8 ~もやとの付き合い方~
市民図書館。
空調の効いた、天井の高い空間。
まばらな人影。
背丈のある本棚に囲われた一角で、冬弥は本を積み上げていた。
「全然見つからない……」
七不思議系、超能力系、オーラが見える系、心理系。
タイトルを見て、少しでも可能性がありそうな本をかき集め、ひたすらページをめくるものの、自身の悩みを解決するものは見つけられないままだった。
目を通し終えた本を抱え、本棚に戻していく冬弥。
終わりの見えない本とのにらめっこに心が折れそうになった冬弥は、昼ご飯を食べに一度外に出ることにする。
自動ドアの前に立つと、静かな館内に機械音が響き、外のムワッとした空気が入ってくる。
冬弥は思わず顔をしかめながら、近くの蕎麦屋へと向かうのであった。
「いらっしゃいませ~」
ちょうど昼休憩の時間であり、店内はサラリーマンばかり。
皆静かに蕎麦をすすっている。
冬弥は盛り蕎麦を頼むと、天井から吊られたテレビを見つめる。
ニュースでは台風がやってくる旨を伝えている。
白い三角巾をつけたおばちゃんが、蕎麦を運んでくると、手元の蕎麦を一心不乱に食す。
美味しい。
蕎麦の風味がしっかりしている麺を、ダシの効いた冷たいつゆにくぐらせ大きくすする。
暑いときこそ温蕎麦をという人も居るが、冬弥は冷蕎麦を食べる方が好みなのだ。
冬弥は腹を満たすと図書館へと戻るのであった。
▼▼▼
閉館時間まで調べつくしたものの、目当てのものは見つからなかった。
しかし冬弥のリュックの中には2冊の本が入っている。
――「これさえ読めば、猫の気持ちが分かるコミュニケーション術」「猫散歩」
冬弥は家に帰ると、夜遅くまで夢中で読みふける。
本来の目的はどこへやら、しかし充実した休日に割と満足している。
本に夢中になっていると、自分の悩みなど最初からなかったように錯覚してくるのだ。
「んー、もうこんな時間か」
伸びをしながら時計を見ると、明日の仕事が頭をよぎり、そろそろ寝なければと理性が訴えかけてくる。
冬弥は、キリの良いところまで読み進めると、本を閉じ、部屋の明かりを消したのだった。
▼▼▼
仕事に向かうため、家を出ると今日も陽子は家の前を掃除していた。
「おはようございます」
「あらぁ、おはよう!」
冬弥が陽子に挨拶すると、明るく返してくる。
しかし今日の陽子には再びもやがかかっていた。
冬弥はその変化への気持ちを心にしまうと、努めていつも通りに振る舞う。
「いってきます」
「いってらっしゃーい!」
陽子はいつものようにほうきを振り回し、冬弥を見送る。
自転車を漕ぎ、駅に着く。電車へ乗り込むと、冬弥は先ほどのことを思い出す。
結局、もやのことは何一つ新しいことが分からないままであった。
気にしすぎても仕方がないことなのかもしれない。
電車がいつもの駅に到着し、喫茶店へ向かうと子猫が迎える。
「にゃー、んなぁー」
いつもより長めに鳴く子猫に、リュックから黄色いボールを取り出し見せる冬弥。
「今日は新しいおもちゃを持ってきたよ」
子猫は嬉しそうに尻尾をぴんと伸ばすと、店へと消える冬弥を見送る。
カラフルな装飾のついた店の扉を開ければ、ベルの音が響く。様々な色のガラス製食器が飾られている店内に、計算されたライティング。和を乱すようにドアから差し込む光が、不思議と柔らかくなじんでいく。
「おはようございます」
