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9 ~姿を見せない子猫~

 どんよりとした暗い雲の下、ジメジメとした空気が包むテラス席で、つい先ほどまで使われていたグラスを下げる冬弥。手が滑ってしまいそうになるほど濡れたグラスが、湿度の高さを物語っている。穏やかなものであった風も徐々に強まり、午前の間は汗ばむ気温であったのに、今では腕まくりしたシャツをつい伸ばしてしまいたくなるほど急激に気温が下がってきた。


「そろそろ降り始めそうだな」


 冬弥は急ぎバッシングを終わらせると、カウンターにいる彩に声をかけた。


「あの、休憩入る前に外だけまとめてきます」

「助かるわ。よろしくね」


 再びテラス席へと戻ると、パラソルを閉じて抜いていく。端に運んでから、まとめてビニール紐でくくる。テーブルも隅に運び、イスと共にぐるぐる巻きにしていく。

 ほかに飛んでしまいそうなものがないか確認し、どうやら大丈夫そうであることが分かると、テラス席への扉に鍵をかけ、店内へ戻る冬弥。


「冬弥君、ありがとう」

「いえいえ」


 額に浮かんだ汗を腕で拭いながら戻ってきた冬弥を、彩が労う。

 カウンター横の手洗い場を使って土汚れを落とすと、冬弥は更衣室へと向かう。


 そう、今日はついに台風がやってくるのだ。


 数日前からニュースは大型台風の話題で持ちきりであった。今日昼過ぎから雨が降り始め、明日の午前には暴風域に入るそうだ。ここ数年で何度目か分からない、10年に1度の規模と謳われているそれは確かに大きな勢力をもって近づいてきているらしい。


 あの子猫は大丈夫だろうか。

 冬弥は私服に着替えながら、今日はまだ見かけていない子猫を案じる。


 1階に降りると、彩がグラスを磨く手を止め冬弥へ話しかける。


「ねぇ冬弥君。あの子猫ちゃん大丈夫かしらね?」


 彩は、何やら含みのある笑顔で冬弥を見つめる。

 冬弥は、意図することが分からないまま返答する。


「そうなんですよね。心配です」

「あら、優しい誰かが保護してあげるっていう選択もあるんじゃない?」


 考えていないことではなかった。子猫と過ごす毎日の中で、小さな家族と過ごす幸せな日常を想像しない訳がなかった。最後に切ない別れがあったとしても、それ以上の癒しが胸をいっぱいにしてくれそうな気がしているのだ。昔飼っていた猫の想い出が重なるのが少し辛いが、新たな出会いを、わが家へ迎えるのは、正直あり寄りのありなのである。

 しかし残念なことに、冬弥はペット不可物件に住んでいたのだった。


「うち、飼えないんです……。そうだ、お店で保護するのはどうで――」

「一応飲食店だからね、ごめんなさい」

「そう、ですよね……」


 今時猫カフェだって珍しいわけじゃないのだから……いや、店の作りからして違うか。看板猫は……いきなり猫を飼い始めたら、お客様が戸惑うか……。冬弥は自身の提案に確かに無理があったことを理解すると、素直に引き下がる。いや、引き下がるしかなかった。


「一時保護って形なら、大家さんも納得してくれるんじゃない?」

「まあ確かに、あの大家さんなら駄目とは言わないと思うんですが」

「なら、いいじゃない。ごめんね、引き留めて。休憩行ってらっしゃい」

「はい、行ってきます」


 どうしたものかと、頭に手を当て難しそうな顔をして、店外へ出る冬弥を、彩は楽しそうに笑い手をひらひら振りつつ見送るのであった。




 ▼▼▼




「おーい、どこにいるんだー?」


 冬弥は木々の茂みを覗き込んで、なじみの顔を探す。店の外構回りも探したものの、どうにもみつからない。

 しばらく探し回っていると、ぽつりぽつりと雨が降り始めたため、冬弥はそれ以上の捜索を辞めることにする。


「雨、大丈夫かな」


 冬弥はどうにか子猫が雨風を十分にしのげる場所を見つけていることを祈りながら、店へと戻る。


「どう? 子猫ちゃんは居た?」


 彩がカウンターに肘をつき、顔を少し傾げ、手の甲に重ねながら尋ねてくる。少しずらした眼鏡と合わせると、なんとも気だるげな、不思議と色気のある仕草であったが、子猫の避難場所で頭がいっぱいの冬弥はまったく意に介さず返答する。


「見当たりませんでした。少し心配です……」

「そうよねぇ」


 彩は自身の姿が全く視界に入っていない様子の冬弥に軽くため息をつく。


「まぁ、閉店までにひょっこり現れるかもしれないし」

「そうですね」


 冬弥は一時保護することがすでに決定事項となっている彩に、少し頭が痛くなりながら、仕事へと戻るのであった。


 本格的に雨風が強くなる中、閉店時間を迎えると、店に用意してあるレインコートを着て外へ向かい、立て看板を店内に戻す冬弥。もちろん、辺りを見渡し子猫が助けを求めていないかよく確認する。が、どうやらここへ助けを求めには来ていないようであった。

