6 兄からの逃亡
ジミーが予測したとおり、イサオはジミーが父伊作から天寵を横取りしたと確信していました。ジミーにしてみれば、長男で父親に一番近いはずのイサオが、父親の勧めを蹴って飛び出していったのですし、そのようなことをするのであればイサオは自らの権利を放棄したことと同じでした。他方で、ジミーは仕方なくその天寵を受け取ったにすぎないはずでした。それでも、イサオがジミーに嫉妬心と憎しみを持っているであろうことは、ジミーにも容易に理解できる人間らしい感情でした。ジミーにもわかっていたことですが、イサオは、弟のジミーと共に居て守り続けていたことに、一方的な負担感を感じており、兄だからという役割を押し付けられていた不合理さと不満とを感じていたからでした。
数野園の自宅を出たジミーが、京成電鉄の双葉町駅を使うことはありませんでした。ジミーの頭の片隅では、ジミーの意識とは無関係に計算が続けられていました。
その計算された関係者の心理と行動予測によれば、様々なことが想定されました。その想定の一つには、鉄道を使うことに危険性があることは極めて単純な推定でした。イサオならば、ジミーを捕まえるために、様々な所に仲間をして先回りをさせる手配を済ませているはずでした。それゆえ、彼は思い付きのように経路を選びながら、徒歩で目的地を目指すことにしたのでした。
彼は、伯父ラバンから聞いたことのある荏原を目指しました。それは、今の彼にとってどこにあるのか正確には悟ってはいないところでした。ただ、少しばかり改編数学が脳の片隅で働いたことによって、その地名と過去のラバン家から得た情報、また東京都の歴史の情報とから計算すれば、行程はいろいろと想定できました。そして、彼は南西にある見知らぬ土地、荏原を目指して出発したのでした。
彼は堀切橋を渡ることはしませんでした。堀切橋の付近まで到達した時、彼は待ち伏せを想定し、荒川土手を土手沿いに南へ向かうことにしました。土手に登ることはなく、土手沿いの小さなわき道を南へひたすら歩いていきました。
じきに春の日は暮れて行きました。それはこの季節であれば18時前後であることが推察できました。木根川橋に辺りになってから、ジミーはようやく土手にあがり、さらに土手の内側を進んでいきました。この日、彼は京葉道路橋梁の下で眠るのが良いと、計算結果がそう告げていましたし、通過する各橋梁の下には、計算通りであればホームレスが置き去りにした段ボールがあるはずでした
「僕は、どこへ行こうとしているのか。そう、荏原へ。それが僕の頭の中に浮かんだ地名。母が教えてくれた通り、伯父が口にしていた地名だ。ラバン伯父さんと双子の従姉妹たちが、そこに住んでいる」
この思いだけがジミーを支え、孤独をいやしていました。
この後のことは、実は計算外のことでした。本来であれば総武線新小岩駅周辺に待ち構えていたはずのイサオの仲間たちを、総武線橋梁の下付近で見かける事態が生じたのでした。
総武線の各駅停車、快速電車はいずれもそろそろ終電が来る時刻でした。権康煕たち数人が、なぜか新小岩周辺から離れて総武線橋梁周辺まで歩き回っていました。その歩き回りの頻度と進んでいるコーストから、複数の男たちの足音は、誰かを追っているのだと推測出来ました。案の定、ジミーの近くには、小さな足音が聞こえてきました。その慌てた小走りの様子から、若い娘が負われていることは明らかでした。彼女は、総武線橋梁から南側に並走する京葉道路橋梁の下へ、そしてジミーが潜み寝ている近くへと懸命に走ってきたのでした。
「怖い。ここまで逃げてこられたけど、どこか隠れるところ....ここに隠れていれば......」
ジミーの寝入っている段ボールハウスの手前で、青木恵子は段ボールをいくつか衝立とし、屋根を重ねて、その中にホームレスに身をやつして隠れたのでした。
