3 跋扈する者
葛飾区はみなさんご存じの、川向こうの川向う。今でこそ、東京都23区の一部のような顔をしています。下町の顔をしていますが、もともとは浅草区の先にあった川向うで、下町じゃあありませんでした。それでも、将軍様の立ち寄るお花茶屋、菖蒲園、柴又帝釈天があったことで有名でしたし、無数の町工場が点在していたことで都市化して、やっと大東京の一部になったようです。
葛飾区双葉町。昔は下千葉と上千葉に分かれていました。ここは、近くの北千住のお化け煙突と、大きなクスノキとが目立つ平坦な場所でした。いま、双葉町の駅に降り立つと、高架のホームの北側傍に大きなマンションがそびえ、視界を遮っています。南側には、スカイツリーが雲を纏ったお化けのように大空に高く大きく間近にそびえ立っていますね。
ホームから改札へと降りたつと、出口にすぐ接している大通りと街並みから、喧噪とある種の念圧が押し寄せてきます。それをまとって紛れ込むようにして踏み出していけば、もうあなたは立派な下町の人間です。下町らしい商店街と自動車の渋滞が迎えてくれるでしょう。但し、とどまってはいけません。ボケっとしていたら、たちまち激しく生き合う人々の渦に翻弄され、怒鳴られ、追い込まれて道に迷ってしまうかもしれませんよ。
なぜなら、東京という街の道では、その方向と東西南北が合っていません。さらに昔の菖蒲田とクネクネと切られた堀に沿って、そのまま道ができたせいもあって、道は不規則で乱雑、ついでに迷路になっているラビリンスなのです。一種のタンジョンかもしれません。ここでは、方位磁針を使い、道筋で掃除や植え込みの手入れをしている現地の住民たちに聞きながら、目的地を探すことが最も確かな進み方になるでしょう。こうして訪ねて行けば、だれでも数野園に到達することができるということです。
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数野伊作が此処葛飾区で数野園を開いてから、2年がたとうとしていました。以前の数野園のように、ここでもポリウェル種は健康的な成長と豊かな実を結んでいました。そこには、やはり、以前のように見学者やブドウや関連商品の取引業者が来ていました。また、遠い産地の同業者たちも、以前と同じように葡萄の苗を求めて訪ねてくるようになっていました。
「このような悪条件なのに、ここでも春に植えてその年の秋にはもう収穫できているのかい?」
訪ねてくる客たちは、前にもまして驚いていました。羨望と嫉妬がすこし混じった羨望のまなざしが増大しているのを、伊作は肌で感じていましたし、それゆえいままでになく上機嫌に答えていました。
「ええ、このブドウは、増やし方と世話の仕方は特殊ですけど、どんな土壌でも従来の葡萄に比べると成長力と結実力は格段に強力ですよ」
「ほお。その性質は、今まで聞いたことが無い」
業者間において会話が交わされる際に「このような悪条件」と言及されるように、数野家の新たな居所は、果樹栽培には到底向かないと思われた葛飾双葉町の地でした。その様な土壌の悪い双葉町一帯は、かつてクスノキの大木がある微高地のほかは、周囲に菖蒲田が広がり、また池もありました。伊作が買い求めたのは、その池を埋め立てた土地であり、非常に不安定な水はけの悪いところでした。伊作はそれを承知でその場所を葡萄畑として用いたのです。
伊作が生み出したポリウェル種は、たとえ粘土質でも砂利の地層があっても元気に根を伸ばす品種でした。この双葉町の地であっても、苗を植えたその年の秋には伸びた幹や枝に豊富に実を結びました。それゆえ、数野園は開園から数年経った今では、狭く水はけの悪い土地にもかかわらず葡萄と加工食品とを多量に出荷するようになっていました。
かつてブドウ園を営んでいた城町が丘から逃げ出すようにして出てきた一家は、近隣に競争相手のいない土地をやっと見出しすことができました。この数年間、城町が丘のように理不尽な要求をする者たちは、ここにはもはやいなかったのです。
「今や、啓典の主は我々の繫栄のために広い場所をお与えになった」
伊作は、この年、やっと心に平安を覚えていました。従来からいつも口にしていた賛美と感謝の言葉も、今はいつにもまして喜びを帯びていました。実に、この場所は5か所目でした。理不尽な要求と嫌がらせに遭遇するたびに、伊作とルビカはブドウ園を営んだ部落を出て、新たな土地へと移ってきました。かつては、笛吹川の上流の寒村から広島県上石郡の寒村へ、そして北海道余市郡の山奥から千葉県八柱市城町が丘へ。その度に、全財産を捨て、ただポリウェル種の細胞群だけをもって、住み慣れた土地を離れることを繰り返してきたのです。
今、この葛飾で、父伊作や母ルビカは毎日果樹園の手入れと加工食品生産にいそしんでいました。息子たちは双葉町中学校の生徒として通いつつ、両親の手伝いをする毎日でした。
彼らの通う双葉町中学校は、夜間中学を併設し、昔から進学校への進学率の高い有名校でした。中学一年から中学三年までの各学年は、それぞれ3つほどのクラスを有しており、この年の春、イサオは中学三年に進級し、ジミーは中学一年に入学を果たしていました。