 姿が見えない以上、ただ雨に打たれていても、何も出来ず、何も変わらないのである。


 冬弥はただただ子猫の無事を祈りながら、その日の仕事を終えた。




 ▼▼▼




 台風一過。空は晴れ渡り、終わったかのように思っていた夏が、再び帰ってきたように感じさせる天気が続く中。冬弥はテラス席でオーダーを受けていた。

 あれから数日、子猫は一度も姿を現していない。


「あぁー……」


 冬弥は休憩時間でもないというのに、らしくもなくカウンター席に突っ伏してうなだれている。

 永遠と癒しの時間が訪れないのだ。つい、スマホを取り出し猫の動画を流し始めてしまう。それでも支障のないアイドルタイムではあるのだが。


「冬弥君、テラス席のお客様のアイスコーヒーお願いね」

「……はい、ただいま」


 血色が悪い、猫背、寝癖が少し残った髪。覇気のない言動、行動。普段の冬弥の仕事ぶりを知る人であれば、いかに彼が意気消沈しているか、一目見ればわかる状態だった。

 彩はそんな冬弥の様子を、むしろ楽しんで観察しているようであった。


「お客様には愛想よくね」

「了解です……」


 冬弥は指摘を受け、びっくりするくらい下手くそな怪しい微笑みを浮かべると、盆の上にアイスコーヒーを2つ乗せテラス席へと向かうのであった。


「……お待たせいたしました。アイスコーヒーでございます」

「ひっ……びっくりしたなぁもう、黒木君」

「すみません、茅原さん」


 奥さんとの会話に夢中になっていた茅原さんは、背後から音もなく現れてスッとアイスコーヒーを差し出す冬弥に、異様に驚く。


「あなた、そんなに驚かなくてもいいじゃないの」

「いや、どうにも背後に敏感になっちまってなぁ、ほら、あっただろあの後ろから幽霊が忍び寄ってくる映画」

「いやねぇ、あなたったら」


 これから映画談議に花を咲かせそうな茅原夫婦に、軽く礼をすると、どうぞごゆっくりと言い残して静かに立ち去る冬弥。その小さな声にまた旦那がびくっと震え、その姿に大きな笑い声をあげる嫁。

 冬弥は楽し気なその様子を背中に感じつつ、店内に戻ると再びカウンターに突っ伏すのであった。




 ▼▼▼




 ――コンコンコン


 扉を軽く叩く音が、閉店後の店内に響く。


「はーい、どちらさまでしょうか」


 最後の仕上げの掃除をしていた手を止め、冬弥が急な来訪者のもとへ急ぐ。

 しかし、扉を開けるとそこには誰もいない様子であった。


「ノック聞こえましたよね?」

「ええ、聞こえたわね」


 彩も不思議そうな表情をし、冬弥の確認に同意する。


「にゃー」


 少し懐かしい鳴き声が聞こえた気がして、冬弥が勢いよく足元に視線を落とすと、あのいつもの子猫がいた。


 ――ひろってください


 こじんまりとした段ボールの中に、ちょこんとおとなしく座り、こちらを首をかしげながら見つめる子猫に、思わずノックアウトされそうになる冬弥。


 ――ひろってください


「んにゃあ」


 少し幼い字で書かれたその文字に視線を奪われていると、再度子猫が鳴く。甘えた様子のその声と、大きくうるうるとした瞳でこちらを見つめる子猫に、つい、喜んでと答えたくなってしまう冬弥。

 しかし、わが家の契約書に記載されたペット禁止の言葉を思い出し、頭を振る。


「彩さん! 子猫、捨てられてます!」

「あらまぁ、大変ね」

「帰ってきました!!」

「それは、良かったわね……」


 捨て猫を発見したことよりも、ただこの可愛らしい子猫が再び自分の前に姿を現したことに興奮を隠せなくなっている様子の冬弥に、彩はあきれてしまう。


「あの、彩さん、敷地に居ついてしまうのは不可抗力ですよね?」

「まあ、野良ちゃんがテラス席で寛いでいるのは今に始まったことではないしね」

「そしたらこの捨てられた子猫が、テラス席で1日中ゴロゴロしていても、今までと変わらない訳で、問題ないですよね」

「まぁそうね」

「この子猫はテラス席に居ついています!」

「そうよねぇ」


 勢いよく饒舌に、必死に話し始めた冬弥に、彩は別に断るつもりはなかったのにと思い、つい笑ってしまう。

 そんな彩の様子を見て冬弥は満面の笑みで子猫に話しかける。


「おまえ、よかったなぁ。庭になら居てもいいってよ」

「んなぁー」


 子猫は少し不満げに、鳴き声を上げる。


「今度、新しいおもちゃ持ってくるからな」

「んなぁー」


 子猫は、そうじゃないと言いたげに文字の書かれた段ボールを前足でたしたし叩く。


「ご飯も、毎日あげるからな」

「んにゃぁ」



 子猫はご飯という単語を聞き、耳をぴんと反応させると少し満足げに段ボールの中で大人しくなった。

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