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エピローグ

「あら、あなたたち、まだ残ってたの」


 俺と小夜乃(さよの)が旧本館の夕暮れにそまる廊下を肩をならべて歩いていると、声をかけられた。


 前方の薄闇から小柄な体格をあらわしたのは、白石(しらいし)文代(ふみよ)教諭だった。先ほどの安双が語った話にも出てきた、音楽の先生だ。”消えた番長の怪”について聞いてからいくばくも経たぬうちに関係者の1人、それも当時から学校に残っている唯一の人物に、意図せず出くわしてしまった。あまりのタイミングに、俺は目を見張らずにはいられなかった。


 安双の現役当時は若く美人で男子生徒のあこがれの的だったらしい白石先生も、現在では定年を間近にひかえたご年配だ。ショートの髪は黒よりも白の割合が多く、身体も小柄で頭のてっぺんが俺のあごくらいまでしか来ない。服装は黄色のスウェットに亜麻色のチノパン、といういたってラフなものだった。


「随分おそくまで活動していたのね。熱心なのもいいけど、程々になさいね。いくら日が長くなったからって、外はもう結構暗いわよ」


 白石こそこんな時間の旧本館で何をしているのかと思ったが、この建物内を使用しているどこかの部で顧問をつとめているのかもしれない。4月に部室の割り当てが変わったばかりで、俺も旧本館内の雑多な文化部連中の全容を把握しているわけではない。たしか音楽関連の部、“民族楽器研究会”とかいう法螺貝(ほらがい)やケーナの演奏にはげんでいる奇特な部(探研も他所からはそのように見られているんだろうな…)なども入っていたから、そのあたりかもしれない。大方、解散して部員を見送った後、建物内の見回りをしていたというところか。


 いずれにせよ、この偶然の邂逅(かいこう)と七不思議を無理に関連づける必要はないだろう。


 白石は”おだやかなおばあちゃん”と、生徒の間では評されている。今も本気で叱ったわけではなく、声色はやわらかかった。そのまま素直に頭をさげれば、難なく解放されたことだろう。


 しかしこの時、俺はそうしなかった。


「あの、白石先生、ひとつ聞いてもいいですか」


「ん、何?」


「昔この学校にいた、化学の浪川(なみかわ)先生という人を、覚えています?」


 俺が教師に対して質問をするなんて、いつ以来だろう。しかも今すぐ、是が非でもきかねばならない類のものでもなく、それどころか、返答をきいたところで何ら意味があるとも思えない質問だ。バカげたことをしている自覚はあったが、それでもこの時はそう問わずにはいられない心境だった。


「化学の浪川先生…?」


 俺の唐突な問いに、当然ながら最初白石は困惑したようだが、すぐに思い当たったらしく胸の前で両手をあわせた。


「かなり前だけど、そんな先生もたしかにいたわね。懐かしいわあ。でもなんで、そんな先生のことを知っているの?あなたが生まれる何年も前に、この学校からいなくなった先生なのに」


「いえ、まあ、ちょっと…その先生は、白石先生からみてどんな人でした?」


「どんな人と言われてもねえ。私自身、一緒に仕事をしたのは数ヶ月くらいだったから、あまりよく覚えていないわ。若いのにもじゃもじゃのあご髭なんかたくわえていたから、顔はとても印象に残っているんだけど」


「数ヶ月…ということは、赴任してきた年のうちにはもういなくなったんですか」


「浪川先生は新卒の先生としてうちに赴任したんだけどね。その年の1学期が終わった頃、突然県外の高校へ異動することになったのよ。教師の年度途中での異動なんて普通はないことだから、おどろいたわ。急に決まったことだったみたいで、満足に送別会も開けなかったのよ、たしか」


 白石は過去へと延びる記憶の糸をたぐるように、宙に瞳をさまよわせながら答えてくれた。答えながら、本人の記憶も刺激を受け鮮明さが増してきたようだ。


「そうそう、熱心でユーモアもあって、生徒たちの人気も高かったわね。休み時間には何人もの生徒に囲まれて談笑している姿を、よく見かけたわ。そんな良い先生が、1学期だけで異動になる知った時は随分びっくりしたものよ。特に問題行動を起こしたとも聞かなかったし…あれは一体、何だったのかしらねえ」


 最後は独り言のようにつぶやいて、白石は首をかしげた。長い年月を経ても彼女の中でその疑問は氷解されていないようだが、俺はおそらくその答えをにぎっている。当時の校長が、教育委員会や人事課に根回しして、共犯者を遠くへ放逐(ほうちく)したのだろう…


 しかしそれは、いま口にしても意味のないことだった。


「いや、ありがとうございました。引き留めてしまってすいません。俺たちはこれで失礼します」


 若干早口にそうあいさつしてしまうと、俺は早足で廊下をあるきはじめた。ちらと振り向くと、小夜乃が兄の非礼を補填(ほてん)するかのように白石に向かって深いお辞儀をしていたが、やがて切り上げると俺の後に続いた。


 背中から少しの間老教諭の視線を感じたが、結局何も問われなかった。すぐに俺たちと反対方向へと、廊下を歩いていく足音が聞こえてきた。


 俺たちは東端の階段にさしかかった。先刻俺が安双とともに昇ってきた階段であり、おそらくかつて1人の化学教師が長ランを窓から放り投げたであろう階段だ。


 薄暗い階段を注意ぶかく降りながら、俺は口内に苦いものを感じていた。白石に確認をとることは、自分の想像に傍証をあたえることになった。それは気分のよいものではなかった。


