4 虫けらのジミーへの預言
晩秋。葡萄の季節はすっかり終わりました。葡萄やさくら、ケヤキ、柿はとうに落葉し、最後に黄色く残っていた銀杏も散り始めようとしていました。そして、三年生のイサオや一年生のジミーにとって、この12月は二学期の終盤でした。街の人々にとっては、啓典の主を待望する12月となっていました。
その12月初頭のある夜、数野家の下をルビカの兄ラバンの一家が突然に訪れていました。
「チャウラ商会をたたもうと思うんだ」
「いったい、どうして」
「二十数年前に起きた中央大陸の「楚土蟲火炎硫黄」以来、東瀛は中華民族によって経済が動かされるようになっていることは知っているよな。そのおかげで、僕の商会も儲かっていたんだが、最近のレアメタル不況と不動産バブルの崩壊で資金繰りがうまくいかなくなって......」
「それで、不渡り手形を......か」
伊作はそう言って黙ってしまいました。その言葉に不安そうにルビカが言葉をつづけました。
「これからどうするの?」
「債権者たちには、今日はまだ知られていない。後日、会社更生法の申請を弁護士がすることになっている。妻はもう亡くなって久しく僕は独り身だから、海外へ逃げて行こうと思う」
「え? じゃあ、理亜ちゃんと玲華ちゃんはどうするの?」
「そこで、頼みがあるんだ。彼女らをしばらく預かってほしいんだ」
「それは構わないけど、理亜ちゃんたちは承知しているの?」
「いや、まだだ。僕が今日、海外に行ってしまうことを、まだ彼女たちにも言っていない」
「じゃあ、彼女たちを起こしてここに来させた方が....」
「いや、今のうちに茨城空港に行ってそこから出国するつもりだ」
「え?」
「そう、僕はこれで失礼しなければならないんだ。ルビカ、そして伊作。迷惑をかけるけれど、娘二人をよろしく頼む」
「そ、そうなの?」
ルビカはそう言い、無言のまま話を聞いていた伊作とともに、ラバンを玄関口から送り出しました。
「兄さん、とりあえず二人は預かるわ」
「悪い。迷惑をかける。よろしく頼む」
ラバンはそう言うと、黒い単車を暗闇の中に埋没させるようにして走り去っていきました。
次の日、双葉町中学のジミーのクラスメイトたちは、隣のクラスに転入してきた二人の女子中学生のうわさでもちきりでした。
「双子の女の子たちだってさ」
「え、どんな子たちなの?」
「二人ともよく似ているわ。顔が小さくて、ハーフらしいわ」
「ショートヘアの女の子と、ロングヘアの女の子。そうね、活発な子と大人しそうな子ね」
ジミーのクラスのかしましい女子生徒たちは、新しい友人になりそうな二人の娘のうわさでもちきりでした。他方、ジミーを含めた男子生徒たちは、可憐な二人の容姿にすっかり心を奪われていました。
「二人とも可愛いぜ」
「隣のクラスに二人同時に来たんだぜ」
「双子だからよく似ているんだが、一人はショートヘア、もう一人はロングヘア。二人とも美人だよ」
ジミーの周りでも、友人たちがそう言い合っていました。
「見に行こうぜ」
「そうだな」
「ジミーも行こうぜ」
そう誘われたジミーだったが、彼は170cmの肥満体を揺らしながら、鈍そうな反応を示していました。
「僕はいいよ。そんなことをしたら、このクラスの女子生徒たちに、何を言われるか分かったもんじゃないよ。ただでさえ、酷いことを言うんだから」
「じゃあ、俺たちがかばってやるよ。さあ、一緒に来いよ」
ジミーはそう言われ、同じクラスの男子たちに隣のクラスがみえるところへと引っ張って行かれました。そんな離れたところでジミーが見て驚いたのは、そのクラスの出入り口に兄のイサオたちまでが来ていることでした。
「え、兄さん、なんで?」
そして、次の瞬間、ジミーは、イサオのクラスメイトである林聖煕、権康煕たち三年生までが、双子の転校生を見に来ている理由を、理解しました。皆が注目している先に座っていた二人の双子の娘たちは、非常な美人だったからでした。
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理亜と玲華は、昨夜、突然に父親ラバンが東瀛から出国していったと聞かされました。彼女らにとって、その仕打ちはまるで父親が彼女たちを捨てて出て行ったように思われました。それゆえ、本来なら心躍る転校先のはずの中学校で、彼女たちの機嫌はあまりいいものではありませんでした。それでも、理亜と玲華のクラス周辺には、異なるクラスの女子ばかりでなく男子、そして別の学年の男女たちまでが群がっていました。その状況を彼女たちはよくわきまえていました。それで、彼女たちは転校先の生徒達に愛想をなるべくふりまこうと決心していたのでした。
「二人の名前を教えてくれる?」
「どうやって区別すればいいの?」
「ねえ、どこから転校してきたの?」
「何かスポーツをしているの?」
こう言った質問は、どこでも転校生に浴びせられる当然のものでした。でも、愛想を振りまこうと決意していたはずの理亜は、あまりの野次馬の人数に気圧されていました。そのせいで、彼女は驚きいるばかりで十分に答えることができない状態でした。玲華の方はというと、理亜のそのような状態を理解して、玲華が理亜の分まで頑張らなければならないと決意していました。
「私の名前は玲華。彼女は理亜よ。品川区から来たのよ。私たちは双子なんだけど、一応、私は妹で彼女が姉よ。私は髪が短いけれど彼女の髪は長いから、わかりやすいでしょ?」
