年号"S"は遠すぎる(前)
廊下の水場でティーカップとポットを洗い、部室隅のワゴンにもと通りしまった。窓の向こうでは、茜色に輝く陽光にも徐々に陰りが濃くなっている。
俺たちもそろそろ本日の部活動を終えることにして、帰宅準備にとりかかった。安双が残していった大量のノートは、持ち帰らずそのままテーブルに積んでおくことにした。部室で保管するにしてもどこにしまうべきか、後で考えねばならない。まったく、厄介なものを置いていってくれたものだ。
「それで兄さん、何がわかったのですか」
通学用のリュックに筆記用具や文庫本をしまいこみながら、こともなげに小夜乃が聞いてきた。
「…何のことだ」
「さっきの安双さんの話を聞いて、兄さんはすでに何かに気づかれているのでしょう?それが消失事件の真相なのかまでは、私にはわかりませんが」
相変わらず、小夜乃は不意打ちが上手い。同時に、俺の心理を見抜く名人でもある。ここまでくると、もはやテレパスの域ではないだろうか。
「それは、私も知らない方がいいようなことですか?それならば無理に聞こうとは思いませんが」
今月初めの一件(※)以来、我が妹も少し変わったようだ。以前だったら真実の探求を至上命題と考え、“無理に聞こう”としてきたのではないだろうか。今の彼女には真実の危うさを警戒するだけの慎重さが加わったようにみえる。1年前、己の限界を思い知らされた自分と、目前の妹が瞬時重なった。
「…そんな大げさな話じゃないさ」
今回の件に関しては、小夜乃の懸念は杞憂である。俺は元々、自分の考えを妹に対して無理にかくすつもりはなかった。積極的に開陳しなかったのは、単に面倒だったからである。
いや、そもそも小夜乃に対して秘すべき事柄など、もはや俺は持ちあわせていないのだ。生涯かくし通さねばならない唯一の秘密は、この春先にあっさりと露呈してしまっているではないか。
「たしかに安双さんの話を聞いて、思いついたことはある。ただこれは例によって、何の確証もない想像に過ぎないからな?」
「はい、弁えています」
そう返事する声には、全幅の信頼がみなぎっていた。どうも調子が狂う。
「それじゃあまずは、プールについてだが」
俺は気を取り直して、そう切り出した。背負った通学リュックをいったんテーブルの上において、椅子に腰かける。小夜乃にも座るよううながした。この話が終える時刻まで帰宅をのばしても、日が沈みきることはないだろう。
「番長の長ランが浮かんでいたという、あのプールですか?」
「ああ。そのプールは当時、学校のどの辺にあったと思う?」
安双の話の中には、プールの具体的な位置は出てこなかった。テーブルの上のノート群をめくっていけばどこかには書いてあるのかもしれないが、今からそんなことをする気にはとてもなれない。
「さあ、私には見当もつきません…兄さんはどこか、思い当たる場所があるのですか?」
「この旧本館の裏で、今駐車場になっているスペース。あそこは元々、屋外プールが置かれたスペースだったんじゃないかな」
旧本館裏の古びた、さびついた風景の中で、そこだけ比較的新しくて浮いている印象を見るものにあたえる駐車場。先ほども言ったとおり、あの駐車場も単独でみれば、決して真新しいといえる代物ではない。乙の話では、プールが事故で取りこわされたのは今から10年ほど前ということだった。直後に、プールが撤去され空いたスペースに代わって駐車場が設置されたとしたら。50年前の創設時からほぼ変わらない風景の中に、竣工されてまだ約10年の駐車場が混じれば、やたら“新しく”見えて目立つのも納得できる。
「なるほど、その可能性は十分あるかと思いますが…でもそのことと、番長が消えたこととはどう関わってくるのですか」
「安双の話では、番長を追いかけて階段を下っていた時、踊り場の窓は開きっぱなしだったということだった。これにあの駐車場の場所にプールがあったという条件がくわわれば、この七不思議とやらに説明をつけられるのさ」
小夜乃はまだ要領を得ない顔をしている。
「俺たちはオカルト研じゃない。本当のところはどうか知らんが、まずは幽霊なんてものは存在しない、という前提に立って話を進めるぞ」
「その点は異存ありませんが」
「だとしたら。階段で4階から1階に下りたはずの番長が、昇降口までの間のどこにも見当たらず、外に出た形跡もない。昇降口をこえて廊下の向こうへ走っていった可能性もない、と安双は断言している。足音が1つだったという話を信じれば、階段途中で別人に入れ替わったということもないだろう。かくれる場所はどこにも存在せず、1階にいた人間に聞き込みをしても目撃者が出てこない。さらに階段途中の窓から飛び降りたという可能性もゼロとするのなら、結論は1つしかない」
