......この女の子たちだ...」
「そうよ。そのグラビア写真、私たちよ」
「私たちと一緒に来てくれれば、もっと教えてあげるわ」
二人の少女は、それぞれ英二と和人の耳元へそう囁きました。二人の少年は話すことも動くこともできませんでした。二人の少女は、少年たちが動けなくなったのを見て、さらに彼らの頬にキスをしたのでした。
この時、ジミーはようやく起き上がることができました。彼は目の前でなされている「不純異性交遊」に我慢できず、起き上がると同時に彼らを糾弾し始めたのでした。
「あんたたち、荏原学園の一年生男子と女の子たち。ここでそんなことをすべきではないよ」
「あんたには関係ないわよ」
少女たちはジミーへ振り向くと、互いに顔を見合わせてジミーをにらみつけました。
「あんた、数野ジミーだったわね。さっさと行ってしまいなさいよ」
「それとも、私たちの邪魔をしに来たわけ?」
ジミーは十分に警戒していたのですが、この時、少女二人の背後にいきなりヤバルが姿を現し、ジミーを驚かせました。
「二人とも遅いじゃないか。おお、これはジミーじゃないか」
「あ、ヤバル!」
二人の少女はヤバルが現れたことに安心したのか、ジミーをあざけるような眼でにらみつけました。
「あんたが数野ジミーね。女の体を直視できないんだってね」
「じゃあ、ちょろい男だね」
「カラーナ(Karana)たち、その二人の坊やを連れて、ここから脱出しろ」
ヤバルがそういうと、ジミーは大声を上げました。彼は彼らを逃がすまいと、瞬時に二人の少女の腕と、二人の男子生徒、英二と和人の腕とを捕まえてしまいました。
「そうはさせない」
「やめてよ」
「放しなさいよ」
カラーナたちはそういうと、突然にジミーに裸身を見せつけ、彼がひるんだすきに逃げだしました。ジミーは金縛りのように体がこわばり、そのまま倒れ込んで動けなくなってしまいました。ヤバルはその様子を一瞥しつつ、捨て台詞とともに立ち去ってしまいました。
「今回も、邪魔をしてくれたな。まあいい、それならそれで、これからはやり方を変えるだけだ」
彼らの立ち去った後には、金縛りにあったようにゆっくりとしか動けないジミーと、彼がなんとか守り通した男子生徒、英二と和人の二人とが残されていました。
さて、二人の男子生徒は怖い目にあったはずなのですが、先ほどまで彼らを攫おうとしていた二人のエルフ、カラーナたちの裸身をネタに、まだ話を続けていました。
「あの子たち、いいもの見せてくれたな」
「あそこまで、このグラビアと同じだなんて。驚いたぜ」
「そうか、チャウラ理亜、チャウラ玲華も、こんな感じなのか」
彼らは、話が講じて同級生の理亜や玲華などいくつかの女子生徒たちの名前まで出して、品評を続けていました。その時、鋭い女性の大声が駐車場に響きわたりました。
「私と理亜が何だっていうのかしら」
栄司と和人の前に立っていたのは、玲華と理亜、そして鶴羽たちの4人でした。
「ひ、1Aの女たちだ」
「まずいよ、彼女たち口が立つから、俺たち何と言われるか」
「すべて、この男が悪いんだぞ」
非情にも二人の男子生徒たちは、ジミーを見捨てて逃げてしまいました。ジミーは敏速に動けないため、18禁のグラビアが開かれた横で、無様にも仰向けになったままでした。
「ジミー君」
そういいながら仰向けに倒れているジミーの顔を覗き込んだのは、理亜でした。
「動けないのね」
「あ、うん」
「このエッチなグラビア...」
と言いながら、理亜はグラビアを見て赤面してしまい、言葉を詰まらせました。
「こんなところまで露出させている写真......ジミー君、これ見たんでしょ?」
「いや、見てないよ」
理亜は特に怒りを増したようで、思わずジミーの胸ぐらをつかみ、彼の上に馬乗りになっていました。
「嘘おっしゃい。だって、さっきまで、三人で同級生の女の子たちの品評をしていたじゃない!」
「ぼくはそんなことをしてない」
「いいえ、確かに品評していたわ。それが証拠に、あんたはこんなに長く金縛りのようになっているでしょ? 品評しながらこれを見ていたから、金縛りになったのでしょ?」
「そうじゃない、そうじゃない」