玲華は周囲を観察しながら、活発に返事を返していました。その反応に周りの男女たちが反応していました。
「玲華ちゃんに、理亜ちゃんね」
「玲華ちゃんと理亜ちゃんは、何かスポーツをしているの?」
「私はソフトボールをしていたの。双葉町中学にも、ソフトボール部があるみたいね」
玲華がそう言ったのは、彼女たちが朝方ルビカとともに来た時に、校庭でソフトボールの練習が行われていたのを見たからでした。
「ええ、そうよ。私、そのソフトボールのクラブに所属しているわ」
そう声を出したのは、双葉町中学ソフトボール部の青木恵子でした。玲華はすぐに恵子の言葉に反応しました。
「そうなの? うれしい。いつか、私も参加したいわ」
「理亜ちゃんはどうなの?」
その問いかけに、今まで無口だった理亜もようやく口をひらきました。
「私、動画を撮影するのが趣味で......」
「へえ、じゃあ、映画を作っているの?」
「そうじゃなくて・・・・・・、短い動画を撮影するのが趣味で......」
理亜は困ったような顔をしたが、それを見て割って入ったのが、イサオでした。
「みんな、ちょっと待ってあげてよ。玲華ちゃんは活発だから、皆ともう打ち解けているみたいだね。けど、理亜ちゃんは控えめな子なんだよ。それに、二人とも立て続けに質問されると戸惑うと思うよ。みんなだってそうだろう? そこで説明しておくけど、彼女たちは、この中学に僕の家から通うことになっている親戚なんだよ。」
イサオは玲華の肩に両手を添えながら、周囲の女子生徒たちにそう説明しました。
「わあ、イサオ先輩!」
「え、イサオ先輩の親戚?」
周囲の女子生徒たちはイサオに気づくと、一斉に歓声を上げました。それほど、ジミーの兄イサオは甘いマスクをしていました。イサオが彼女たちをかばうために出てきたことで、いままで理亜を質問攻めにしていた女子生徒たちは、理亜からすっかり離れました。また、理亜もイサオに助けられたことに感謝を覚え、また玲華も彼女の肩にイサオが両手を添えていることで守られているように感じ、二人ともイサオを、その甘いマスクを頼もしそうに見つめていました。
イサオもジミーも、理亜と玲華が来ることは聞いていませんでした。イサオは登校のためにいつもの時間に目覚め、その際に両親から理亜と玲華を紹介され、二人の姉妹がしばらく世話になることを聞かされたのでした。その後、いさおとルビカは、理亜と玲華を早めに双葉町中学に連れていくために、早々に出かけてしまいました。そのため、今朝のルビカは普段とは違って寝坊ぎみのジミーを起こしに来ることもせず、ジミーが起きてきたのはルビカたちとイサオが一緒に中学校へ向かったあとでした。ですから、ジミーは、双子の姉妹が理亜と玲華であるとはしらず、みしらぬ美人の転校生たちが兄のイサオともう仲良くしていると認識しているだけでした。まさか、彼女たちがルビカとともに転校手続きに双葉町中学に来ていたことなど、知る由もなかったのでした。
さて、理亜と玲華二人の転校生をめぐる騒ぎのところに、突然そのクラスの女性教師の声が響き渡りました。
「お前たち、何をしている。三年生まで見に来ているのか?」
ジミーは後ろを振り返って驚きました。ジミーの後ろでは、自分の母親ルビカがその女性教師に挨拶をしていたのでした。しかも、その内容は転入手続きへの感謝の言葉でした。
「先生、それでは彼女たちのことを、よろしくお願いします」
「お任せください」
女性教師はそう言うと、ルビカはイサオとジミーとを呼び寄せました。
「あんたたち、彼女二人をよろしくね。特に、ジミー、あんたの隣のクラスになったのだから、よく面倒を見てあげるのよ」
ルビカの指示に、ジミーは青天の霹靂という顔をしながら質問を返しました。
「え、あの子たちの面倒を僕が見るの? あの子たちは兄さんの関係者なんでしょ? ぼくには無関係な美人だし......」
「あなたは彼女たちと同じ歳なのよ。それに、隣のクラスなんでしょ。だからあんたが面倒を見るのよ」
「どうして?」
ジミーのその反応に、女性教師が笑いながら応じました。
「でも、ジミー君、彼女たちはあんたの所から通うんでしょ?」
「え? え? え? なんで? どうして? あの子たちは誰なの?」
ルビカはまだわからないのかという顔をしながら、ジミーの顔に近づいて噛んで含めるように説明し始めました。
「相変わらず、物わかりの悪い、そして早とちりの息子だね。イサオは一緒に来たからわかっているし、あんたもわかっているかと思っていたわよ。彼女たち二人は、あんたもよく知っている理亜ちゃんと玲華ちゃんよ」
「僕はあんな美人を知っているわけないよ」
この声に、理亜と玲華が気付いたようにジミーを見つめました。彼女たちから見て、イサオは年上で皆に人気がうえ頼もしくみえました。でも、ジミーは以前とは大きく印象が異なっていました。ジミーは、以前の痩せこけたチビの男の子だったのが、いまでは太っていることだけが特徴の、あまり関わりたくないと思える男子生徒になり下がっていました。
玲華は、当月12月の10日には、希望したとおり双葉町中学校ソフトボール部チームに参加していました。同学校は、葛飾区の中でも文武両道に優れた進学校として知られていました。ソフトボール部は、ほかの体育系クラブと同様に練習や対外試合に積極的に取り組んでいました。