この年、数野園では、春の葡萄の花の芽のつきかたから、例年よりも多く収穫が得られると予想しました。そこで、伊作はルビカと相談し、さらに売り上げを上げるために新たな加工品をあれこれと考えてはじめていました。
「子供受けする加工食品も手掛けようか」
伊作の問いかけにルビカは、中学生の息子たちを眺めながら少し考えてから答えました。
「そうねえ、小学生ばかりではなく、中高生の女の子たちの受けも考えないとね」
ルビカはそう言うと、数々の案の中から「グレープクランブルマフィン」を売り出すことを考えたのです。
「イサオ、ジミー。ちょっと来てくれないかしら」
下校後、晩御飯の前に、イサオはすぐに部屋から道着のままでやってきました。イサオは中国武道教室から帰ったばかりで、自分の部屋で武道の型の練習と筋力トレーニングをしていたところでした。
「なあに、お母さん?」
「葡萄のお菓子を考えていてね。いろいろ考えたんだけど、このグレープクランブルマフィンを試食してみて」
「へえ、いいじゃない」
イサオは、一口、二口と食してから、淡々と感想を口にしていました。
「それで、ジミーはどうしたの?」
「あ、お母さんの声が聞こえた途端、隠れちゃったよ」
「また、あのバカ息子!! しかたないわね」
ジミーは中学一年生になってもまだ母親のルビカにはかないませんでした。なにしろ、身長はもう165cmほどにはなっていたのですが、母親は170をこえていたのですから。ルビカはその美貌に少しいら立ちをにじませながらジミーの部屋に走りこんでいました。
「ジミー、いい話があるのよ」
「ジミー、どこにいるのかしら」
「ジミー、美味しいものがあるのよ」
「ねえ、ジミー、相談があるのよ。出て来てくれないかしら」
「ねえ、ジミー、怒らないから、出て来られないわけを教えてくれないかしら」
この時、どこからかジミーの声が聞こえてきました。
「今日のお母さんは、怖くない?」
「怖くないわよ、いつも怖くないでしょ?」
「いつも怖いから、今お母さんが怖くない証拠を見せて?」
「何言っているのかしら。私、いつも怖くないでしょ」
「ほら、声が怖いよ!」
ジミーのこの指摘がよくありませんでした。
「ジミー君、いい加減にしなさいよ」
「ひ、ひええ」
この後、母親の猛烈な捜索が始まりました。ジミーの部屋、机の下、タンスの中、床下収納、屋根裏、はては軒続きの外の倉庫まで......しかし、どこにもジミーは見当たりませんでした。但し、彼の部屋でルビカはかすかに彼の声を聞いていました。決して遠くに逃げているとは考えられませんでした。ただ、探し回る時間が過ぎていくとともに、母親の怒りは限界を超えつつありました。イサオは宥めるようにそっと指摘をしました。
「お母さん ジミーは怒るとそれだけ出てきませんよ」
「そう、そうなの! それなら、見つけた時が楽しみね」
もう、母親の怒りはもう誰も抑えられないほどになっていました。それは、探し続ける彼女のフレーズと声の調子に明らかに表れていました。
「ジミー君、怒っていないから、早く出てきなさいね」
「ジミー君、美味しいものがあるから出てきなさいね」
しかし、家のなかも周囲も沈黙を守っていました。それがちょっとした音をルビカに気づかせました。
「ああ、分かったわ。もう逃がさないからね」
この言葉はジミーにとって、万事休すを意味していました。そして、耳と首根っこを摘ままれたジミーが倉庫の窓の下から力づくで引きずり出されていました。その後、しばらくたった時、食堂では、尻叩きにあったジミーが、葡萄のマフィンを猛烈にほおばっていました。
「モグモグ。ほれはほいひい」
ジミーはそう言っていましたが、その後は無言ですべてのマフィンを平らげていました。イサオは、この様子を見ながら一言付け加えました。
「うん、怖い目に遭ってもそれを忘れるほど夢中で食べているね。この調子なら人気が出るよ」
夏になって収穫が始まると数野園では形の悪い実を使って、グレープクランブルマフィンを作り始めました。まだまだ生産量は少ないものの、イサオの予想した通り、そのマフィンは多くの子供たちを虜にしていました。売上量は少ないものの、売り上げ増にも貢献するほどでした。
そして、このマフィンの虜は数野家にもいました。ジミーは、こうして毎日マフィンを食べまくる生活を始めていました。
「残ったから食べていい?」
「いいわよ」
最初はルビカたちも大目に見ていました。
「これだけ持って行っていい?」
「もうそれだけにしなさい」
止められるようになると、ジミーの盗み食いが始まりました。
ジミーの盗み食いはとても巧妙でした。彼が対象としたのは、店の売れ残りで消費期限の切れたものばかりでした。店のオーナーをしていたルビカは、店があとかたずけをしっかりしていることに感心していましたし、また、店の人たちはルビカが彼らの代わりに店をきれいにしてくれいていることに感謝していました。但し、それらの誤解は、ジミーが店を綺麗にしていたことでしばらくは表沙汰になりませんでした。そのような誤解をよそに、ジミーはマフィンの虜になってから猛烈な勢いで体重が増加しはじめていました。
