4話 スキルブック
とにかく、その神は図書館など本が溢れている場所にスキルブックをランダムに配置したり、ビー玉がたくさん詰まった箱…、なぜビー玉が詰められた箱なんぞがあるかは作中でも明かされてないので理由がわからない、スキルの宝珠をランダムに配置していて、それは鑑定スキルのある人が見るとわかるように出来ている。
こんなやり方でスキルレベルが上がるなら図書館司書や学者は全員高いステータスになるんじゃないかって話だけど。
結論から言うとそうはならない。スキルブックでスキルが上がると意識していないと夢をみてもスキルを上げるという発想自体が思い浮かばないから。
みんな図書館に入り浸るようになることもない。
そもそもスキルシステムがこの世界にあることをこの世界に住むほとんどの人間は知らないのである。
そしてスキルブックに何の効果があるのかもスキルブックを読んだ人もよくわからない。一度最初から最後まで読まれるとスキルブックとしての効果も消える。
ちなみにビー玉は飲み込むものになっている。
ただこの鑑定スキル。これはスキルの中でも例外的な立ち位置にあって、才能の神が落とした羽、というアイテムを装身具に加工して持ってると使うことができるのである。見た目は普通の羽よりはかなり大きいので、区別はつくけど一般人は見ただけではわからない。
どこかに落ちているという話もある。主人公たちはなぜか全員それを持っていたけどどこで手に入れたのかの話までは描写されていなかった。
けどうちには商人が入り浸る。貴族の屋敷だから行きつけの商人がいるわけである。お小遣いでかなりの金額をもらっている。平民の3か月分の給料くらい。日本円で換算すると60万円くらい。
これでドレスとか装身具とか買えばいいという話だけど、そんな無駄遣いをするくらいなら必要なアイテムを早めに入手したほうがいい。
その中には当然あの大きな羽もある。
それを手に入れたら言い値で買う。
いくらでも出す。
なんて、いかにも何かありそうな話をするわけにはいかない。
年相応に、夢で天使の羽を見て、それに似た白くて大きな羽がないのかと聞く。探してみると商人は言っていた。
ただそれまで何もしないわけにはいかず、私は合間にスキルブックがどこにあるのかもわからないので帝国図書館に行って片っ端から読みふけた。
馬車で10分ほどでたどり着ける距離にある。
本を読むのは前世の平凡なオタク女子だった頃から好きだったし、この世界のことを知る機会でもあったので読むことに苦労をすることはなく毎日3冊から5冊まで読めた。朝から午後の1時半くらいまでレッスンがあって、1時半に昼食を取り、そのまま図書館へ。屋敷内にある本は一か月ほどかけて全部読んだ。父はあの性格だ、読書家でもないので家には書斎なんてものもなく、執務室というか、そんな場所に本棚が二つあって、そこに百科事典とか、政治の本とか思想の本とかが並んでいる。
家には一冊もなかった。最初から期待はしていなかったにせよ少しがっかり。
それで図書館に行ったら三冊目であたり。その日の夢に出た。自分が持ってる20ほどのスキルの中で一つを選びあげることができる。私は迷わず体術を選んだ。そこは闇魔法じゃないのかって話だけど。
体術と剣術を20までは上げてから闇魔法を上げようと思っている。それはなぜか。いくつかの理由を述べるけど、最も大きな理由は低いままの体力パラメーターを上げたいから。体力値を上げると行動時間が増えるし、疲れにくくなる。つまり読める本が増える。効率を極めた状態で次の行動に移す。これはゲーマーの基本である。
それで3か月にかけて300冊ほど読んだところで体術と剣術が二つとも20まで上がった。平均的な成人の兵士が体術6剣術5くらいなので、私は平均的な成人の兵士を軽く圧倒できるということになる。
筋力もスキルと比例してかなり上がってる。親指と人差し指だけで金属のコインを半分に折れる。みんなこれを知らないので頑張って体を動かしている。ゲームのように一か月鍛錬したところで上がるものでもないようで、それなら軍隊がもっと強くなっているはずだけどそうでもないからだ。
ゲームならではのご都合機能だったんだろう、現実だとこんなものである。
ただ3か月経ってもまだ商人から大きな羽に関しての話は聞くことができなかった。
それと午後にもレッスンが入るようになったのだ。午前中は礼儀作法と算術、歴史。午後はダンスと歌、基礎魔法。
どっちも決められた時間の中で行われるもので、目標をがあってそれをクリアしたら終わりという風には出来てない。
なので外出の時間がかなり減った。幸い体力を上げているおかげでそこまでつらくはなかった。
実際に3歳の子供こんなことさせると普通に精神が病むだろう。あの虚ろな目をしていた作中のタイグリッサのように。
何をするにせよ人がやることは自分で楽しみを見つけないといけないようになっている。それが脳の仕組みだ。楽しくないものをやらせるなら対価を用意して脳を騙す必要がある。ドーパミンを追っていくのである。
それができないと脳に異常をもたらす。根性論やら罰を与えることなどで子供を強制的に働かせると脳は物理的に中で細胞を壊して異常の脳を作る。精神疾患の原因がわからないとよく言ったものだ、ドーパミンを追跡するように、自らが動くように出来てない脳はすべてどっかで壊れていると言える。
まあ、それがわかっていたらあんな平和ボケしているのに中途半端な暴力が蔓延した社会なんぞになっていなかっただろう。マフィアではなくとも1960年代から80年代までのアメリカでは銃による暴力や都心部での喧嘩による殺害はしょっちゅうで、それこそただ歩くだけで殺されるとかざらにあったわけだ。
そうなった理由はいろいろあるけど、要するに暴力は暴力として成り立っていて、徐々にエスカレートして行った。
日本はそうはならない。いつまでも中途半端な暴力のまま、地味に互いを削りあう。罵声や殴りで。殺されることなんて滅多に起きないものだから、我慢する人は必ず我慢し続けるものだから、エスカレートしても最後は自殺で終わる。たまに残虐な事件が起きたりするが、それはそこまで衝撃的なものかと疑問に思う。社会なんぞ服を着た喋る猿が集まってるだけだ。
そんな中で獣性を積極的に出さない方がどうかしている。
アメリカの60年代を経験していた私からしたら、それはとてもいびつに見えた。
何も外に出ることなく、ひそかに死んでいくのである。
社会がそれを改善しようとする意思がないのに、暴力は一定の場所から這い上がることなく潜んでいる。家庭内に、学校内に、会社内に。
外へ出ない暴力は地味に蓄積されて、無数の小さな切り傷が刻まれるわけだ。
被差別対象の黒人とかそうだった。