玲華は参加した当日からウォーターバッグやバットを用いた練習を始めていました。その日から、彼女は毎日練習をするようになり、12月中に行われた他校との練習試合でも優秀な成績を修めていました。ただ、投手を希望して部活に参加した玲華でしたが、強豪ソフトボール部らしく投手層やほかの選手層が厚いチームであるために、投手になるにはまだまだ実力が伴っていませんでした。そのようなこともあって、玲華は、早々に夜間照明の下で一人黙々と練習を続けることが、習慣となっていました。
理亜はクラブ活動にまだ参加していませんでした。ジミーもクラブ活動には参加していなかったこともあり、ルビカは理亜とジミーにクラブ活動への参加を勧めていました。そのこともあって、ルビカは、玲華の練習風景を見ることを兼ねて、理亜とジミーにイサオとともに玲華を迎えに行くように指示を出していました。
彼らがすっかり暗くなった中学校の校庭に行くと、冷たい夜間照明の下で、玲華は黙々とバットを振りつづけ、その後アウォーターバッグを両手に抱えてのひねり運動をこなしていました。投手を目指しているはずなのですが、一人で練習しているため基礎的なトレーニングしかやれることが無かったのでした。
夜の銀色の照明の下で、白と青、緑を夕闇に放つユニフォーム。そんな彼女の姿に魅せられたのか、ジミーがスマホで彼女の姿を撮影しました。玲華は、そのストロボの光に気づくと、その撮影者が男子生徒であることに気づきました。
「あ、あんた、何やっているのよ」
怒りを感じた玲華は、暗闇に隠れているように見えた男子生徒に、猛然と走り寄っました。
「この変態、あんた、誰よ。何を撮影しているのよ」
「え、ぼっ、僕は変態じゃないよ」
応えた声がジミーであることに気づいた玲華は、驚き戸惑い、ジミーの顔を覗き込んだ。
「ジミー君なの。なんで隠れて撮影なんか......」
「あまりに綺麗だったから」
ジミーはそう答えました。ただ、ぼそぼそと答えたせいか、玲華はジミーにむっつりスケベ男の情けない雰囲気を感じていました。それゆえ、失望感をにじませた少し強い言葉をジミーに投げてしまいました。
「女の子の体育着の姿を撮影しているなんて、おかしいんじゃないの? ジミー君がそんなことをしているなんて」
「玲華ちゃん、そうジミーを責めないでくれ」
その声はイサオでした。
「この写真はよく撮れている。躍動感がにじみ出ているよ。決してジミーは変な写真を撮っていないと思うんだが......」
ジミーのいる暗がりには、他に二人がイサオと理亜が隠れていました。理亜もジミーをかばうようにして玲華に話しかけていました。
「ジミー君が撮影したくなったのは、きれいだったからよ。だから、そんなにきつく言わなくても......」
「それなら、ジミー君、撮影したものを私に見せてくれないかしら?」
玲華は、不服そうな顔をしながらそう答えました。
ジミーの撮影した玲華の姿は、確かに練習している姿でした。写真自体は健康的であり、理亜もイサオも「一生懸命な姿勢が撮影されている」と評していました。でも、玲華にしてみれば、彼女の撮影画像を見るジミーの視線になぜか色目を感じていました。
「でも、ジミー君の目がいやらしいわ。そんな目で見るなら、もう撮影しないで!」
玲華はそう言うと、ふたたび練習の場へと戻ってしまいました。こうなると、ジミーはへこまされたまま下に顔を向けるしかありませんでした。理亜はジミーが撮影した映像を見ながら、生き生きとしている玲華の姿を撮影できているジミーの手腕に、少なからず感動していました。
「ジミー君、一緒に写真を撮影するクラブを見つけようよ。撮影した作品を見せれば、そのうち玲華の誤解も解けると思うわ」
その後、年末の休みになっても、イサオや理亜、ジミーは、毎日練習後の玲華を迎えに行くことを止めませんでした。理亜とジミーは二人で玲華の写真を取り続けていたのでした。
「ねえ、ジミー君。今は確かに理亜と一緒に写真を撮っているわね。でも、私、あんたの写真の撮り方に疑問があるわ。あんたの視線には色目があるんだもの」
ジミーに、玲華はそのような言葉を言い続けていました。でも、ジミーは決していやらしい目つきで玲華を見ているわけではありませんでした。玲華がジミーの視線に普通とは異なる印象を感じたのは、ジミーが玲華にほのかな憧れをもって撮影をしていたためでした。ただ、玲華はジミーが眼中になかったため、思いのこもった彼の視線にをうるさく感じていたのでした。他方、ジミーは彼女の厳しい言葉と視線に戸惑っていたのですが、それでもジミーは玲華に抱いている好意を持ち続けていました。
明けて新年。元旦の未明に理亜は、そんな玲華とジミーを仲直りさせようと、年末年始の撮影に誘いました。
「玲華、ジミー君、私と三人で年末年始の街の様子を撮影しに行かない? 玲華がジミー君に感じている色目なんて、気にしないでもいいものかもしれないわよ」
こうして、理亜は玲華とジミーを何とかまとめながら、ビデオカメラやスティルカメラをもって撮影の散歩をすることとなりました。彼らは、年始の様子を被写体にするために、帝釈天、水元公園のメタセコイア、江戸川河川敷、渋江公園、荒川沿いのハープ橋、そして最後に北綾瀬と近接するしょうぶ沼公園、と巡り歩いていました。
「玲華、ジミー君、あれを見て」
理亜が街中の群衆を指さしました。街中は初詣が本格的になる時刻でした。群衆には、振り袖姿の女性たち、はかま姿の男性たちがちらほら交じっていたのです。理亜と玲華だけでなくジミーも振り袖姿に華やかな風景に、魅惑されていました。でも、玲華は街中の振袖の娘を撮影するジミーの視線に、なにか引っかかるものがありました。