しばらくは何もなく時が過ぎ去るはずでした。しかし、ジミーの頭の片隅では、この娘が新小岩駅から逃げて来た可能性が高いと想定した時から、次の事態を計算していました。
「追手が来る」
ジミーは、ずっと耳をそばだてていました。京葉道路を行く車も減り、近くでは少女の寝息が聞こえていました。彼女は、おそらくこれでもう見つからないと安心して寝入ってしまったのだろうと考えられました。しかし、ジミーの計算によれば、新小岩駅ではすっかり乗降客の出入りが終わって時間がたっており、他方、イサオの仲間であれば、以前敵の房総族を探し当てた執念から見て、彼らは逃げた少女を執念深く探し続けているはずであり、そろそろ彼らがこの近くも探し回る頃合であろうと推定できるのでした。それが裏付けるように、しばらくたつと、青木恵子の後を追ってきたらしい男達が段ボールへ近寄ってきたのでした。
「あの女、この辺りに逃げてきたはずだぜ」
「俺たちが声をかけてやっているのに、つっけんどんな答え方をするなんてな」
「葛飾の女って、洗練されてないらしいな」
「イサオさんの前でそんなことを口走るなよ」
彼らは、ジミーの見立て通りイサオの渋谷あたりの仲間のようでした。ジミーは何事もなく彼らが通り過ぎてほしいと願いつつ、じっと状況をうかがっていました。だが…
「あれ、此処に段ボール......、お、若い女の足。此処に誰か隠れているぞ」
仲間たちの一人が、彼に見えていたらしい娘の足をつかみ、力いっぱい引き出して、大声で叫んでいました。
「みつけたぞ! おい、探していた女、ここに居たぜ」
「キャー」
見つかってしまえば、非力な少女は簡単に男たちに餌食にされていました。
「俺たちから逃げ出した罰だ。馬鹿にした罰を与えてやる」
「いやぁ」
彼女が出せるのは声だけでした。それと同時に、彼女の意識には一つの悲痛な詩が浮かび始めていました。その言葉は、彼らから少し離れたところに隠れているジミーの頭の中にも伝わっていました。tおて
「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになるのか
なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、
呻きも言葉も聞いてくださらないのか」
その詩があらわすように、抵抗し続けている彼女の声は呻きに変わっていました。しかも、その呻きも、捕まったセミがだんだんに声を小さくするかのように、徐々に力を失っていきました。
「私は虫けら、とても人とは言えない
人間の屑、民の恥
私を見る人は皆、私をあざ笑い
唇を突き出し、頭を振る。
『お前の言う啓典の主に救ってもらえよ
啓典の主が愛してくれているなら、
助けて下さるだろうよ』
ジミーの頭に「私は虫けら」という告白が浮かび、ジミーの心をつよくたたき始めていました。それでも、ジミーは彼らの前に立つなど、考えもできませんでした。そのうちに、男たちは娘の衣服をむしり取り始めていました。
「この女、生徒手帳をもってやがる。中学を卒業したばかりみたいだぜ」
「へえ、じゃあ処女だろう。俺たちが教えてやろうじゃないか」
こう言われながら、男たちの下で完全に押さえつけられた娘の心には、さらに深い絶望の言葉が浮かんでいました。
「犬たちが私を取り囲み
さいなむものが群がって私を囲み
獅子のように私の手足を押さえつける
私の体を彼らはさらしものにして眺め
私の服を、衣を取ろうとしてくじを引く」
この言葉がジミーの脳裏に伝わっても、彼はまだ関わる勇気を持っていませんでした。ひたすら早く居なくなってほしいと考え、震えていただけでした。
「啓典の主よ、
あなただけは私を遠く離れないでください
私の力の神よ
今すぐ私を助けて下さい」
この言葉とともに、ジミーの脳裏には「私は虫けら」という悲痛な叫びが再び浮かびました。すると、彼の気持ちとは関係なく、彼の頭脳の片隅が猛烈な勢いで動きはじめていました。その計算結果は、先ほどまで木偶の坊のような、いや卑怯者のような考え方をしていたはずのジミーに、突然の変化を起こさせていました。