「じゃあ、どういうこと?」
「ちょっと待って、僕は動けないから逃げないよ。でも、あの、覆いかぶさるのはやめてくれないかな」
「こうでもしないと、白状しないでしょ?」
「だから、僕は女の人に…見せつけられたから動けなくなったんだよ」
「何を見せつけられたの?」
「生の......それも、耳のとんがった目の蒼い背の高いスレンダーな女の人たち、あの人たち、恥じらいというものが無いのかな。その女の人の...生の......」
ジミーは、細かく説明することができませんでした。また、都合の悪いことに、彼の脳は限界を越して言葉に詰まっていました。それは、彼女たちに悪い方向に物事を解釈させることになってしまいました。
「生? 生のなにをみたの? やましいから言えないんでしょ?」
彼は、何を見たかを言葉にはできませんでした。彼は保健体育さえ逃げ出す男であったため、この年になっても女性の身体各部や局部の名前はほとんど学んでいませんでした。
「あ、あの、何も身に着けてない腰のあたりと、大きい胸と......ひええ...理亜ちゃん、なぜそんなにきびしく僕を追い来むの?」
この時、大きい胸と言いながら、ジミーはなぜか彼に覆いかぶさっていた理亜の胸を見て、気を失ってしまいました。
「もう、ジミー君たら」
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雨の季節になりました。その雨の夜とともに、幽霊騒ぎが始まっていました。
初めての騒ぎは、1Aの榛名家で起きていました。
「本当なのよ、私が寝ているときに、天井にいたのよ」
「ちょうどその時、私は風呂でお湯に浸かっているときに......。変質者だと思ったんだけど」
春日と鶴羽はそう言い合いながら、理亜と玲華にそう話していました。
チャウラ家には、その日の夜にその幽霊が現れたのでした。
「だれ?」
玲華の問いかける声。その次の瞬間、彼女の悲鳴がチャウラ家の家全体に響きわたりました。そこに、理亜たちが駆けつけると、玲華が理亜に不安そうな声で天井を指していました。
「私に問いかける声が聞こえたの...それで振り返ったら、確かに何かがいた気配があったの! 見えなかったけど、白い手が感じられたのよ......」
「ここに何かいるわ。玲華、今すぐバスルームから出た方がいいわ」
「周囲を見回った方がいい」
ラバンがそういうと、一回の元事務所から、間借りしていたジミーが顔を出しました。
「僕が外を見てきます」
ジミーは玄関へと駆けだしながら大声で応えていました。
「逃げるな」
ジミーが叫んだ先には、何も見えませんでした。しかし、ジミーはそのまま追いかけて行きました。彼だけは確かに感じていたのです。彼は誰もいない場合の近隣空間と、現在観測している近隣空間とを比較して、明らかな差異を検出していました。
次の日からジミーは、特に気を付けてチャウラ家の周囲を監視し始めました。監視をする前にはわからなかったのですが、チャウラ家の二人の娘ばかりでなく、ラバンにも明らかな影が付きまとい始めていました。その影は、目には見えないものの、ジミーにとっては明らかな影でした。そしてこの影は、毎晩チャウラ家を襲いつづけました。
再び玲華が襲われました。彼女の叫び声に、脱衣所に理亜が飛び込むと、すでにその影は消え去った後でした。
「確かにいたのよ」
玲華は理亜の顔を見ながら、脱衣所の外に駆け付けたラバンに訴えました。
「どこから見られているというんだい? 外を見ても誰もいなかったぜ」
「窓じゃないのよ」
「天井かしら」
「でも、バスルームの天井裏は、すぐ二階のトイレ室だったよね。人間の入り込むスペースがなかったはずだが......」
ラバンはそう言うと、バスルームの設計図を引っ張り出したのでした。
「バスルームの中を覗き込む余地はないなあ」
この時に外へ飛び出たジミーは、確かに侵入者の痕跡を捕まえていました。
「この残像は、最近出没しているエルフ族だ!」