ある夜、ルビカは従業員たちをほめようと店じまいのされている最中であろう店を訪れた時のことです。暗がりに、カチャりかちゃりという音が聞こえていました。でも窓から中を覗き込んでも、店の中には誰も見えませんでした。いや、正確に言うと、寝そべって食い散らかしているジミーは窓からのぞきこんでも見えなかったのです。不思議に思ったルビカは、イサオを呼び、二人でそっと店の中に入っていきました。
すでに従業員は、残り物はそのままに、ただ店の内外だけはきれいに片付いていました。
「だれなの?」
ピタッと音がやみました。
「母さん、これは...『ジミー君、いい加減にしなさいよ』と怒鳴ってみるといいかも...」
イサオはルビカにささやくと、ルビカは半信半疑で大声で呼びかけました。
「ジミー君、いい加減にしなさいよ」
「ひ、ひええ」
その声はジミーでした。そして、ルビカは仕方なくその日店に残っていたマフィンをジミーに任せることにしました。こうなることをジミーは予想していたのか、絶対にあきらめていなかったのです。他方、ルビカたちはもうあきらめ顔でした。
「ああ、もう何を言ってもダメね。ジミーはどんどん体重を増やしていくわ......」
おかげで、ジミーは中学一年となった春から急速に体重を増やして、夏には中学デビューではなく中学デブーとなってしまいました。もちろん、身長は兄に似て170cmほどにはなっていたのです。ただ、体重はそれ以上に増えてしまい、やせていたはずの体格はビア樽へ徐々に近づいていきました。しかも、ジミーは兄とは違い、運動神経は全くダメで、運動する気もなさそうでした。したがって、ジミーが入学した年の一学期が終わるころには、180cmのすらりとした精悍な兄と、170cmはあるもののビア樽体形の弟との二人がそろって通学する姿が、出来上がっていました。
その年の夏休み、まだまだ葡萄の取入れには早い季節でした。イサオとジミーは双葉町中学校からほど近い荒川の河川敷で、1~3年クラス対抗野球大会に出場していました。彼は170cmの巨体を活かして、うまく打てればその打球はおおきく飛んでいくのでした。
イサオはというと、北端の球場で三度の投手戦を制し優勝を祝うために、すでに帰宅していました。でも、ジミーたち一年生は優秀な投手が育っているはずもなく、打撃戦となっていたのです。母親の応援もあって、ジミーはハッスルしたのか多くの打点を稼ぎ、チームは決勝まで進んでいました。そして、打撃戦となった一年生の決勝は、既に照明が入るほどの夕方の時間帯になっていました。
夕暮れの時、遠くの爆音が、透明で清んだ空気の中を震わせながら、不協和音を奏でていました。しかも、それらが反響して生まれた轟音が、ドップラー効果による不協和音を重ねつつ近づいてきていたたのです。彼らはもう球場では試合がとうに終わっており、誰もが帰る時刻のはずだと考えて、単車を球場に乗り入れようとしていました。
「お前ら、そこを開けろ。もう夕方なんだから、試合は終わりだろ」
その集団のリーダーは明間利美と言いました。彼は長身のライダーで、その単車も改造し、川向こうの房総族らしいおどろおどろしい装飾を着けていました。
付き添いの教員や父母たちは、彼らの装束と勢いに押されていましたが、それでも彼らを見とがめました。
「あんたたち、ここは中学生がまだ使っているんだよ」
「ここは単車の入り込むようなところじゃないんだよ」
「もう終わりにしろ、と俺は言ったんだ」
利美はそう言うと、仲間の大和田正弘に「かまわないから入り込め」と合図を送りました。すると弘は他の単車たちに合図し、そのまま球場に入り込もうとしたのです。
「ほれ、ほれ、どけどけ」
「待ちなさいよ。あんた達」
そう言って立ちはだかったのは、ルビカでした。しかし、ルビカの顔を見た利美は傲慢な顔つきを一瞬ひきつらせました。彼の目の前に来た女は城町が丘でかつて数野園を経営していた伊作の妻だ、ということに気が付いたからでした。
「あ、あんた、昔、俺の親父たちに損失を与えた数野園のおばさんじゃないか」
「あ、あんたは誰なの?」
「おれ? 俺は地区長だった明間の息子、利美だよ。おかげさんで実家は破産したんだぜ。わすれもしねえ、すべてあんたたちのせいだろ」
「私たちのせい? 何があったかしら?」
「とぼけるのか? あんたのよこしたポリウェル種は二年目に全滅するし、お前たちが置いていったポリウェル種のブドウ園は、俺たちだけで世話してたら枯れちまった。おかげで俺の父親と母親は破産だよ......みんなお前たちのせいだろうが」
「へえ、明間さんはそんなことになっていたのかい、やはり苛めをしたうえ、ただでよこせなんてことをした奴には天罰があるんだねえ」
「なんだと......」
明間利美は、数年前から伊作とその家族への復讐を誓っていました。