「虫けらは僕だけで十分だ、ほかの人が、女性たちが虫けらであってはならない」
「余計な下着は剥ぎ取っちまえよ」
「この女の下着、まだお子ちゃまだぜ」
恐怖で声を失った少女は、ハングレ集団の男たちによって手足を押さえつけられ、彼らの欲望の餌食になるばかりになっていました。隠れているジミーの脳裏には次々に、いやがる少女の制服の下に力づくで手を入れる男たちの腕、さらには下着が破られた上にその中にまで手が入れられているイメージがうかびあがりました。ジミーの脳裏には、男たちの不潔な手によってまさぐられることにより、少女が感じている恐怖と不潔感、気持ち悪さが計算結果として理解でき、また、実際に少女の感情が伝わってきました。それらの情報は、一気にジミーの頭の中を怒りで満たしていました。
ジミーが感じた怒りは、一人の拒否している女性を、複数の男たちが餌食にしていることへの怒りでした。
『情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。そして姦淫を犯した男女は、啓典の主より滅びを賜る…』
脳内に響いたこの預言の言葉。これは、ジミーが大切にしている啓典の主の教えのなかでも、特に敵視されている行為でした。
「待て。情欲をもって女を見る者たちよ。いや、今や情欲のままに女に、しかも少女に手を出す者よ。もはや啓典の主より死を賜るべき者たちよ」
ジミーの口は、ジミーの意識とは関係なく動き始めました。彼の声はまるで亡霊のように細弱々しいものでした。しかし、暗闇から聞こえてくるその呼びかけは狂気そのものであり、その意味を知って聞く者に戦慄を呼び起こす冷たさを帯びていました。
「誰だ」
「あ、こいつ、ジミーだ。イサオさんが捕まえろと言っていた男だ」
男たちは口々にジミーの名を出し、警戒しつつジミーを囲んでいました。他方、今まで猥褻な仕打ちを受けていた少女は、ジミーの姿を確認して思わず大声で助けを求めてたのでした。
「数野君、助けて!」
「この女、おとなしくしろ!」
このとき、少女の下半身を抱えていた男が、黙らせようとして彼女の中へ強引に指を入れた姿が、ジミーの目に入りました。
「あうっ、いや」
この声で、ジミーはようやくその少女が誰だかを悟っていました。それはジミーもよく知るソフトボール部所属だった青木恵子でした。
「こいつ、黙らせてやるよ」
先ほどの男は、他の男たちに恵子の腕と脚とを抑えせえると、双丘のポイントと股間のポイントを摘まみ上げた。
「ハウ、い、いやあ」
ジミーは、少女が恵子であることを知り、彼女から流れて来た恐怖と不潔感、気持ち悪さを自分の心に同調させた途端、彼は新たに彼女の悲しみをも心に同調させていました。彼女の心の動きは、今まで逃げ腰だったジミーの意識に、髪を逆立てるほどの狂気と衝動を覚醒させていました。
「あんたたち。いや、こうまでするなら、呼びかけを変えよう。この下衆ども」
その途端に、恵子の周囲の男たちは脱力してあたりに転がりました。それと同時に、ジミーは彼女に駆け寄り自分の羽織っていた上着を彼女に重ね、かばうようにして彼女の前に立ったのでした。
「青木さんだったの? 青木恵子さん?」
「ジミー君......」
彼女の言葉はそのまま恐怖と絶望の泣き声にになっていました。それは、彼らの周囲を、新たに駆けつけた権康煕ら大勢のハングレたちが包囲したからでした。しかし、ジミーは彼女に安心しろと目で合図をしました。そして、彼はハングレたちへふり返ると、今度は狂気と殺気をみなぎらせた視線を彼らに注いだのでした。
「あんたたち、その不潔な視線を彼女に向けるな。止めろと僕は言ったんだ。あんたたちはイサオ兄さんの仲間だよね。つまり僕を狙っていたハングレ集団が、僕の同級生を複数で相手をさせようとするなんて、やはりイサオ兄さんやあんたたちは、力だけを信奉する悪者なんだね」