ジミーは物音に気付き、自宅近くの公園に不審者を追い込みました。さらに回り込んで袋小路へと追い込んだ時、突然に不審者は消えてしまいました。ジミーの脳の片隅では、膨大な計算が行われ、少し時間を要したものの、それが異空間への逃げ口だということが分かったのでした。
ジミーは躊躇したものの、不審者を捕らえるために、祈りを念じながらその中へと飛び込んでいきました。
「啓典の主よ。僕らの主よ。虫けらにも満たぬ僕のためではなく、僕だけでなくあなたの愛するチャウラの娘たちを守り給え。彼女たちを脅かす存在を討たせたまえ」
異次元を逃げていく影を、ジミーは猛スピードで追跡していきました。この時、既にジミーは非常に冷静でした。ジミーは玲華の悲鳴を聞いた時から、脳の片隅が滑らかに計算し始めていました。
(前方に、現時空への出口がある。逃げている彼は、間もなくあの出口から現時空へ飛び出すはずだ)
ジニーの推定通り、不審者は現時空に飛び出しました。それに続いてジミーは飛び出そうとしていました。この時、突然に飛び出そうとする動きを停止しろという命令が、ジミーの脳内に響き渡りました。脳の片隅が、何か異常な計算結果を得たからでした。
(このままでは、玲華の前に飛び出てしまう)
「キャー」
直前のジミーの予測通り、それは玲華の声でした。
不審者が飛び出した現時空への出口は、チャウラ家のバスタブの水面から少し上に設定されていました。正体不明の不審者は、そこから飛び出してバスルームの扉を開け、玄関へと飛び出していったのでした。その直後に、ジミーの足先だけが飛び出ていました。
玲華の目には、いきなり足先が飛び出たように見えていました。彼女は湯の面から足が飛び出していることに気づくと、がっしりと胸の前で両腕で捕まえていました。
「し、しまった」
空間出口の向こうから漏れ聞こえたのは、ジミーの声でした。玲華は声の主を確かめるため、力いっぱい抱きしめ、ついにはシャワーホースでその足首部分を締め上げてしまいました。他方、ジミーは絶対に玲華に姿を見られてはいけませんでした。こうしてしばらく足の引っ張り合いが続いたのでした。
事態が膠着すると、玲華はジミーだと確信した獲物に対してはったりをかましました。
「ジミー君でしょ。この靴下、穴が開いているもの!」
ジミーはそんなはずはないと考え、まだ現時空に出ていないもう片方の靴下を確かめようとしました。ジミーがそうしてバランスを崩した時、玲華は思い切りジミーの足を引っ張り出したのでした
「うへえ」
「あー、ジミー君」
ジミーは玲華に羽交い絞めにされてしまいました。この時にジミーは背中に玲華の豊かな双丘を感じて、脳の全ての働きは急速に停止し始め、気を失う寸前でした。都合の悪いことに、彼自身は玲華の両腕でがっしり抱えられていました。
「あー」
彼はあきらめの声を上げ、目をつぶり続けました。これはどう考えても誤解される状況でした。ただ、目を開けるべきではありませんでした。目の前には、半裸で駆け付けた理亜がおり、その姿を見たジミーは動けなくなってしまいました。
「ここに、次元跳躍の出入り口があったんだよ。だから足首だけ出ていただろ!」
ジミーはそう訴え、玲華もそれはわかっていました。しかし、途中から来た理亜はそんなジミーの主張を理解してくれるはずもありませんでした。彼女は今までにないほどの恐ろしい目でジミーを睨みつけ、左腕で自分の身体を隠しながら、右手で湯桶を持ち、金縛り状態のジミーを叩き始めました。
「あ、いて、いてて」
理亜は加減してジミーを叩いていたのですが、次の言葉はジミーを叩きのめしていました。
「へんたい!」
「理亜、まって!。彼が言ったことは本当よ」
しかし、怒って出て行ってしまった理亜には、玲華の声も届きませんでした。この後、玲華は金縛りにあったジミーを抱えながら、彼の処置にしばらく困り果てていました。
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「ジミー君がこうなったのには訳がありそうね。いままで何も教えてもらえていなかったのかしら」
ジミーが理亜を見て金縛りにあったことを見て、ラバンや理亜、玲華はなんとかしなければならないと感じていました。ただ、そのためには少なくとも彼の過去に何があったのかを知る必要がありました。そこで、ラバンは、妹のルビカに彼の過去を聞いたのでした。