「冬弥君、今日も早いわね」
たった2日休みを貰っただけなのに、なんだか新鮮味を感じてしまう。
彩は丸眼鏡を下に少しずらし、冬弥に微笑みかける。
「何か、あったのかしら?」
「ええ、まぁ」
「それで?」
――チリーン
お客様に呼ばれ、彩がまた後でと言い残しカウンターを出ていく。
冬弥は2階へと向かい、仕事の支度を整えるのであった。
▼▼▼
ランチタイムが過ぎ、落ち着いた環境になったころ、彩が冬弥に話しかける。
「さっきの続きを少し話してみましょうか?」
「……ええ」
「猫が癒しを与えてくれるのは何故かって話ではないのでしょう?」
彩は冗談めかして冬弥に尋ねる。
冬弥は頭をポリポリかくと、ポツンと悩みを吐露する。
「人の様子が日によって違うんです」
「ええ」
彩は優しく続きを促す。
「良く見え……良く分かるときもあれば、全然分からない時もあるんです」
「そうね」
彩は手元のグラスを磨きながら、時折相槌を打つ。
「すみません、なんか急に相談なんて」
「気にしないでいいのよ、部下の管理も仕事のうちなんだから」
「ありがとうございます」
冬弥は彩に怪しまれないように悩みを吐き出していく。
「まあでも、人の様子なんて日によって違うのは当たり前でしょう」
「そうですかねぇ」
「ほら、茅原さんなんて、毎日テンション全然違うじゃない?」
「あぁ、まあ確かに」
彩が例にあげた常連客。夫婦で花屋を営むその男性は、やれ奥さんに怒られた、やれ昨日の晩飯は俺の好物だったと毎日違う表情を見せるのであった。
そう、見せるということは冬弥にとって毎日様子がみえる人なのだ。もやは薄く、安定している。
しかしそうは言えず、彩との話を進める。
「身近な人の様子が違うと、どうも気になってもやっとしてしまうんですよね」
「なら話は簡単じゃない」
彩はグラスを棚に戻すと、さも当たり前のことを冬弥が見落としていると指摘する。
「身近な人の事なら、直接本人に聞けば良いのよ」
それが出来れば苦労しないと冬弥は小さくため息をつくと、一応お礼を伝えて休憩に入るのであった。
▼▼▼
曇り空の下、石畳のテラス席の端の方に冬弥の背中があった。
手には小さなボールを持ち、視線の先にはこちらの様子をじっと窺う子猫がいる。子猫は冬弥がボールを揺らすたびに聞こえる鈴の音に耳で反応をしながら、今か今かと冬弥がボールを転がす瞬間を見逃すまいと瞳を大きく開けている。
冬弥がボールを軽く転がせば、一瞬で飛びつき、鈴の音が軽快に鳴り響く。
「お前はこんなことで悩んだりしないんだろう? いいなぁ……」
冬弥が愚痴をこぼすと、子猫はボールから離れ冬弥へと近づいてくる。まるで心外だとでも言いたげに毛を逆立て短く鳴き、何かをアピールすると再びボールのもとへ戻っていく。自由でマイペースなその姿をみていると不思議と彩の言っていたことがすんなり腹落ちする。もやの意味は分からなくても、個人的に少しだけスッキリできる気がしてくる。
陽子さんになら直接聞いてみても良いのかもしれない。
「なんか、ありがとう」
冬弥はボールを抱え、必死に甘噛みを繰り返す子猫に感謝を伝える。子猫は冬弥のことは最早眼中にない様子で、尻尾を地面にたたきつけながら全力で鈴の音を響かせている。
ほんの少し前向きな気持ちになった冬弥は、小さく笑うと子猫の頭をなでボールを回収すると、店へと戻るのであった。
▼▼▼
――バタン!