数年前、彼の実家、明間家は城町が丘の地区長をつとめ、葡萄園を経営している地区の果樹農家を束ねていました。そこに、新参者として開園したのが数野園でした。すると間もなく、地区長の明間家をはじめとした地区の果樹農家たちは、数野園が導入したポリウェル種の収穫量に目がくらみ、数野園からポリウェル種を安易に得て栽培に手を出したのです。しかし、伊作の忠告をろくに聞かなかったために、二年目に失敗してしまいました。懲りなかった彼らは、数野家から城町が丘で営まれていた数野園と加工場などすべてを横取してしまいました。そして、やはり、彼らは数野園のポリウェル種さえも枯らしてしまい、結果として周辺の果樹農家たちは損失を出していました。中でも明間家は、全ての土地をポリウェル種にしたうえ、数野園の加工場をすべて奪っていたために、ポリウェル種が全滅した際に、全財産全てを失っていたのでした。
明間利美は、実家のそのような過去から、数野園の家族へ逆恨みを重ねていました。
「なんだと......この婆」
利美は憎しみを込めてそう言うと、ルビカを突き飛ばし、そのまま球場の中に弘や仲間たちとともに乱入して行きました。当然、すぐに球場は大混乱となりました。
「イサオ、大変なことになったわ」
「わかった」
ルビカから混乱の状況をきいたイサオは、急いで一年生たちの球場に駆け付けました。イサオがやっと球場に着くと、数十台の単車が縦横無尽に走り回っており、球場の真ん中では一年生の選手や大人たちが怯え切って立ち尽くしていました。ただ、ジミーは母親やほかの皆をかばって立っていました。
「やめろ。やめるんだ」
「その声、覚えているぜ。お前、数野家の息子だろう? なんだ、震えているんじゃないか」
そう言ってジミーの前にとまったのは、利美でした。すると、ジミーははっと思い出したように叫んだのです。
「あ、あんた、覚えているよ。アスレチック公園の悪い中学生だったよね」
「アスレチック公園の悪い中学生? そうか、思い出したよ。お前、俺たちを追い出しやがった小六の......」
「それは、僕のお兄さんだよ」
「へえ。じゃあお前はあの時のチビだな。まあいいさ。ここでお前をやっちまえばいいんだからよ」
そういうと、利美はジミーの襟首を捕まえて、投げ飛ばしました。すると弘やなかまたちが、倒れたジミーを角材で殴り始めたのです。それはちょうど、イサオがそこに駆け込んできたところでした。
「弟に何するんだよ、この野郎」
イサオはそう叫ぶと、利美の頭を後ろから蹴り上げていました。この時利美は昏倒したのですが、イサオはその様子を確認しようともせず、次々に暴走族の単車たちを引き倒しては乗り手を蹴り上げていきました。こうして、乗り回していた集団は一気に倒れこみ、爆音が消えた代わりに唸り声が響いていました。イサオは周囲を睨みつけてから、彼を見つめているルビカとジミーたちの許に悠然と歩み寄ったのでした。
「母さん、大丈夫か」
イサオの平然とした態度に、ルビカは驚き、急いで小声でイサオに話し掛けました。
「イサオ、あ、あんた、あっという間にこいつらを粉砕したねえ」
「兄さん、ありがと......」
ジミーは、小4の時に兄の強さを目の前にしていたこともあり、あまり驚きませんでした。その弟をかばうように、イサオも返事を返しました。
「ジミー、お前、結構やられているな。早く帰って治療しろよ」
「それもそうだけど、イサオ、あんたも早く居なくなった方がいい。ちょっとまずいわよ、この事態は......。もうすぐ警察が来るから」
ルビカは小さくそう言ってイサオを促していた。
「わかった」
彼はそう言うと、暗闇の中へ姿を消しました。
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「利美、お前、だらしねえな」
そう言ったのは、暴走族リーダーの重田泰一だった。泰一の前で利美は頭を掻いていました。
「リーダー。奴は強かったんだよ」
「そうか、それなら数野園という果樹園を襲えばいいじゃないか」
「でも、千葉にはもう数野園なんてブドウ園はねえよ」
利美は今でも実家に住んでいました。明間の実家は、破産したとはいえ、なんとか手に残した土地をアパートに代えて細々と生計をたてていました。父親たちは葛飾区双葉町で営業している数野園を知ってはいましたが、彼は精確にはその場所を知らなかったようでした。
「教えてやるよ。今じゃ数野園は葛飾の双葉町というところにあるんだよ。じゃあ、その辺りを毎晩脅してやろうじゃないか」
泰一はそう言うと、その年の秋から暴走族を引き連れて双葉町の数野園周辺で活発に動くことにしました。このときから、数野園の不審者騒ぎが始まったのでした。
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数野園では、ブドウと加工品の販売の季節を迎えていました。伊作とルビカは、新たな加工品である「グレープクランブルマフィン」が予想以上の人気を博したことを踏まえて、渋谷や新宿などに加工品販売店を出店するまでになっていました。イサオも放課後、新宿の販売店を手伝うことが多くなりました。
