時間恐怖症である
人間は年を重ねるにつれて、感覚的な時間が短くなっていくという。確かに子供の頃と現在を比較してみるとなんだか一日が短いような、密度が希釈されているような感覚を受けることがある。時間感覚が変化していくことは果たしていいことなのか悪いことなのか、それとも二分法で語ることのできない神秘を秘めているのか。なんて大げさなことを言っている間にあっという間に時間が過ぎて行ってしまった。時間などはもとより存在しなかった代物で、人間が勝手に作り出した概念なのに、今では社会を回すために必須の要素として我々の生活に浸透している。時間は社会と密接に関連している。時間を守れなければ、ダメなソルジャーのレッテルを張られて社会から放逐されるなんてこともある。時間にがんじがらめにされた我々は時折、何かに没頭して時間の束縛を逃れようとする。時間という桎梏からの解放の形は人それぞれ、映画鑑賞、カラオケで熱唱、ひたすら惰眠を貪るなんてのもあるでしょう。私は最近、時間というものが怖くてたまらないのだ、定刻になれば電車がやってきて、8時になればチャイムが鳴り、すべてが時間によって均質に整えられていく。時間という存在は我々の社会にあまりにも馴染みすぎている。それ故にもう見えない概念となりつつある。人間は未知の存在に対して恐怖を抱くという。すなわち、我々の生活に溶け込んだ見えない時間は少なくとも私にとっては幽霊にも等しい存在であると言っていいだろう。幽霊は日が暮れた夜に潜む存在であるであるのに対し、時間は文字通り、いつ何時、私の前に姿を現すのか分からない、もしかしたら今も背後に潜んでいるのかもしれない。私にとって、時間と対峙するのは恐怖であり、大変苦労を伴うものである。今は時間を忘れてただひたすらにこのお布団タイムを享受したいところだ。土曜日に誤って目覚まし時計をセットしてしまって、なんだ今日仕事ないじゃんの後の睡眠が至福であることはいうに及ばず。その至高は時間という存在を前提とした快楽であることは言うに及ばず。