「ジミー。あんた、俺たちに何かできると思っているみたいだな」
「お兄さんたち、そう言う口をきくというからには、あんたたちを許さなくていいんだね。イサオ兄さんの仲間と思って脱力させるだけにしていたけど、抑える必要はないみたいだね。では、二度とこのようなことができなくして差し上げましょう」
ジミーはそう言ったとたん、視線を右から左へゆっくりと、恵子をなぶっていた男たちに視線を移していきました。ジミーの視線が彼らに触れた途端、彼らの手のすべての指は次々にあらぬ方向へ曲げられ、全ての男たちは、それぞれが腰を抜かして座り込み、悲鳴を上げていました。
「指が、指が」
「いてえ いてえよ」
「まだそこに座り込んでいるんですか。では指以外も使い物にならないようにしていいということですね」
ジミーのこの冷たい声は、座り込んでいた彼らを恐怖に陥れたようで、彼らは一斉に土手の向こうへと逃げ去って行ったのでした。
ジミーは逃げ去っていくハングレたちを確認しながら、恵子に寄り添いました。
「あ、あの、青木さん。だ、大丈夫?」
「数野君......」
恵子はそう言って裸のままジミーに抱き着いて泣き始めていました。彼は彼女をそのまま受け止めていたのですが、その間に彼はすっかり元の自信なさげな木偶の坊に戻っていました。先ほどまでは、無意識下でなされている改編数学による計算結果が、ジミーの特定範囲の脳に働きかけて気持ちを強気にしていたのですが、その作用はすっかり消えてしまっていました。
「ま、待って。青木さん。もう大丈夫だから」
「数野君、ありがとう。ありがとう」
「青木さん、もう大丈夫だよ。だからそんな恰好で抱き着かないで」
恵子は、なおも泣きながらジミーに抱き着いたままでした。
「青木さん、僕なんか、お礼を言われる資格はないんだ。僕なんか女の子に接する資格はないんだ。だから......」
ジミーのこの言葉は、恵子をさらに泣かせていました。
「数野君、今はこのまま......」
恵子はそう言いながら、その泣きじゃくりはなかなか収まりませんでした。自己評価が低く自分に自信のないジミーが、さらに女性と会話することに強い苦手意識を持っていたとしても、この状況では自義務を果たすべきことは、明らかでした。
「僕なんか、女の子の声を聞く資格はないんだ。でも、それほど不安なら、僕に青木さんの自宅まで送らせてほしい。それは資格じゃなくて、最低限の義務だから…僕ができる最低限で最大限のことだから…」
ジミーはこうして恵子を彼女の自宅まで送り届けました。そして、彼はこの対応で三日間を費やしていました。
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「ジミーが新小岩の荒川土手にいた?」
イサオは電話に出た際、相手の報告をオウム返しにくりかえしました。
「それで、ジミーを捕まえたのか」
イサオの質問に相手は躊躇いながら答えた。
「いや、全員が十本の指の骨を折られて……」
「手を出すな、と言っておいた筈だぜ。なぜ、そんな事になったんだ?」
「いや、新小岩の奴ら、弟さんの同級生の女子生徒を襲ったらしくて」
「女子生徒?」
「その女、弟さんの同級生だったんですよ」
「何?」
「同級生だった、ということです」
「なんでそんなことになったんだ?」
「仲間の一人が、その女にちょっかいを出して、逃げられて、弟さんの目の前で犯そうとして......」
「そんなことをしたのか。それではジミーが黙っているはずが無いじゃないか」
「へえ、でもそんなことで......」
「ジミーは、そんな風に女を襲うところを見たら、狂ったように襲った奴らを撃滅し始めるぞ。皆には警告しておいたはずだが......お前ら、よく殺されずに済んだな。それで、ジミーはどうした?」