そんな新宿の店は、少しばかり目立ちすぎていたのかもしれません。マフィンの店が目立ったのか、それともイサオが目立ちすぎたのか、あまりがらのいい方ではない若い男たち数人が、商品の運び込みをするイサオを見て言いがかりをつけてきたのでした。
「この店は、葡萄の菓子しか売っていないのか。それでよく客に応じていると言えるなあ」
「いらっしゃいませ」
イサオは中学校三年生でしたが、店の応対にはもうすでに一人前になっていました。でも、若い男たちはイサオの見た目の幼さを馬鹿にして、言葉をエスカレートさせてしまいました。
「ガキのお前と女だけの店なのか。責任者はいないのか」
「責任者はおりませんが、わたくしも責任者の息子ですので、ある程度のことは応対申し上げることができますが」
「責任者を出せ、と言っているんだぜ」
「私が任されている、と申し上げたはずですが」
「お前、俺たちを馬鹿にしているのか。そうか、それならこうしてやるよ」
若者たちの一人が菓子のトレーをひっくり返そうとしました。イサオは間髪入れずに、彼の手をしっかりと抑え込み、若者は動けなくなってしまいました。
「あんたたち、ここは買い物に来る場所です。悪さをする場所ではありませんよ」
若者たちは仲間を押さえつけているイサオの後ろから殴りかかりました。その直後、すぐに数人の若者たちが店の外へ放り投げだされていました。それと同時にイサオは店の外に飛び出し、逃げ出したのこりの若者たちを蹴り上げていました。
「こ、このやろう」
若者たちは口々に悪態をつき始め、彼らがハングレの一員であることを示唆してみました。ところが、イサオは動じませんでした。
「そうですか、あなた方は中国拳法をなさる。それはいいことを聞きました。私も中国拳法をたしなんでおりますので、教えていただけますか」
イサオはそう言ったとたん、その場で数人の若者が一度に倒れていました。残りの若者たちは声を震わせて逃げ出していきました。
「お店を少しお願いできますか」
イサオはそう女子店員に断ると、逃げて行った若者たちを追いかけて行ってしまいました。
逃げ出した若者たちは、西口から新宿公園へと逃げていきました。イサオは彼等の姿を追い続け、十二社池の下まで来ていました。そこに待ち構えていたのは、鉄パイプを手に50人ばかり集結したハングレ集団とそのリーダー林孔明でした。イサオは多少とも驚きながらも、苦笑していい放ちました。
「へえ、大人数でお迎えとはありがたいですね」
「でかい口を利く奴だねえ。まあ、そのくらいにしておいた方がいいよ。せっかくのハーフのハンサムな顔が変形するからねえ」
リーダーの前にいた先鋒らしい男、袁崇燿は、そう言いながらイサオに鉄パイプで殴りかかりました。ただし、あまりに大振りであったこともあり、イサオはその大振りを簡単にいなしながら、相手の頭を踵で蹴り下していた。それをきっかけに大乱戦となりました。それでもイサオは、相手の鉄パイプを奪って一気にリーダーへ駆け寄っていきました。
「ほお、中国拳法を使いこなすねえ。あんた、中華民族でもないが、東瀛人でもないね」
孔明がイサオを睨みながらそう言った。イサオはそう問いかけられながらも、眉一つ動かさずに応じた。
「僕はこの通り、あんたと同じようにこの国の言葉を話していますよ。確かに、生まれは大陸の中央都市ハイファーですがね」
「ハイファー?」
孔明は少し首を傾げたが、イサオはそれに構わずに孔明に間髪入れずに拳と蹴りによる連続打撃を加えていました。その後は、剣と蹴りの応酬が繰り返されていました。イサオには、幼い時からの鍛錬があったために一日の長がありました。結局は孔明が叩き伏せられたことにより、イサオを取り囲んでいたハングレたちは凍り付いてしまいました。
イサオに踏みつけられていた孔明は、イサオを睨みながらしゃがれた声で呼びかけて来た。
「お、お前、強いな」
「黙ってろ」
「わかった、お前の勝ちだ。もう、降参だ」
「もう、俺たちに手を出さないと誓うか」
「ああ、もうあんたには手を出さない。ほんとだ。それにしても鋭敏だった。中国拳法を何歳からやっている?、いくつ流派を知っているんだ?」
こうして、イサオは中学三年という若輩ということもあったのでしょう、林孔明の懐刀として受け入れられたのでした。時をおかず、彼の名前、数野イサオという名前は新宿界隈の彼らに一目置かれる存在となっていきました。そして、これは、イサオが力におぼれていくきっかけとなったのでした。
正体不明の不審者が数野園近辺で嫌がらせをしていると、数野伊作やルビカのところに報告され始めたのは、そんな秋の夜でした。そのことがあってなのか、イサオやジミーは、いつになく苛立った母親の声により、呼び出されていました。
「イサオ、ジミー、二人ともリビングに来てちょうだい」
例によって、イサオはすぐに母親のいるリビングにすぐに駆け込んで来ました。でも、ジミーはなかなか現れませんでした。この頃になってジミーも少しは学習をして、母親の声にびくっとして起きていたはずなのですが、この日だけは、不覚にも夢から覚めていませんでした。彼は夢の中で幸せな時間、つまりグレープマフィンの山に埋もれていたのです。