「ジミーは、小さい時からなぜか私を怖がっていたのよ。だから、力づくで捕まえてお説教したり、様々な教育をしてきたの。ところが、だんだん逃げ出す能力だけは上達していたらしくて、私には手に負えなくなってしまってねえ。小学校のプールでも女の子がいただけで逃げ出していたし......大切な性教育でも、彼は耳と目をふさいで、逃げ出して何も学んでいなかったのよ」
「それはまずいよ 荏原学園でも、彼は保険体育の場から逃げ出して授業を一切聞いていないらしいよ」
「確かに、それはまずいわね」
「最近では、我が家の中で娘たちを目の前にすると、金縛りにあったように動けなくなってしまうんだぜ」
「そうね、確かにジミーは女性恐怖症なのよね。昔、小学校4年の時に、理亜ちゃんと玲華ちゃんがきたときも、彼は逃げ腰だったわ。その後も、私が性教育やそのほかの話をしようとしても、ダメだったわ。中学生になっても、保険体育で女性身体の図解を見ただけでも逃げ出す始末だったのよ」
「中学卒業前に理亜と玲華がそちらに行ったときはどうだったんだ?」
「そうね。彼はやっぱりなかなかなじんでくれなかったし、実はいくつか騒動があったのよ」
こうして、ジミーについて、再度の性教育が必要であるという結論となりました。彼らは、荏原学園におけるジミーの担任教諭の早川先生に相談んしたうえで、保険体育と生物の図解で、強制的な性教育をおこなうことにしたのでした。
「さて、逃げようとしても無駄だからね」
ルビカは、学校の一室を借りあげて、個人用特訓環境を作り上げました。そこで、彼女はわが子をその一室内の椅子に縛り付けて、逃げ出せないようにしていました。そこに、ラバンと早川先生がやってきました。
「数野さんのお母さん、こ、これはいくら何でも......」
「ルビカ、ジミーを縛り付けるなんて、やりすぎじゃないか」
ラバンは、室内の光景に驚いて思わず妹を糺していました。ルビカは、さも慣れた手つきでジミーを縛り上げながら、言葉を返しました。
「いいのよ。昔から、彼は縛ってでも引っ張り出さないと、逃げ出してばかりいたんだから」
「いやだあ、見たくない」
ジミーはラバンや早川先生の顔を見た途端、助けを求め始めてました。早川先生は、優しくジミーを説得しました。
「みんなもすでに学んでいるのよ。女性の大切な所は知っておく必要があるの。男の子はここを大切に扱わなくちゃいけないからよ。ちゃんと見ましょうね」
「そんな変なの、見たくない」
「胸も大切な所よ」
「い、いやだ」
母親の示した従姉妹たちの裸身に、ジミーはおもわず目をつぶってしまいました。ルビカは我慢ならない様子で、無理やり目を開かせました。
「絶対、目を閉じるな」
「あ、あ、僕は見てしまった。僕は災いだ。女性を情欲をもって見つめてしまった。僕は災いだ」
「目をそらすな」
ルビカの仕打ちに、早川先生は見るに見かねて声をかけてきました。
「数野さんのお母さん、それはいくら何でもやりすぎです」
「これでもまだ優しい方なんですよ。彼は今まで逃げだすばかりではなく、半狂乱になって抵抗したりしていたんですから......」
「でも、これは教育ではありません」
早川先生はジミーをかばうようにして立ちふさがりました。
「私に任せてください」
早川先生はそう言うと、ラバンとルビカを外へ出してしまいました。
この状況をヤバルとユバルは監視していたのですが、彼らは、この時のラバン、ルビカ、そして早川先生たちの混乱した意識を見逃しませんでした。彼らは彼らの混乱を捉えて、三人の意識に働き掛けを始めたのでした。
この影響をつよく受けたのが、ユバルから精神回廊を形成された早川先生でした。彼女の意識ははっきりしていたのですが、それでも早川先生は、彼女自身の意識の中に異質なものが入り込んできたことに気づいていませんでした。異質なもの、それはユバルの意識でした。そして、ユバル自身の心にも、ユバルの知らない言葉がそのまま流れ込んでいました。このつながりによって、早川先生はそれを自然体で受け取り、そのままジミーに伝えたのでした。