「ジミー君、あんた、なんで振袖の女の子に色目を向けているのよ」
「え、僕はただ、きれいだな、と思って撮影しているだけだよ」
「へえ、そうなの。ジミー君、でも私にはその目が色目だと思えるわ」
玲華の厳しい追及の言葉に、ジミーはなぜわかってもらえないのかという顔をしながら、力なく反論するだけでした。その二人のやり取りに、理亜はジミーをかばうようにして玲華に話しかけました。
「玲華、彼が単に感動しているだけだということはわかったわよね?」
「いいえ。やっぱり、彼は色目を使っているのではないの?」
「玲華、彼は振り袖姿に魅惑されているだけだわ」
三人の関係、もしくはそんな会話をしながら彼らは北綾瀬駅へと向かいました。玲華は決してジミーに警戒感を解かず、ジミーは玲華への思いをくすぶらさせ、理亜はなかなか自分の思いを表に出せずにいました。三人はこんな風に新年を歩み始めてしまいました。
さて、しょうぶ沼公園から北綾瀬駅に至った時、目の前の環七通りに轟音が響き始めました。彼らは、年末年始の夜を走り回って帰る房総族の一団でした。ジミーはその中の一人の姿を認めると、理亜と玲華に急いで北綾瀬駅の奥へ逃げ込むように指示しました。そして、二人がちょうど隠れた頃、ジミーの前に一台の単車が引き返してきました。
「お前、数野ジミーだな」
それは、明間利美でした。そして、他のメンバーたちもジミーを囲むように次々に集まってきました。その中には重田泰一や大和弘たちがいました。
「へえ、新年早々、運がいいね」
「ぼ、僕は運が悪い。アスレチック公園の悪い中学生......」
「俺は中学生じゃないぜ。今は高校生だ。それで、なぜ、運が悪いんだろうなあ」
利美はそう言うと、仲間たちに辺りを探させました。
「こいつは連れがいたはずだ。たしか、ふたりの女だ。どうせ駅の中に女が隠れているんだろ。探してこい」
「ジミー君が暴走族たちにかこまれているわよ」
「警察署があそこにあるわ」
「そこに連絡して」
「イサオ兄さんにも連絡してみましょ」
理亜と玲華は隠れた場所から自宅のイサオに連絡を入れました。
「よし、分かった、今どこなの?」
「北綾瀬の公園なの。ジミー君は私たちを逃がしたけど、彼は囲まれているの」
「そうか、そこにいたのか。よし分かった。あと10分で行ける」
しかし、イサオの電話にはその直後に玲華の悲鳴が響きました。
理亜と玲華は隠れていたトイレから、引きずり出されてきました。
「明間さん、此処に二人、女が隠れていましたぜ」
「やっぱりな、その女たちを連れて来い」
利美は、仲間たちに指示をしてジミー玲華や理亜たち三人を車に押し込むと、3分もしないうちに彼らを連れ去ってしまいました。そのすぐ後に向かいの綾瀬警察から何人かの警察官が来たときには、もう、そこに誰もいませんでした。
ジミーたちは、彼らの活動の拠点となっている荒川河川敷の橋梁下に連れて来られていました。
「お前、震えているのか」
利美は、ジミーを車から引きずり出すとジミーに話しかけました。話しかけている間、利美の目は彼の頭から足の先までなめるように見つめ、威圧していました。ジミーは、周囲を房総族のメンバーたちに囲まれていました。それでもジミーは、震えながら従妹たちを守るためにという一念だけで、その場所に立ち続けていたのです。
「お前、正月早々女を二人もつれまわしているのか。いいご身分だな」
利美はジミーに向かってそう言うと、嘲りながらジミーの太った体を小突き回していました。
「あんたたちのような悪い奴から守るためだ」
「悪いやつ? 誰が悪い奴なんだ? どうして悪い奴と呼ばれるんだろうな?」
「悪いことをし続けているじゃないか、迷惑な暴走行為、迷惑行為、カツアゲ」
「へえ、いろいろ知っているんだな」
「そ、そうだよ、この前なんか、僕たちが使っていた野球場に邪魔しに来た」
「でも、その時に来たお兄さんは、ここにはいないんだろ? 単なるデブのお前に何ができるのかな?」
利美はそう言って、ジミーの襟首をつかみ上げました。ジミーは太った体を一生懸命に伸ばし、震える両足を何とか抑えながら、それに耐えていました。
「こ、怖いけど、頑張る」
「そうかよ」
利美がジミーの太った腹に膝蹴りを入れると、ジミーは体を折るようにして倒れこみました。それをきっかけにして泰一、弘たちばかりでなく、ほかのメンバーたちが角材で殴り、蹴りを入れ始めました。
利美はその光景を確かめると、次に玲華と理亜を車から引きずり出しました。彼女たち二人の目の前には、頭、口、鼻から血を流して倒れこんでいるジミーが転がされていました。
「さあ、お前たち。弱い男とつるんでいたことを後悔しな」
しかし、ジミーのささやかな頑張りは、無駄ではありませんでした。この光景をイサオが土手の上から観察していたのです。5分後には、房総族たちはいつの間にか十数人の藍色の制服たちに遠巻きに囲まれていました。彼らの背後には、次々に機動隊の様なバスが到着して、続々と藍色の制服の男たちが降り立っていました。いつの間にか、数十台の暴走族たちは藍色制服の大集団に囲まれていました。
「あんたたち、やめてよ」
玲華が声をかけると、利美たちはいったん暴行を止めて、玲華へ振り向きました。彼の足元には、血だらけのジミーが気を失って倒れていました。それを見た理亜は思わずジミーの許に駆け寄りました。