「グレープマフィン、此処にもあそこにも。ああ、これで僕の一生は安泰だあ」
これは確かにジミーの寝言でした。寝言が部屋の外までこれほどはっきりと聞こえるのも珍しかったのですが、それを聞いていたのは、運悪く、いつも盗み食いをされている母親のルビカでした。
「そうねえ、グレープマフィンをそれだけ食べているなら、もう働けるわね」
ルビカはそう言いつつジミーの部屋のドアを開けました。この皮肉と恐怖を感じさせる冷たい母親の声で、ジミーはようやく目を覚ましました。
「は、お母さん、ど、どうしたのでしょうか?」
「ジミー、降りて来いと言ったはずだわよね」
ジミーは、少なくとも寝床から出ておくべきだったと後悔していました。寝たままの姿勢は、容赦なく怒りの声を受けるには非常に不安定な姿勢でした。しばらく彼は、寝床の上で恐怖に縮み上がったまま身動きができませんでした。
「ジミー、それで小さくなっているつもりなの。図体ばかりでかくなって。食い逃げ、盗み食い、残飯あさり。もうあんたは......」
イサオは、ルビカの怒号に驚いてジミーの部屋に駆けつけました。でも、彼はため息をついたものの、手の出しようがありませんでした。イサオの目の前で、気の毒な弟は、小さな母親に怒鳴られて一生懸命にビア樽の体を小さくしようと努力していたのです。ただ彼の努力は側から見ると単に図体のでかいビア樽が震えているようにしか見えませんでした。
ようやく母親の雷がおさまると、彼女はリビングに二人を呼び出し、ようやく最近の心配事を相談し始めました。
「この前、数野園を荒らした奴らは、どうやら房総族らしいのよ」
ルビカは、二人にそう説明しました。
「やっぱりな、房総族か」
イサオはそう言うと、しばらく考えると、何かを思い出したらしく出掛けて行きました。
「ちょっと、いろいろ調べてみる」
その夜、イサオは、林孔明や袁崇燿たちハングレの大人数の協力を得て網を張り、泰一達房総族を発見していました。みつけて仕舞えば、彼らの後を追うことはとても簡単でした。
「イサオ、今、仲間が奴ら数人が集合しながら荒川河川敷に向かっているらしい。どうやら、もうすぐ奴らの集合場所を突き止められるぜ」
「孔明、崇燿、ありがとう。やっと奴らのつるんでいる場所を見つけられた.......。これで奴らを撃滅できる」
「撃滅? イサオ、穏やかじゃないぜ」
「ああ、あいつら、僕の家のブドウ園にちょくちょく来ては、色々嫌がらせをしているんだよ。元々奴らには因縁があるんだけどね。特にその中の明野利美
にね。利美の家族たちは、葛飾に来る前にも僕の家を食い物にしたうえで、追い出しやがったんだ。しかも、この葛飾でも逆恨みをし続けやがって......」
「一人でやるつもりなのか?」
「ああ、時間はかかるが必ず全員をぶちのめす」
イサオは一人で襲撃するつもりだったのですが、孔明は崇燿とともに別の提案がありそうでした。
「それは難しいぜ。一気にたたかなければ、撃ち漏らすやつらが出るぞ」
「ああ、それはそうだが」
「おお、連絡が入ったぜ。奴らは今集結しているらしいぜ。だいたい三十台ほどだぜ」
「じゃあ、俺たちも助太刀してやるぜ。雑魚は俺たちに任せろ。お前は重田と明野を打ちのめせよ」
泰一、利美たちは、その深夜、千住新橋の袂から港北橋に至る河川敷に集まっていました。そこをイサオたちは急襲したのでした。この時のイサオたちは、黒づくめの上下に黒塗りの鉄パイプを手にしており、短時間で全員を打ちのめしていました。
「お前、その顔は明野利美だよな。覚えているぜ。そして、リーダー、お前は重田泰一だろ? あ、お前は大和田正弘とか言ったな」
「お前、イサオ......この野郎」
「へえ、まだ口答えできるみたいだね」
イサオはそう言うと、泰一の顎をしたたかにけり上げました。そのひと蹴りで泰一は気を失って倒れこみました。この一瞬の出来事に、利美たちは震えあがりました。
「も、もう、しません。許して......」
「遅いんだよ」
イサオは容赦なく利美たちのの顎も蹴り上げていました。こうして、イサオはリーダーの泰一ら三人の襟を締め上げると、怒号を浴びせていました。
「いいか、よく聞けよ。次、僕の目の前に来やがったら、容赦しないからな」
その後イサオや孔明たちは、うめき声を上げる泰一たちを置き去りにして、意気揚々と引き上げていったのでした。
「奴には、思い知らせてやる。奴のもっとも大切にしている者をやってやる」
重田泰一は、手ひどい仕打ちを受け、イサオへの憎しみを募らせていました。彼は利美たちととともに、イサオへの復讐を誓ったのでした。
次の日、ジミーは、ルビカから、数野園周辺を荒らしていた房総族が、何者かに叩きのめされて伸びていた状態で発見されたと知らされました。
「そうか、奴らが不審者だったのか。じゃあ、これからも兄さんが活躍しそうだね。そうか、じゃあ僕も、双葉町小学校の門の前で監視活動を頑張らないと」
ジミーはそういうと、一人合点して、張り切って出て行ってしまいました。ルビカは彼の行動を目にしてイヤな予感がしました。