「それは?」
「番長は、1階で安双たちが会った人間の誰かだったのさ」
ミステリ風に言えば、”早変わりトリック”が使用された、ということにでもなろうか。
「俺の考えはこうだ。“番長”というのは元々、校内の誰かが、不良に変装して演じていた存在だった。その人物は、普段は不良たちとはほとんど接点も持たず、全然違う恰好で生活していたんじゃないだろうか。普段の自分と校内に名をとどろかせる“番長”が同一人物だとは、その人物は気づかれたくなかった。だからツッパリ仲間に名前を聞かれても、かたくなに教えることを拒んでいた」
当時のツッパリたちは日常的に授業をさぼり、己のクラスに顔を出すことが滅多にない者もめずらしくなかったという。そのような状況下で、不良以外の人物が架空の不良になり済ますことは、必ずしも不可能ではないだろう。要は放課後だけ不良達の前に顔を出して“番長”を演じればよいのだ。
「その人物は安双に尾行されていた時、階段を降りながら”番長”の仮面を解いていたんじゃないか。そこに後ろから物音が聞こえ、自分がつけられていることを悟った。今自分の姿を見られたら、正体がバレてしまう。階段の上で仮面を脱いでしまった手前、すぐには“番長”に戻れない。後ろで声を挙げた尾行者は、すぐにも自分に迫ってくるかもしれない…あわてたその人物は、階段をかけ降りながら”番長”の変装を解除しきることを選択した。おそらく2階と3階の間か、1階と2階の間の踊り場に到着するまでには長ランを脱ぎ終えていて、開いていた窓から放り投げたんだ。そんなものを持ったままだと自分が番長だと知られてしまうからな。そして放り投げられた長ランは、校舎裏のすぐそばにあったプールの中に落ちた」
先ほど踊り場の窓から顔を出して眺めた光景を思い出す。すぐ目の下に、駐車場の白さが映った。当時あの場所がプールだったとしたら、窓から長ランを投げても十分にとどく距離だろう。
「そうして変装を解き終えた番長は1階まで降り、別人として何食わぬ顔で安双たちに会ったんだ」
ここまでくれば、番長に扮していた人物を、消去法で絞ることはさして困難ではない。
「まず女子は除外していいだろう。当たり前かもしれないが、なお厳密な根拠を求めるなら、番長は放課後たまに上半身裸になって子分たちと相撲を取っている場面が目撃されている。麻生はそれを見た上ではっきり"男らしい"と言っていたのだから、番長が性別を偽っていたとはまず考えられない」
女性が変装して男性のふりを演じるというのはフィクションでは王道だが、この場合は考慮から外していいだろう。また男が普段は女装して学園生活をおくっていた、という可能性も無視する。常識的に考えて不可能だろうと思うだけでなく、己が番長であることをかくすためにわざわざ性別を偽る必要性が認められないからだ。
「それでは、調理室にいた後藤という生徒が番長なのですか?安双さんが1階であった男子生徒はその人だけのようですし、後藤さんはその時マスクと眼帯で顔をかくしていた…」
「違うな。安双の証言では、木村はいつも番長の顔を横から見上げていたそうじゃないか。ところが後藤に対しては、相手が直立不動の姿勢にもかかわらず見下ろすようにして質問を浴びせたという。これでは身長が違うから、番長と後藤は別人だ」
「でも、それじゃ…」
「なにも俺は、番長の正体が男子生徒だとは言っちゃいないぜ。安双の話の中にはあと2人、1階であった男が出てきただろう」
小夜乃は驚いたように眼を見張った。俺が何を言いたいのか察したようだ。
「それでは兄さんは、番長を演じていたのは”生徒”ではなく”先生”だったと?」
「成人男性が高校生男子を演じるというのは、必ずしもむずかしいことじゃないさ。さっきまでいた乙の老けづらだって、制服じゃなくスーツを着込んでしまえば、若手公務員と見分けがつかないだろう。ならその逆だってできるはずだ」
とはいえ、40なかばの体育教師が高校生のふりをするのはさすがに無理があるだろう。いかに番長が強面で知られていたとしてもだ。
「くわえて、生徒指導の田所はヘビースモーカーでつねに身体中からヤニの匂いを発散させていたらしいが、これは番長の特徴と矛盾する。番長は不良にもかかわらず煙草は一切吸わず、「まったく煙草の匂いがしなかった」という証言があるからな。煙草の匂い、とくに長年身体に染みついたような匂いは、即席で取ったりつけたりできるようなものじゃない。田所が番長に扮していた可能性は、排除していいと思う」