「ジミー君」
「うっ。ごほ、ごほ。あ、れ、理亜ちゃんと玲華ちゃん。なんで逃げなかったの。せっかく僕が犠牲になったのに」
「あんた、死んじゃうじゃないの」
「いいんだよ、僕は弱虫だから」
ジミーがぼそぼそというと、利美が理亜を嘲笑しながら見下ろしていましました。
「そうだよ、せっかく彼が犠牲になったはずなのに、二人ともまだ残っていたのかい?」
「いや、残っているのは大勢だよ」
それは、イサオの大声でした。
「あんた達こそ、ジミーにかかずらわっておらずに、さっさといなくなっていればよかったものを。もうあんたたちは囲まれているんだぜ」
イサオはそう言うと、すぐに利美に襲い掛かりました。襲い来た勢いのままに彼の顎を蹴り上げ、振り返りざまに泰一の横顔を蹴り倒していました。
「まったく、世話焼かせやがって」
イサオは倒れているジミーをそう言いながら一瞥すると、ジミーはすでに理亜と玲華によって抱き上げられ介抱されていました。
「おい、利美、それからリーダーの泰一、弘。それからお前ら全員、ただで帰れると思うなよ。もうお前たちは逃げられないからな。下手すると命がないぜ」
そのイサオの言葉とともに、周囲にいたイサオの制服の仲間たち、すなわちハングレの男たちが利美たち房総族に襲いかかりました。
「もうそろそろいいかな」
イサオはそう言うと、房総族全員がうめき声を上げる中、泰一の頭をわしづかみにして、ゆっくり言い聞かせました。
「いいか、僕の家族に手を出すと、こうなるんだぜ。今日は命だけは許してやる。二度と、僕たちの前に顔を出さないでほしいね」
この静かな言葉に泰一や利美は震えだし、房総族全員は利美や泰一たちをかかえて逃げ出していきました。
「兄...さん」
「ジミー、お前、また僕に負担をかけるのかよ。お前は無力で無駄、太っているだけの木偶の坊だな」
イサオは、今までとは違い、ジミーにいつになく厳しい言葉を浴びせました。その言葉に理亜たちは大きくショックを受けていました。
「そんな言い方って......」
「ジミー君は、私たちの犠牲になってくれたのよ」
理亜は、ジミーの犠牲的精神を目の当たりにしていたため、イサオのこの言葉は、あまりにひどく感じられました。
「イサオ兄さん、ジミー君は私たちを逃がしてくれたのよ」
玲華はそう言うだけだったが、理亜はさらにジミーの思いを言葉にしました。
「ジミー君は、自分が犠牲になってくれたのに......」
「へえ、犠牲に? この男は其れで何ができたのか? 彼らを叩きのめすことができたか? 勝利を得たか? 違うね。女ならば守るべき対象だろう。だが、僕にってデブでバカな男は、不要どころか、迷惑だ。足手まといの男を守らなければならないなんて、いい迷惑だ」
イサオは理亜たちからジミーに視線を移し、彼にさらに厳しい言葉を投げつけました。
「ジミー、お前は、犠牲になって当然の単なる虫けらなんだぜ。僕はいつまで男のお前を守らなければならないんだ?」
イサオは今までになく苛立ちを隠しませんでした。ジミーは、それでも激痛を我慢しながら一生懸命に自分のしてきたことを訴えました。
「僕も...不審者を捕まえるために....小学校の校門に立ったよ」
「確かに、お前は不審者に対抗するために立ったんだろうな。それが何をもたらした? 単に混乱だけじゃないか。迷惑だけじゃないか。はっきりしたことは、お前は無力で無駄な男、太っているだけの木偶の坊だ」
「そんな......」
「デブでバカは、不要どころか、迷惑な男だ。お前まで守らなければならないなんて、いい迷惑だ」
イサオのあまりの言葉に、ジミーは言葉を失っていました。イサオはジミーのそんな表情を見つつ、言葉をつづけました。
「そうさ、僕は力を学んだんだよ。そして、力を発揮していくには、弱いところがあってはいけないんだ。そう、こんな弟のジミーとか、ね」
「イサオ兄さん、それ本気で言っているの?」
イサオは理亜の呆然とした表情を一瞥し、理亜はイサオを見つめました。
「僕は本気だぜ。繰り返すが、ジミー、お前はデブでバカのままの男だからダメなんだ。役に立たない虫けらは要らない」
「そうなんだ......」
ジミーはそうため息をつきました。イサオは、ジミーや理亜たちを一瞥すると、彼ら三人から離れて行きました。イサオは、途中倒れこんで唸っている房総族の奴らを一瞥すると、真っ直ぐに待っている制服の仲間たちの方へ向かい、一切後ろを振り返らずに立ち去ったのでした。
ジミーは兄の言葉に衝撃を受け、裏切られたように感じました。でも、彼にはどうしたらよいかわかりませんでしたし、彼の考えがなぜ変わったのかという理由を知るための知恵もありませんでした。ただ、彼は啓典の主に望みをおいているだけでした。
ジミーは、玲華と理亜に助け起こされたものの、ろくに歩ける状態ではありませんでした。それでも二人の従姉妹に助けられながら、傷だらけの体を引きずって双葉町の自宅へ向かって何とか帰っていきました。ジミーは自宅に帰り着くと、数日間熱を出して寝込んでしまいました。身体的にも精神的にもそれほど弱っていました。母親のルビカは、理亜から騒ぎの全容を聞くと、伝え聞いたイサオの言葉に心を痛めました。それゆえ、母と父は何度か兄のイサオをたしなめようとしたのですが、彼は意に介さず、かえってハングレ集団に入り浸って、率先して悪の道を歩もうとしていました。