「浪川先生は」


 少し後ろから俺について階段を降りていた小夜乃が、ふいに語りかけてきた。


「どうしてそんな無茶な真似をしたのでしょう。やはり校長先生に強制されて逆らえなかったのでしょうか。それともなにか、弱みをにぎられていたとか…」


 それは俺に語りかけるというより、自然と口をついて出た独り言だったのかもしれない。声の響きはどこかおぼろげで、やりきれなさを含んでいた。それでも俺は、妹に応えた。


「それは違うと思うぞ」


 明確な根拠があっての言葉ではない。ただ学校の権力者である校長が新任教師の弱みをにぎり陰謀に巻き込む、という図式は一昔前の安っぽいドラマのようで、どうにも現実感が湧かないのだ。ましてこの場合、巻き込む"陰謀"というのが極めて突飛で、馬鹿馬鹿しくさえある。


 それよりは、荒れる校内の状況に悩む校長が冗談半分で持ちかけた提案に、怖いもの知らずの新任教師が喜々として乗った、という流れの方がよほどありそうに思える。校長も当初は、そんなプランが上手くいくと本気で考えていたか怪しい。おそらく精神的に追い詰められ、(わら)にもすがる思いだったのだろう。


 いくら年齢が上とはいえ荒れ狂うツッパリたちをねじ伏せたほどだから、浪川は元々腕力に自信があったに違いない。ひょっとしたら、学生時代は自身がツッパって教師の手を焼かせていた側だったかもしれない。そのような前身に目をつけ、校長が己の企ての駒に抜擢したということだって大いにあり得る話だ。在任中生徒たちからの人気が高かったのも、型にとらわれない奔放(ほんぽう)さが魅力として機能したゆえではないだろうか。


「そんな先生だったら”番長”と教師の二重生活を結構楽しんでいただろうし、学校を去る際も案外サバサバしていたかもしれないぜ。悪戯(いたずら)がばれちまったんならしゃーない、程度の感覚でさ」


 小夜乃の気をまぎらわせるために組み立てた推論である。希望的観測が多々混じっているのは俺も妹も承知の上だ。それでも小夜乃は、力強くうなづいた。


「…そうですね。ご本人のことを知りもしないのに無闇に同情しては、かえって失礼ですね」


 正言である。浪川が飄々(ひょうひょう)と学校を去ったとは保証できないが、同時に悲嘆にくれていたとも限らない。遠い過去に空想だけで勝手に思いを馳せて哀れむのは、その行いを非難するのと同じくらい僭越(せんえつ)だろう。


「それに…正直、俺は浪川がうらやましい気もする」


「え?」


「一時的とはいえ、自分とはまったく違う別人になりきることができたんだから」


 ちょうど踊り場に差しかかった。開いた窓の向こうにひろがる暮れなずむ町並に眼をやりながら、俺はそんなことを口走っていた。


 それこそ、浪川が”番長”を演じていた最大の動機ではなかったか。自分以外の何物かになりたいと思う変身願望。それは人間誰しもの心の中に、潜在的に存在する夢想ではないだろうか。


 新米の教師が番長を演じていた可能性に思い当たってから、俺は脳の片隅でひとつの空想を追いはらえずにいた。俺と小夜乃が名前を変え、誰も自分たちを知らない土地へとおもむく。”兄妹”という実態を捨て、”恋人”あるいは”夫婦”という仮面を被り、生涯をともに過ごす。そんな空想…


 もちろん現実にそんなことができるはずはないし、以前も言ったとおり()()()()()小夜乃も俺にとってかけがえのない存在である。だから本気で兄妹という関係を捨てたいと思っているわけではないが…一方で、そんな益体(やくたい)もない空想に魅せられてしまう自分も、たしかにいるのだった。


 俺は会ったこともない過去の化学教師に、嫉妬さえ覚えていたのかもしれない。


「何をおっしゃるんですか」


 小夜乃はあきれたような声をあげ、俺の感傷を振り払った。


「兄さんらしくありませんよ。自分でない誰かになるなんて、そんな面倒なことはお嫌いでしょうに」


「…お前は思ったことがないか?自分以外の誰かになってみたいと、夢想したことが」


「兄さんは、今の私に不満でもあるんですか」


「そんなもの、あるわけないだろ」


 即答してしまった。我知らずはげしい語気となり、やや遅れて顔が熱くなった。


「なら、私は今の私のままで十分です。だから兄さんも、兄さんをやめようなんて思わないでください」


 小夜乃はいつの間にか、俺を追い抜いていた。目下の段上で一度立ち止まり、こちらを振り向くこともなくこうつぶやいた。


「でないと、私が困ります」


 言うだけ言って、さっさと階段を降りて行ってしまう。心なしか、速足になっていたようだ。


 俺は頬をかき、少しの間固まっていた。素でああいうことを言ってしまうのだから、やはり妹には敵わないと思った。しかし他ならぬ小夜乃が望むのなら、仕方がない。俺はさしあたり、今の自分に満足すべきなのだろう。


「何をしているんですか、はやく帰りましょう。ほんとに暗くなってしまいますよ」


 階下から小夜乃の急かす声が聞こえてきた。俺は無駄に頭をはたらかせるのをやめ、かわりに足を動かして階段を再び降り始めた。俺には過ぎた妹兼想い人の少女が、夕暮れの校舎に消えてしまわないうちに、追いつかねばならなかった。



(了)

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