突然の荒々しい来客は、間もなく閉店であろうかというときにやってきた。
「彩ちゃん! ちょっと聞いてくれよ!!」
噂をするとその人が現れるとはよく言ったもので、茅原さんであった。
冬弥はカウンター席へと促すといつも通りに接客する。
「黒木君、ありがとな」
茅原信秀はニカッと笑うと、汗まみれの日に焼けた顔をおしぼりで拭い始める。
花屋、というイメージは繊細なものであったがどうもこの男は大胆でガサツな雰囲気が拭えない。しかし、店員に礼を伝えるあたり、冬弥にとって接し難い相手ではないのであった。
「アイスコーヒーで」
「かしこまりました」
彩が準備している間、花屋の会話の矛先は冬弥に向く。
先ほどまでの笑顔はどこへやら、急に泣き出しそうな雰囲気になると、嗚咽を堪えながら話し出す。
「ゆみちゃんが……ゆみちゃんが、最近冷たいんだー!!」
「ええっと……」
冬弥は花屋の突然の号泣に言葉を失う。
どうしたものかと困惑しつつも、そうなんですね、大変ですねと宥めていると彩がアイスコーヒーを花屋に差し出す。花屋は泣きながらコーヒーを飲むと、時々気管に入ったのか咽ながらもようやく少しずつ落ち着き始める。
「彩ちゃん、ありがとう。……ゆみちゃんが最近冷たいんだ」
「信秀さん、もう少し詳しく教えてくださいな」
「すまん……。金曜日の夜は一緒にファンタジー映画を観るっていう決まりがあるんだけど、最近は観たくないって言って先に寝ちゃうんだよ……」
この丘では有名なおしどり夫婦の惚気話が始まり、冬弥は少しうんざりとした気分になる。
「何を観る予定だったの?」
「金色の粉を使って空を飛ぶ映画に出てくる、妖精のスピンオフシリーズ……」
「単純に、好みじゃなかったんじゃない?」
「それだけは、ない! そもそも、ゆみちゃんはあの映画を作ってる会社が大好きなんだ!」
花屋は熱く語り始める。某テーマパークで記念日ごとにデートを重ね、プロポーズも夜の城のショーが終わってからその場でしたらしい。ふむ、意外と乙女なプランを立てるものだと冬弥は思う。
「それなら、ちゃんと本人に確認したの? 信秀さんが空回ってるだけかもしれないわよ」
「彩ちゃん……」
「どんな映画なら一緒に観てくれるのか、聞いてみればいいじゃない」
花屋はまるですべての悩みが解決したかのように、ぱあっと表情を明るくさせると、彩と冬弥の手を握りブンブンと振りながら交互に感謝を伝え、帰っていった。
「なんかドッと疲れました」
「そう?」
彩はいつものように微笑むと、冬弥に退勤を促すのだった。
▼▼▼
それから数日後。
冬弥が家を出ると例のごとく陽子が掃き掃除をしていた。
「おはようございます」
「あらぁ、おはよう!」
陽子は元気な挨拶を返してくるが、今日は一段ともやが濃く、どんな表情をしているのか全く分からない冬弥。
先日の、直接聞いてみれば良いというアドバイスを心に、冬弥が言葉を続ける。
「陽子さん、何かありましたか?」
言葉が、返ってこない。
意を決して踏み出してみたものの、急に不安な気持ちに襲われる。やはり突然の問い掛けは失礼であっただろうか。それに、陽子さんにしてみれば何にもないのに突然こんなことを言われたんだとしたら、いったいどんな風に自分を見てくるのであろうか。頭の中がぐるぐるし始めると、急に足元もぐらついてきたように感じる。
自分の呼吸を遅くしっかりと感じる。陽子の返答までの時間を、ひたすらに長く感じる。
「冬弥君、なあに? どうしたの?」
陽子は、少し遅れていつもの調子で返してきた。
ここで引いては何も変わらないと、冬弥はさらに言葉を重ねる。
「いつもとちょっと様子が違うかなって思いまして」
「あらやだ、そう見えちゃった?」
陽子は努めて明るく返してくる。
「色々と考えることもあってね、ちょっと気が散っちゃってたのかもしれないわね」
「そういうこともあるんですね」
冬弥は陽子の言葉の続きを待つ。
「いやねぇ、歳を重ねても、結局人だから色々悩んじゃう時もあるのよ。むしろ歳を重ねる分、昔のことを思い出して、もう今更分からないことをうだうだ考えちゃったりしてね」
「そういうものなんですね」
陽子は少し真面目に、ゆっくりとした口調で冬弥へ言葉を紡ぐ。
「ちょうど主人の月命日っていうこともあってね、今日はちょっと考えすぎじゃってたのかもしれないわね。ごめんなさいね、心配かけて」
「いえ、全然。むしろすみません、突っ込んだ話をさせてしまって」
冬弥は陽子の心情を考え、申し訳ない気持ちになり謝る。
「いやねぇ、気にしないで。冬弥君、むしろありがとうね!」
陽子は嬉しそうな声音で、冬弥へ感謝を伝える。
予想外の言葉に、陽子に視線を向けるとその表情は明るく、本当に嬉しく思っているようであることが分かる。そう、黒いもやは薄くなっていたのだった。
――人なんだから、毎日様子が違うのは当たり前。
冬弥は難しく考えすぎていた自分を振り返り、このもやとうまく付き合っていこうと、少しだけ変化を受け入れるのであった。