イサオは冷たく質問を続けました。電話の相手はなかなか答えにくそうに、その後の状況を、イサオに説明しました。それによれば、ジミーはハングレたち全員を叩きのめした後、ゆっくりとその箇所を去っていったということでした。
それからさらに三日後の昼頃、ジミーは送り出してくれたルビカを安心させる意味で、彼女のスマホに電話をかけてきました。ジミーの考えでは昼間であれば、イサオが出かけていると軽く考えていたのでした。しかし......。
「いま、どこにいるんだ?」
イサオはルビカからスマホを奪うと、電話口でジミーを怒鳴りつけていました。ジミーはそれに動じているのか、動じる元気もないのか、低い声でボソッと答えていました。
「どこだかね」
「へえ、言えないのか?」
「ああ、わからないんだ」
イサオは夢でジミーを追うなと警告を受けていました。さもなくば仲間たちと同じ目にあうだろうという預言も告げられていました。そのため、彼はジミーを追うことをあきらめたのでした。
「親父とお前が奉ずる存在が、昨夜、僕に警告してきやがった。僕はお前を追うことを禁じられたんだ。だから、追うことはするまい。それでも聞いておきたい。どこにいるんだ? どこの何が分からないというんだ」
「僕は、今どこにいるんだろう?」
「それは嘘だろ」
「嘘って、何が?」
「道に迷ったという嘘を言いたいんだろう?」
「道は迷っていない。今、道の上だから」
イサオはここで思い出していました。このような調子のときのジミーは、肝心なことに頭の働かない木偶の坊にすぎないのでした。
「それでも聞くのだが、どの道のどこにいるんだ? 」
「357の都道。海の風、海の匂いがするから、海岸沿いかな」
「都道357号か。それは海岸沿いを走る道だから、その道に沿っていれば、確かに海岸沿いだろうな」
ジミーの言葉は、何度聞き直しても、質問を変えても、まったく答えになっていませんでした。もちろんジミーはイサオの質問に素直に答えている様子で、意識的にのらりくらりと答えているわけではなさそうでした。電話の相手から問いかけをはぐらかしているというより、やはり知恵が働かないというのがぴったりな応答の仕方でした。それを確かめるため、イサオはもう一つ質問をしたのでした。
「道路の案内は何と書いてある?」
「『湾岸』だけど...」
やはりジミーの話は要領を得ていませんでした。結局、イサオはジミーがどこにいるの把握することをあきらめざるを得ませんでした。もちろん、この時のジミーも自分がどこにいるかを全く分かっていませんでした。
1週間後、彼はレインボープロムナードを経て、芝浦から桂坂に達していました。どうやら、ジミーは歩いてお台場へ着いたものの、そこから先はお台場の海岸沿いを行ったり来たりするうちに、食料を消費し尽くしていました。ジミーは水だけで過ごすようになり、危機的な状況に至ったと意識下で判断したのでしょうか、食事ができなくなった段階で、意識下で再び計算が始まっていました。すると、本能のように向かうべき方向を見出してレインボーブリッジをたどり、芝浦を経て桂坂へたどり着いたのでした。水だけで過ごすようになって七日ほどたっていました。
桂坂周辺は高輪台地の一部であり、周囲は深夜でも人通りは絶えない場所でした。ジミーはすでにホームレスの様な状態でしたから、深夜に人目を避けて桂坂から何かに導かれるように左手の階段へ降りて行ってしまいました。幸いなことに、月が天空からジミーの足を照らしていました。
その会談は、ほとんど人の出入りの無い通路のようなところでした。階段を降り切ると、暗闇に「高輪共生会」という町内会掲示板があり、その先は薄暗い路地裏でした。ジミーは本能に導かれるように暗闇を司るような木々の中へ、細い道の先へ入り込んでいってしまいました。
ジミーはある住宅地の付近に来ると、ふと立ち止まって住宅地の奥を見上げていました。彼は、住宅地の背中には崖があり、木々の向こうには大きな建物があると感じていました。いや、そのときも、ジミーの頭の片隅で再び計算がなされ始めていました。