「私から、ジミー君に伝えたい言葉があります。これはなぜか今私の心に浮かんだのよ。まるで預言のような言葉です」
「気高い乙女よ
サンダルを履いた貴女の足の美しさ
匠の磨きによる彫り物のような太腿
その先の秘められたところは盃
腹は百合に囲まれた小麦の山
乳房は二匹の小鹿、双子のカモシカ
首は象牙
目は蒼いヘシュボンの二つの池
気高い頭はカルメルの主峰
亜麻色の長髪
ナツメヤシのごとき立ち姿
そして胸の乳房はその実の房。
私はその房をつかんでみたい
私の願いはあなたの乳房、あなたの息、あなたの口」
それは、ある特定の女性を愛する男性が歌いあげたものでした。啓典の主に讃美を二人で捧げつつ、決定された相手の女性を愛撫しつつ愛するべきであることが示されていたのです。
「この預言の意味をあなたは知るべきよ。そして、このことは、...ジミー君、二人だけの秘密よ。ここは、二人だけの約束の場なのよ このことは黙っていて」
「い、いやだ」
ジミーは、確かに預言の意味を聞き取ったのですが、ショックを受けていたために彼の脳の片隅の計算部分では、まだそれが理解されていませんでした。それゆえ、彼は拒否感しか口にすることができませんでした。
「せ、先生、やめてください」
他方、ヤバルとユバルは、預言の言葉が自らの脳裏に浮かんだことに衝撃を受けました。明らかにユバルの今の工作を邪魔しようとする意識が、ここに介入してきたは明らかでした。ユバルたちは焦り、急に早川先生への働き掛けを強めました。そのため、早川先生は意識を乗っ取られ、普段ならば行うはずのない行動を起こしていました。
「静かにして。そして口を閉じて。ここはただ見るだけの学びだから」
彼女はそう言うと、素肌を彼に示し始めました。肩から、背中、そしてその反対側、さらに腰から下へと、身に着けているものを脱ぎ始めていました。この時、早川先生は催眠状態のままでした。
「へ、ひええ」
早川先生は、催眠状態のまま、生徒のために自らの裸身を晒すことが、生徒のためになると信じ切っていました。それゆえにこんな行動に走っていたのでした。他方、以前ショック状態にあるジミーの脳の片隅の計算部分では、「約束の二人」というフレーズを断片的にジミーと早川先生との婚約と理解していました。そのために、ジミーの潜在意識が計算した結果、目の前の女性の身体を愛情をもって観察するべきであるという結論になっていました。
ジミーの脳の片隅は、不完全ながら少しずつ動きの確かさを増しつつあり、先ほどの預言の意味も理解し始めていました。但し、同時に、早川先生が縛り付けられているジミーに迫ってくることが、婚約者同士の行動とはあまりに異なることに気づきつつありました。この事態は、ジミーの潜在意識下では、まだショック状態にあると判断できる事態であり、ジミーの脳の片隅は急激に不活性化し計算することを止めてしまい、ジミーは元の木偶の坊に戻ってしまいました。
脳の片隅が働きを止めてしまい、突然木偶の坊に戻ったジミーにとって、目の前に立っている裸の早川先生は、見てはならないものでした。
「は、早川先生? ひ、ひええ、た、たすけ、て」
彼はこう叫ぶと、またも気を失ってしまいました。このジミーの悲鳴で、早川先生も正気に戻りました。早川先生は、自分のあられのない姿に慌て、服を着たのでした。
ジミーはしばらく気を失っていました。その間に、早川先生は、ジミーが目覚める前に、彼の見た光景が夢であると思い込ませる言い訳を用意することができました。
ジミーが目を覚ますと、横には早川先生が控えていました。ジミーの脳裏には、断片的な知識が植えられていました。それでも、彼にとっては、脳裏の計算が冷静に行えるほどには、十分な情報量を得ることができたのでした。
「女の人は、その、股間には………ないんですね。」
「それは夢で覚えたのかしら」
「そうなのかな」
「きっとそうよ」
この教育は無駄ではありませんでした。次の日から、ジミーは少なくとも女性の身体の局部の名前を覚えるほどには、各部分の図解を理解できるようになったのでした。