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「イサオは、『ジミー、お前、また僕に負担をかけるのかよ。お前は無力で無駄、太っているだけの男......デブでバカは、不要どころか、迷惑だ。お前のような男まで守らなければならないなんて、いい迷惑だ』......と、言ったらしいわよ」
ルビカは、イサオとジミーの悲しいやり取りを思いながら、伊作に語り掛けました。
「そうか、イサオがそんなことを家族に向かって言うとは......天寵を負う者であれば、与えられた力は自分の物ではないのに......」
「伊作。イサオはもう15歳になったわ。その意味でも、あんたの天寵の祝福とその意味とを、イサオに伝え教える時期が来たのかもしれないわ」
ルビカはそう言って、天寵の祝福と呼ばれるある家訓と秘密を、伊作から子供へ伝える時期であることを、夫に知らしめていました。
「ルビカ、わかったよ。では、イサオを呼んでくれ」
「イサオ、ちょっと祈祷室へ行ってちょうだい。お父さんが待っているわ」
ルビカに呼び出されたイサオは、祈祷室に入るとそのまま入り口に座り込んだ。
「親父、来たよ」
イサオは、祭壇に向かっている父親の背中を見つめていました。父親の伊作は祈りを終え、イサオに背中を向けたままイサオに語り始めました。
「イサオ、お前は武の素質があるな」
「ええ、中央都市ハイファーでの中国武術の経験には感謝しているよ」
「それは、小さな天寵の一種だということは認識しているか?」
「へえ、そんなものか?」
「大切なことは、お前に与えられた天の恵みを、自分勝手な思いで使ってはいけないということだ」
「力を教えてくれたのは、ハイファーでの経験だ。武力、腕力こそが力だよ」
「だが、その天寵たる力を自分勝手に使ってはいかんぞ」
「なんだよ、それ。知るかよ、そんなおとぎ話を」
「よく聞きなさい、天寵とは......」
イサオは伊作の説教じみた言葉に、すぐ反発を示しました。いや、反発するだけではなく、聞く耳を持たないほどになっていました。彼は、父親が振り返らずに説得を続けている背中をしばらく見つめていたものの、しばらくすると座を立ってしまいました。このことは、父親伊作とイサオとの間にははっきりした対立が生じていることを、明らかにしていました。
「俺はもう我慢しない」
彼は祈祷室を出ると、そう小さく言って祈祷室の扉を閉めました。そのドアの影には、ルビカとジミーが隠れていたのですが、イサオはルビカたちを一瞥しても何も言わず、彼らを残して出て行ってしまいました。
ルビカはジミーとともに伊作とイサオの話し合いを心配して、祈祷室の横で中の様子をうかがっていました。祈祷室のなかでは、イサオが出て行ってしまったことも気づかず、伊作は説教を続けていました。その様子を見ていたルビカには、祈祷室の中でまさに「天寵」を受け継がせようという儀式が始まっていることが分かりました。このままでは、大切な宝、伊作の頭脳から「天寵」が単に失われてしまうだけになると、ルビカは考えたのでした。
天寵とは、残りの民と言われる一握りの一族が、特殊な口述記憶の仕方で代々受け継がれてきた叡智でした。いまでは、ルビカの育ての親ファザー・アブラーム・ベトエールからルビカの夫伊作が受けて保持していたのでした。そこで、ルビカは、ジミーをそっと部屋の中へ送り込みました。伊作はそれに気づかずに話を続けていました。
「天寵というものは、祝福を伴うものだ。特に私がファザー・アブラームから与えられた祝福は、天寵のなかの特別な祝福として、私の大脳の奥深くに刻まれた。だが、私は老いた。脳の機能も衰えつつある。そこで、お前にこの天寵を受け継がせようと思う。先ほども言ったように、天寵は、イサオ、お前が好き勝手にしていいものではない。だが、祈りに導きを求めつつ活用すれば、たとえお前の思いの通りに活用したとしても良い結果が得られるだろう」
「そ、そんなことを」
ジミーはとんでもないところに入り込んだと気づいて狼狽したものの、この期に及んではただ言われた通りに動くだけだと、覚悟しました。
「これは、代々受け継がれるべき祝福、言うなれば公理改編数学と呼ばれる学問体系と活用術式だ」
「?」
「よいか、全てを記憶せよ」
父親の伊作は、そういうと、前置きの様な誓文が始まりました。それとともに、ジミーは自分の口の中に大量のはちみつの巣のような書物が放り込まれた幻を見ました。それは非常に分厚く、口がとろけるほどに甘い書物で、それを飲み込むと頭蓋骨が鋭い刃物でこじ開けられるような感覚にとらわれ、腹にはとても苦い痛みを感じました。そして、すべての前置き誓文が終わったと思ったとたん、ジミーの頭の中に、多量の数学体系と活用術式が一気に送り込まれてきました。父親の語りは、ジミーの頭の中を圧縮し詰め込むような圧力を伴い、まるで自動機械が機械的にどんどん押し込んでいくような調子でした。
父伊作の語り続けた内容は、数学とそれが対象とする数々の物理法則、電磁気学、量子力学、相対性理論、素粒子物理学.....という物理学でした。それが終わると、さらには金属学、無機化学、有機化学、高分子学、生物学、天文地質学が続き、さらには心理学、地理、歴史、行政学、そして多様な工学に至るまでの様々な公理と術式とが次々と続きました。