「ジミー、何をやっているって? これ、ちょっとまちなさい」
「あれ、早合点して、一人で行っちゃったよ」
イサオも呆気にとられたが、小学校の門の前に立つことだけであれば迷惑をかけることもないだろうと考えなおし、彼は静観することにしました。
ジミーは、ずいぶん前から、彼の通っていた小学校の校門横で監視活動を続けていました。彼によれば、それは、小学校の校門前で子供たちを見守るためであり、母親を幻滅させていた今までのマフィン食いを挽回するためでした。ただ、その行動は、小学校の関係者にも断らずに始めた独りよがりな行動であり、誰もその場所に見守りが立つことなど聞いておらず、想像だにしていませんでした。
「みんなのために僕は立つ」
最初、ジミーはそう言っているだけでした。ところが、周りが迷惑そうに、また危険を感じて、監視し続けていることを誤解して、変なことを言い出していました。
「みんなが僕を見てくれている。がんばるぞ」
今日もジミーは自信をもって立ち続けていました。確かに、今日まで、登下校する小学生やその家族たちは、みな、校門の横に立ち続けているジミーを注目していました。但し、警戒しつつ注目していったのでした。こうなると、立ち続けているジミーは、どう見ても不審者が小学校の正門付近に立ち続けているとしか見えませんでした。そんな周りの目に気が付いていないジミーは、あまりの注目度に、さらに気を良くしていました。
「みんなが僕を見てくれている。そのうち、称賛されるかもしれない」
小学校に通っている児童たちは、皆ジミーの後輩でした。かつての彼らは、ひょろひょろしたジミーとよく遊んでいました。でも、後輩たちは太った不審者がジミーであるとは知る由もありませんでした。それゆえ、この日、彼は不審者として通報されることにまでなってしまいました。
「あれは何をしに来たんだ?」
「あれは何のために立っているんだ?」
「なにかをうったえているのだろうか?」
「誰かを探しているんだろうか?」
「誰か、かわいい子を探しているに違いない」
「変質者か?」
そうこうしているうちに、誰かが近くの交番に「変質者が立っている」と通報していたのです。そして、ジミーにとって不運だったのは、駆けつけてきたのが複数の婦人警官たちでした。
「あんた、ここで何をしているの?」
「い、いえ、最近、誰かここに居るんじゃないかと思って......」
ジミーは婦人警官たちに囲まれて恐怖に震え始めていました。この姿を見た婦人警官たちは、この仕事はちょろいと考え、さらにジミーにかける言葉をさらに強めて追い込んでいました。
「そうね。ここに居るのは可愛い小学生たちだけだ。ということは、あんたはそれを目当てに来たわけね。じゃ、そこの交番へ来てもらおうかしら」
ジミーは当然ながら完全に追い込まれてしまいました。婦人警官たちは、ジミーがおどおどしたとたんに、ジミーの両手に手錠をかけてしまいました。ジミーは170cmを越えた図体だったので、婦人警官たちは怪しい成人に違いないと思い込んでいましたので、当然こうすべきだろうと考えていたのです。こうして、ジミーは両手に手錠を掛けられたまま交番へと引っ張って行かれてしまいました。
「僕は、数野ジミー。双葉町中学校の一年生です」
ジミーは完全に追い込まれていました。小学校でジミーが苦手だった女性教師たち、婦人警官たち、そして児童たちに対する事件ということで少年課の女性係官までが、ジミーを囲んでつるし上げていたのです。そうしてやっとジミーが話せたのがこの言葉でした。
残念ながらその言葉を、婦人警官たちが信じるはずはありませんでした。それでも、ジミーが話せることはそれしかありませんでした。そこで、念のためということで双葉町中学校に写真とともに問い合わせると、はたして彼の言うとおりでした。また、中学生を検挙した、しかもそれが当該小学校の女性教師たちもよく知っているジミーであったということで、周囲はだんだん大騒ぎになっていきました。
「え、あんたまだ中学一年生なの?」
「え、あの小学校を卒業したばかりだったの?」
「え、見守りのために立っていただけだったの?」
少年課の担当刑事や婦人警官たちは、ことの子細が分かるにつれて、蒼い顔になっていました。そこに、ジミーの母親が慌てて駆け込んできました。
「この度は申し訳ありません。わが家の次男が、なにかしでかしたそうで......」
「いえ、小学校の門の傍に立ち続けていらっしゃったものだから......変質者だと思ってしまいまして......」
婦人警官たちは、きまり悪そうに何か言い訳めいたことを、一生懸命に訴えていました。それを聞いたジミーは、今まで自分が大声で何かを言われていたということだけは理解し、また、周囲の大人の女性たちが声を小さくしてくれたことで安心していいんだと考え、大声でなにやら騒ぎ始めました。
「さっきまで何で大声を出されているのか、わからなかったんだよ。そうか、褒められたんだね。大声で励ましてくれていたのかあ。やっぱり、僕はみんなのために僕は立ったんだ!。みんなが僕を見てくれていたから、頑張ったんだ」