「では、番長の正体というのは…」
「化学教師の浪川だろう。新卒の教師なら、多めに見積もっても年齢はおそらく当時20代前半からなかば、高校生に扮することだってできたはずだ」
「あごを覆う髭や長髪という、浪川先生の特徴は」
「つけ髭にカツラだろうな。眼鏡をかけていたのも、面相をかくすことが主目的だったろう。それらは普段から長ランの裏にかくし持っていたんだと思う、いつでも即座に”番長”から教師にもどれるように」
安双たちが職員室に入ったとき、浪川は机に向かって必死にペンを動かしていたという。おそらく問題の日、早急に採点しなければならない試験の答案でもあったのではないだろうか。放課後、その存在を失念して番長のふりをしていたが、ふとした弾みに思い出し、あわてて溜まり場を飛び出して職員室に向かった。あわてるあまり、階段を降りながら長ラン内側にかくし持っていたカツラやつけ髭、眼鏡を取り出し、その長ランも脱いで番長から教師にもどった(装着物をつけることを"もどる"と表現するのも奇妙だが)。最初安双や木村が聞いた番長の足音がゆっくりめに階段を降りていっていたのは、降りながら”教師”の姿になる作業をおこなう羽目になったため、急ぎつつも慎重に足を運ばねばならなかったせいだ。
そこをタイミング悪しく安双たちに追跡されてしまった。教師の姿に戻ったかあるいは戻りかけた段階だったので、相手の前に姿をみせて恫喝するわけにもいかなかった。後方で音を立てた追跡者がいつ自分に駆け寄ってくるか知れたものではなく、再度”番長”に扮する時間的余裕があるのかは極めて危うい。少なくとも、浪川当人はそう考えた。扮装途中を目撃されてしまったら、それこそ一巻の終わりだ。
パニックにおちいりながら、浪川は階段を駆け下りて1階職員室まで逃げ切る道を瞬時に選択し、実行にうつした。その際、邪魔になった長ランを開きっぱなしだった踊り場の窓から外に放り投げ、それが偶然プールの水の上に浮んでしまったというわけだ。そして結果的に、この一件にさらなるホラーじみた味付けを加えることになってしまった。
「当初の、追跡されていることに気づく前の浪川の目論見では、学ランは職員室にもどる前に1階東端の倉庫にでもかくしておくつもりだったんじゃないかな。教師陣はその時点では鍵穴にガムが詰められて倉庫が開かなくなったことをしらないし、ひょっとしたら浪川は普段から変装する場所としてそこを利用していたのかもしれない。倉庫の鍵は職員室の壁に普段からかけられていたというし、人の目を盗んで密かに合い鍵をつくることもむずかしくなかっただろう。合鍵は常時、ズボンのポケットにでも入れていたんじゃないか」
安双たちが職員室に入った時、浪川の服装はYシャツに黒のスラックスだったという。おそらく普段から長ランの下はそのような出で立ちでいたのだろう。うちの男子の指定制服は当時から詰襟に黒いズボンだ。長ランさえ羽織ればいつでも番長になりきることができ、逆に長ランを脱いでしまえばいかにも”新米教師”風の堅実な装いに様変わりできる。
不良の中にあって改造もしていないフォーマルなズボンは浮いてしまいそうなものだが、それも上から長ランで隠してしまえばほとんど目立たずに済む。周囲も長ランに意識がいって、ズボンまで意識されることもなかっただろう。番長が6月末という蒸す季節、一般生徒も開襟シャツが当たり前となる時期になおも暑苦しい長ランを着用し続けていたのには、そのような理由もあったと思われる。
「安双さんが質問した時、田所先生は「誰も職員室には入ってこなかった」と証言していますが」
「安双たちは「生徒を探している」とはっきり言っている。田所もまさか追跡対象の正体が”教師”だとは思いもしなかったのだろう。それに「さっきから自分たち3人以外、誰も入ってきていない」という証言は「自分たちの1人は、直前に入ってきた」という事象とは矛盾しない。田所は何も意図的にかくしたわけじゃなく、ありのままを言ったつもりだったと思う」
この時の浪川は、職員室に残った教師にとってはまさに”見えない男”だったわけだ。
「でも、学校の先生が生徒に化けて不良たちのトップを演じるなんて…時には殴り合いのけんかまでして、何故わざわざそんなことを」
「まあここからはますます俺の勝手な想像だが…多分、学校の風紀を正すためだ」
自分でも、随分倒錯したことを言っている自覚はある。しかし順を追って考えていくと、それが最も自然な結論となるのだ。
※…『くれぐれも誤解のないように―米丸兄妹シリーズ①―』参照