すっかり終わった時、伊作はすっかり疲れ果ててうっぷしていましました。祈祷室の中の様子をうかがっていたルビカは、伊作を横に寝かせたうえで、静かにジミーを自室へと連れ帰りました。その後、ジミーもまた、一気に詰め込まれた知識体系を整理し終わるには、しばしの睡眠が必要でした。そして、その夢の中に啓典の主は彼に告げました。
「恐れるな、虫けらといわれたジミーよ
私はあなたを助ける
見よ、私はあなたを新しく鋭い歯を持つ叩き棒とする
あなたは山々を踏み砕き、風が巻き上げ 嵐が散らす
あなたは今後、あなた自身が「破戒僧」であることを
心の片隅に覚えておきなさい」
預言の中に言われた「破戒僧」という意味は、彼にとって、またそれを知ったものにとっても、謎の言葉でした。その意味が分かるのは彼が働きだす時にまで、封じられるのでした。
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重田泰一は、まだ懲りていませんでした。イサオから手ひどい仕打ちを受けたことは、イサオへの恐れよりも彼への憎しみが勝っていました。彼は利美たちととともに、イサオへの復讐を再び誓ったのでした。
イサオへの復讐を果たすには、ハングレ集団を上回る勢力が必要でした。それを泰一はよく認識しており、彼らは千葉ばかりでなく、葛飾、足立、墨田、江東の地域にまで手を伸ばし、徐々に暴走族の大集団を作り上げていましました。
こうして、二年が経とうとしていました。イサオは双葉町中学を卒業し、体育大学付属の高等学校の二年生になり、ジミーや理亜、玲華は双葉町中学校の三年になっていました。そして、重田泰一たちは満を持して、イサオたちへの復讐に再び数野園を襲いに来たのでした。
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全世界を巡り歩く吟遊詩人ユバルは、久しぶりにこの地に行き着きました。最近の宿は、双葉町にそびえるクスノキの樹上でした。
今日もユバルは、葛飾区双葉町を見渡せるクスノキの大木のてっぺんから、この辺りを見渡していました。この地域で、これから何かが起きそうだったからでしょうか。
「遠くから、何が聞こえてくるんだろうか」
秋はもう深まって、そして今はもう赤い夕陽に街のいたるところが染められ、濃くなっていく時刻でした。ユバルは、夕日が染める西の方角を見つめて、その清んだ透明な空気が小さくブルブルと震えさせる正体を見極めようとしていました。
パラパラパラ、ブルブルブルン、ドドドドン。そんな多くの不協和音が徐々に大きくなっていました。波打つドップラー効果を天に向けて響かせる轟音の大集団。四つ木大橋、いや新堀切橋を渡ってきたらしい改造単車の大集団が、この双葉町へ向かってきているようでした。
「イサオ(イサオ)の家、あいつの自宅は、このブドウ園らしいぜ」
「おう、此処か」
「今夜はイサオの奴は、渋谷に出かけているはずだぜ」
「じゃあ、全部やっちまおうぜ!」
「待てよ。まずはブドウをいただこうぜ!」
彼らの目の前には、美味しそうな葡萄を実らせた果樹園がありました。微高地ではあるものの、こんな江東デルタ地帯に葡萄園があること自体がおかしいのですが、今夜はそんなブドウ園に、おかしな人たちが大挙して押しかけていました。彼らは改造単車120台の大集団であり、どうやら墨田川(武蔵と房総との国境の川)から東で、つまり川むこうで活発に活動する房総族と呼ばれる暴れん坊たちでした。そして、彼らは葡萄を食べにツーリング......のわけではないようですね。
さて、房総族の人たちは、改造単車に乗ったままブドウ園の中へどんどん入り込んでいきました。乱暴にも、彼らはいきなりブドウの房を引きちぎり、無造作に食い散らかし始めましたよ。そして、食べることに飽きたとおもったら、今度はパラパラパラ、ブルルルン、ドドドドンという騒音とともに、ブドウ園いっぱいに走りまわり始めました。そのせいで、ブドウ園全体はあっという間に荒らされてしまいました。食い散らかされたブドウの房、無残に引き倒されたブドウの木々、そして、ブドウ園施設の残骸、それらが残っていることで、そこが先ほどまでブドウ園であることがかろうじてわかるほどになってしまいました。
「やったぜ!」
「徹底的にやってやったぜ!」
「イサオへの復讐だ!」
「これで、イサオも俺たちの復讐を思い知るだろうよ」
「あ、あんたたち...は......」
彼らの雄たけびが最高潮になった時、つぶれた残骸から這い出してきたのは、デブった少年じみーでした。彼は恐怖に体を震わせていました。いや、あまりの怒りに震えていたのかもしれません。彼の目の前では、園内の全ての葡萄の木々が無残に引き倒されていました。また、施設の残骸やその周囲では、彼の父伊作と母ルビカが丹精込めて育てあげ、出荷直前だったはずの葡萄の加工品が、ことごとく食い散らかされ踏みつぶされていました。
「なぜ、こんなことを......。明間利美と重田泰一、お前たちだったんだな」
「お前、誰だよ」
彼らは先ほどまで復讐とその達成感に酔っていました。それが、背中に急に冷や水を入れられたような顔に変わりました。そして、次の瞬間には彼が誰であるかを知り、彼らは途端に彼を馬鹿にし始めたのです。
「こいつも、デブだなあ」
「こ、こいつ、イサオの弟 ジミーだぜ!」
「そ、そうだ。俺たちがこいつに手を出した後、イサオが俺たちを襲ってきたんだっけな」
「こいつは、鈍いぜ」
「そうだ、こいつ自体は、鈍いデブの虫けらだぜ」