「ジミー、あんたは黙っていなさい」
ルビカはジミーを怒鳴りつけました。ジミーが何かをしでかすとおかしなことになってしまうことをルビカは何度も経験していたので、ジミーに話をさせたくはなかったのです。また、婦人警官たちは、二人の言い合いに、言い訳をするのも忘れて黙るしかありませんでした。そんな大人たちの思いを知らず、ジミーは叫び続けて混乱を増長していました。
「僕はみんなが見てくれているから、立ち続けたんだ。じゃあ、さっき逮捕状を裁判所に請求したってことは、.......表彰?」
「相変わらず混乱しているわね。あんた、監視し続けていたことが問題だって言うのよ」
ルビカはそう大声を出して言い聞かせたつもりでした。だが、ジミーはまた誤解していました。
「監視? そうか、皆も監視していたのか。だから、もうやらなくていいということでここに連れて来られたんでしょ」
「ちがーう。あんたが不審者だから、この警察署まで連れてこられたんでしょ?」
母親はジミーに大声でくりかえしたのですが、ジミーはとうとう理解できませんでした。
「ん? そうなのか? へ?」
ジミーは理解できないままこう言った。それでも彼は母親の剣幕におののいて、帰っていった。
帰宅をして、母親がことの子細を話すと、父はあきれ、兄は笑い転げた。しかし、ジミーにとっては、婦人警官の冷たく厳しい質問の声と、迎えに来た時にジミーに向けられた母親の怒りの顔が記憶に残り、女性に対する恐怖心がより増していました。
それをきっかけにして、ジミーはクラスで格好の話題になりました。同じクラスの男女たちはさんざんに言い笑い転げました。ただ、そこには急に人気者になったジミーとその周りに明るい笑いがあふれていた教室は、ジミーにとってただただ戸惑いを覚える不可解な世界となっていました。
「犯人だって?」
「何したんだよ」
「逮捕されたの?」
「警官のお姉さんにでしょ?」
「どんな理由で?」
「不審者だって?」
いろいろな言われようでしたが、ジミーは......、
「うん」
「こわかったからなあ」
婦人警官の怖い剣幕を思い出して、上の空で応えるだけでした。
ただそれだけならよかったのですが.......。中学二年たちはあまりに愚かしく見えたジミーを校舎裏に呼び出し、格好の餌食として扱おうとしました。
「おぅ、ビア樽一年生」
「お前だよな。小学校の不審者だっただろう?」
上級生たちは、耳にしたジミーの噂をネタに彼をいじり始めました。上級生に恐怖を覚えたジミーは、有効な対応をすることができませんでした。
「あ、あれは......」
「やっぱりこうしてみるとデブの不審者だな」
「先輩たち、何のために僕を呼び出したのですか」
ジミーはそう答えるのが精いっぱいでした上級生たちの扱いは容赦がありませんでした。
「お前を懲らしめるためだぜ。おまえは世の中のばい菌だからな」
「せ、先輩たち。僕はばい菌じゃないよ」
「お前、俺たちにいちいち言い返すのか。一年生にしては態度がでかいな。体もでかい。それなら、お前がどんな奴だか、しっかり教えてやろう。お前デブでバイキンだからな。それではデバイキンと呼んでやろう」
「僕は、デバイキンじゃないよ」
彼らはジミーを年下の格好の餌食としか考えていませんでした。ジミーもこのやり取りで上級生の悪意を肌で感じていました。ただ、いまだに彼は口が立つ方ではありませんでした。
「でかいだけか、木偶の坊だな」
「そう、確かにそいつは僕の弟だ。そして、お前たちは二年生だろ?」
その声は、突然、ジミーと二年生たちの頭上から聞こえてきました。正確には、彼らを見下ろす二階の窓からかけられた声でした。その声を聞いて、二年生たちは腰が引け、ジミーは元気を取り戻していた。中学三年生のイサオでした。
「兄さん」
「ジミー、大丈夫か」
「助けてくれてありがとう」
この二人のやり取りに、二年生たちは戸惑って怒鳴った。
「あんた、誰だよ」
「まだわからないのかよ。弟の名は数野ジミー。ということは......僕の名前は......」
イサオは、二年生たちに、まだいたのかという顔をしながら名乗った。
「数野イサオだよ......三年の......」
二年生はようやく思い出しました。彼らとジミーとの間に立ったイサオは、彼等にも知られた名でした。
「数野......イサオ......さん。でしたか。これは大変失礼いたしました」
二年生たちは平身低頭だった。
二年生の彼らがイサオの名を知っていたのは、房総族撃退のエピソードを知っていたからでした。イサオは、数野園付近に跋扈していた房総族とそのリーダー重田泰一をみつけ、イサオに味方した林孔明とそのハングレ集団によって粉砕していました。その後に明らかになったことですが、暴走族リーダーの重田泰一は数野園に恨みを持つ明間利美を応援する形で、数野園近辺に出没して嫌がらせを重ねていたのでした。
だが、その後も、別の謎の影が跋扈していた。それは、吟遊詩人ユバルでした。ただ、人間たちは彼女の存在とその正体を知る由もないままでした。