彼の脳の片隅には、彼の立つ地上の一部、そして、彼が跳躍で必要とするエネルギーと力、さらにはジミーが足場とした木々の枝の弾力と破断強さなどが全てイメージとして浮かび上がりました。ついで、それらの事象のすべてにかかわる物理法則が浮かび上がり、全てが一瞬だけ書き換えられました。つまり、ジミーがいる地面に比べて、はるか上にある枝先の地点がポテンシャル的に下位となることで、ジミーの身体はまるで跳躍するように移動していました。これが繰り返されて、枝先から枝先へ、そして崖の上へとジミーの身体はまるで跳躍するかのように移動していったのでした。ジミーが着地したのは、巨大な偶像を祀った寺院を飛び越えた、小さな会堂の裏手でした。
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その夜、会堂裏に横たわったジミーは久しぶりに深い平安を覚えていました。平安を覚えたのは、彼の近くに啓典の主の確かな臨在を感じたためでした。そして、ジミーはその時、臨在とともに不思議な光景を幻のごとくに見て感じたのでした。
地上からはるかに高くたつ天空とそこから無数に枝分かれし、しかも別れ続ける梯子のような枝が見えました。そして、その先には、絶えず生まれ続け増え続ける異世界時空の姿が見えたのでした。そして、全ての枝の先に注意を向けると、そこには今寝ているはずの自分の姿が見えていました。それは、まるで各時空へと転じ続け、天使に導かれ続ける未来のジミー自身の姿のように感じられたのでした。
そのおのれの姿を見た時、ジミーは枕もとで彼に語り掛ける疑似声音に気が付いて目を覚ましました。
「ジミーよ。ジミーよ、目を覚ませ」
その声は明らかに会堂の中からジミーに語り掛けていました。ジミーは会堂から漏れてくる臨在を感じ、思わずひれ伏して祈っていたのでした。
語り掛けはまだ続いていました。
「見よ。私はあなたと共にいる
あなたがどこへ行っても、
私はあなたを守り、必ず連れ戻す。
あなたへのこの約束を果たすまで、
私はあなたを決して見捨てない」
ジミーは自らが何も持たない虫けらにすぎないことを思い出していました。
「そうか、苦難と悲劇を正面から受け止めて、一生懸命に生きている『人』であれば、啓典の主は「最後の審判」で必ず救ってくださるのだろう。だが、僕みたいな虫けらは『人でなし』だから......」
その考えは、いくら愚鈍なジミーであっても、非常な畏怖を感じさせていました。
「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく啓典の主の家、天の門に違いない」
こうして彼は、手持ちのボトルや手荷物の中の金目の物すべてを会堂の入り口に捧げおくと、そのまま立ち去って行ったのでした。
この時、ジミーは一人で会堂に頭を下げていました。しかし、その姿をしっかり観察していた者がいました。それは、葛飾の地から付かず離れず監視して来た吟遊詩人ユバルでした。
「彼は、多次元時空の異世界への道を、見つけてしまった。これは危険な兆候だ。今までは遠くから見ていただけだが、それでは足りなくなった。これからは身近で接触する必要がある。彼が何を考え、何を感じているのかを絶えず監視し続けなければ......」
ジミーは、そのまま高輪の丘を越えると白金台を通り目黒から目黒川を越え、やっとのことで荏原の地に至りました。既に飲む水もなく、あれだけ太っていた身体は痩せこけ、来ていた服やズボンはぶかぶかで埃まみれ垢まみれのぼろ布同然となっていました。見た目には、気の毒に痩せこけた若いホームレスにしか見えませんでした。
そして、彼はようやく「チャウラ商会」という看板を掲げ、工場を伴ったビルディングを見つけることができたのでした。