「ちょうどいいじゃねえか、もう一度、こいつを半殺しにしてやろうぜ」
彼らはジミーを捕まえると、残骸となったブドウ園の中で彼を引きずり回しました。
「痛い、痛い。やめてくれー」
ジミーは悲鳴を上げました。でも、120台の改造単車は、そんなジミーにお構いなく爆音を響かせて彼を引きずり回しました。さすがに彼がぐったりとなると彼を放しましたが、その後も彼の周囲を走り続けました。ジミーは単車の走り回る真ん中に放置され、房総族たちは彼を包囲しながら罵声を浴びせつづけました。ジミーは小さな悲鳴を上げていたのですが、爆音でかき消され、どこにも誰にも届くことはなかったのです。
「デブ、逃げてみろよ」
「何とかしてみろよ」
「おい、何とか言ってみろよ」
ジミーは恐怖のあまり、おのれの愚かさと愚鈍さを呪いました。
「僕は虫けら
アリに襲われて、引き裂かれていく
体はただ大きいだけ
ただ引き裂かれていくだけの虫けら」
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ユバルは、楠の上から、下界で起こっている事件を淡々と見つめていました。その彼女の脳裏に、突然見知らぬ詩が浮かび、その詩はそのままジミーの脳裏に伝わりました。これらの現象は、ユバルの持つヘクサマテリアルの作用でした。
「なぜいうのか
私の道は主に隠されている、と
私の裁きは神に忘れられた、と
あなたは知らないのか、聞いたことはないのか
啓典の主は、とこしえにいます
疲れた者に力を与え
勢いを失っている者に大きな力を与えられる
恐れるな、虫けらと言われたジミーよ
私はあなたを助ける
見よ、私はあなたを新しく鋭い歯を持つ叩き棒とする
あなたは山々を踏み砕き、風が巻き上げ 嵐が散らす」
その詩は、ジミーを不思議な感覚へ導きはじめました。それは、彼が父から受け継いだばかりの「改編数学」という不思議な物理法則書き換え術でした。
このとき彼の頭のなかでは、最初、走り回っているうちの一台の単車がイメージされました。次にイメージされたのは、その構造とそれを支える接合部の強度、燃料タンクの強度とガソリンの爆発力、燃料タンク内のガソリンが必要とする酸素の量と引火の条件、ガソリンの一分子だけ酸化反応を起こさせるほどに加速させる条件などでした。その後に、それぞれの現象が同時に並列的に数式とともに展開され計算されていきました。すると、計算結果によって予測されたのと同じ現象が、彼の脳の中でイメージされました。
彼の目の前の一台で、燃料タンク内にあったガソリン一分子だけが急に加速され…一分子がミクロサイズの酸化反応を引き起こしました。すると、一つの燃焼反応が連鎖的に燃焼反応を起こし、次の瞬間その単車は爆発しました。それがさらにその単車を暴走させ、次々に仲間たちの単車に衝突していきました。衝突された単車は誘爆し、ついには全ての単車が火だるまになっていきました。
「う、うわあ」
その声でジミーが目を開けると、実際に目の前の単車の燃料タンクが突然爆発し、火だるまとなりながら近くの単車群に突っ込んでいました。それを引き金に、房総族たちの改造単車は次々に誘爆しながらひっくり返り、火だるまとなった乗り手を投げ出していました。
「単車が爆発した」
「火、火だ」
「服、服が燃える!」
「た、助けてくれ」
大声と爆発音はしばらく続きました。爆発音は次第に燃え盛る炎のバチバチという音に変わり、大声はうめき声に変わっていきました。暁のころとなってすべてが静かになった時、その場には、吹きとばされたり火傷を負った房総族全員が気を失ってあちこちに倒れていました。あるものは大けがを負い、あるものは大やけどを負い、うめき声すら出せないほどでした。そして、ジミーは驚愕の光景に声を失い、自らがこの事態を引き起こしたことに戸惑い、彼らの中央に座り込んでいました。
「こ、これは......」
クスノキの上でもこの事態に驚いている者がいました。
「先ほどまで、あのデブは一方的に半殺しになっていたのに......。急に奴らが叩きのめされて壊滅している。これは、まさか、今の預言が彼を救ったのか。いや、預言の通りになっただけなのか......」
ユバルは、先ほどまで淡々としていました。ですけれど、短時間で単車が爆発し、ほかの単車たちも誘爆して全てが粉砕され、房総族たちがすべて預言にあるように踏み砕かれたようにチリジリになって倒れ、うめき声を上げている光景に驚愕していました。
そうして、立ち尽くしていたジミーとは別に、まだ驚いていた者たちがいましました。それは、騒ぎが収まった頃に外の様子を見に出た理亜と玲華、そしてその時に帰宅したイサオでした。
「何があったんだ?」
「イサオ兄さん、私たちも分からないの………。この果樹園の中に入り込んでいた沢山の単車が、果樹園をズタズタに荒らしていたので恐ろしかったわ。でも、しばらくたつと、私たちやジミー君の目の前で、突然パンパンと音がして、単車が全部火だるまになって......」
「こいつらは、昔僕たちを襲った明間利美たち房総族だな。二年前に、さんざん叩きのめしたはずなんだが、またやってきたのか……それで、攻撃を受けていないのに突然爆発したのか? 誰かが仕掛けなければ、単車全部が爆発するわけもないのに...」
彼らは勝手な推定をするだけで、何が起きたのか、この時には理解していませんでした。
「それにしても、誰が、僕の敵を粉砕したんだろうか」