7 ~陽子さんのもや~
夕方の涼しさが夏の終わりを感じさせてくれる、9月中旬。
水曜日。
今日明日と休みをもらった冬弥は、少し早めの秋冬の準備をすることにする。
圧縮された冬物衣類と掛け布団を押し入れから取り出し、朝のうちに庭に干しておく。
庭で風に吹かれて揺れる衣類を見ていると、トップスの量が少ないことに気づく。
そういえば春に大量に処分していたっけ。
冬弥は、午後の予定を洋服を買いに行くことに決めると、部屋の掃除に勤しむのであった。
出かける準備を整え、布団をまとめ、おおきなランドリーバックにしまうと玄関を出る冬弥。
「あら! 冬弥君、すごい荷物ねぇ」
「大家さ……陽子さん、こんにちは。衣替えで、クリーニングに出してから使おうかと思って」
大家さんと呼ぼうとすると、目を細めて諫められたため慌てて修正する。
風にさらした後の肌触りが少し気になったため、急遽クリーニング店に寄ることにしたのであった。
「わたしもそろそろ、準備しておこうかしらねぇ」
「早めの準備がいいと思いますよ」
寒い中我慢するよりも、面倒であっても、いつでも使える状態にしておく方が良いと考えている冬弥は陽子に準備を促す。
と、今日は顔にもやがかかっていないことに気づく冬弥。
「最近何かありました?」
しまった……。
と思った時にはすでに遅く、つい頭の中の考えが口から出てしまっていた。
「なあに? 突然どうしたのよ」
陽子は明るく笑いながら、冬弥から珍しく話題を振ってきたことに嬉しそうに先を促す。
表情が良く見える分、いつもより少し恥ずかしい気分になる冬弥。
「いや、別にどうしたわけでもないのですが……。そうですね、今日は一段と元気だなぁと思いまして」
「いやねぇ、いつも元気よ! おばあちゃんになっても、元気なのが私の取柄なんだから!」
冬弥は苦し紛れに、適当な相槌を打つとそれ以上言葉が出てこないのであった。
陽子は冬弥の様子を見て、言葉を続ける。
「冬弥君こそ、最近元気ねぇ」
「そうですか?」
陽子は冬弥の顔をしっかりとみる。
久々に目が合った気がする、そんな冬弥にはやはり精気が戻ってきていると感じる陽子。
「何があったかは知らないけど、良いことね! 安心したわ」
陽子は言いたいことを言うだけ言って、嵐のように立ち去ってしまった。
さて、まずは布団をクリーニング屋に出すか。
冬弥は陽子のもやのことが気になりながらも、歩き始める。
▼▼▼
南野町のショッピングモールに着くと、いくつかの洋服屋をゆっくりと見て回る冬弥。
少し歩き疲れてきたため、カフェに入る。
アイスコーヒーを頼み、店内を見渡すと見知った顔を見つける。
「彩さん、奇遇ですね」
「うふふ、そうね」
今日の彩の装いはいつもと異なり、お出かけ用のものであった。
ロングワンピースにつばの広い女優帽をかぶり、色付きの眼鏡ではなくサングラスを胸元に差し込んでいる。
使っていないイスの上にはいくつかのショップの紙袋がまとめておかれており、ショッピングを楽しんでいることが伝わってくる。
「秋も近いから、カーディガンを見に来ただけのつもりだったんだけどねぇ」
冬弥の視線に気づくと、隣の空席に着席するように促しながら状況を説明する。
「気分が乗るとつい予定より買ってしまうものですよね」
「冬弥君もそういう経験ある?」
「猫の写真集とか、買う予定なかったのに気づいたら家にあったりします」
「さすがね」
冬弥は彩の隣の席に腰かけると、シャツの胸元をパタパタと仰ぎ、体温を下げる。
彩は冬弥を横目に、そっとコーヒーに口をつける。
「今日はどうしたの?」
「あ、洋服を買おうかと思いまして……」
「奇遇ねぇ」
彩は先ほどの冬弥をなぞらえて、微笑む。
「トップスが半袖のものばかりで、これからの季節に向けていいものがあればと思って」
「良いもの見つかった?」
「なかなか気に入るものが見つけられず、ちょっと悩んでます」
素直に語る冬弥の様子を見て、彩はさらに尋ねる。
「他には、どう? 何か悩んでる?」
穏やかに語りかけてくる彼女は一瞬にして不思議な空気を身にまとい、怪しく笑いかけてくる。
その姿を見て冬弥は一瞬、童話に出てくる悪い魔女を想像してしまったが、頭を振るとそのイメージを消す。
「そうですね、悩んでいるといえば悩んでいるのですが」
「何を悩んでいるの?」
「どうして猫はあんなにも自由に生きているだけで、人に癒しを与えられるのかと」
冬弥は自身の悩みをはぐらかした。
▼▼▼
彩が先に立ち去ると、冬弥は陽子さんのもやが何故急になくなったのか、考え始める。
別にもやの濃さが一定でないことは、喫茶店の常連さんの様子からわかっていたことであったし、陽子さんであっても会うたびに多少の変化はあった。
しかし今日のそれは、経験したことのない振り幅での変化であって、少し驚いたのである。
思考が暗礁に乗り上げると、冬弥はグラスを返却口に運び、再び買い物へと戻るのであった。
深く考えることを辞めた後は、洋服選びも考えずに直感で選ぶようになった。
おかげで夕方頃には買い物を終えた冬弥は、ペットショップの前で立ち止まる。
「ねこが……たくさん集まっている……」
たくさんの種類の子猫が展示されたウインドーの前で、小さな子供がガラスにへばりついている。
冬弥は一歩外側から食い入るように子猫たちを観察し、先ほどまでの悩みはどこへやら飛んで行ってしまったのであった。
ペットショップの中へと足を進めると、たくさんのグッズが揃えられていた。
冬弥は、喫茶店の常連猫と遊ぶためのグッズを吟味し始める。
ねこじゃらしは既に持っている。
いや、しかし、棒の先が房ではないものもあるのか。
いや、この色は可愛らしい。
しかし……。
猫じゃらしゾーン一つ見るだけでも湯水のように妄想が止まらなくなる冬弥であった。
首輪……は、飼っているわけではないのでいらない。
餌入れは買ってもよいのかもしれない。
ただ同時に常に餌を用意できるようにしなくては。
いや、それは飼うということなのでは……?
冬弥の思考は完全に無限ループに入ってしまう。
なんとかループから抜け出すと、小さなボールを見つける。
いくつかの色のあるそれは、中から鈴の音がするもので、つい転がして遊びたくなってしまうものであった。
冬弥は黄色のボールを選ぶと、レジに向かう。
「ねこちゃんですか? わんちゃんですか?」
「ねこちゃん、です」
「気に入って沢山遊んでくれるといいですね!」
少し恥ずかしそうに買い物する冬弥に、ペットショップの店員は優しい言葉をかける。
沢山遊んでくれる子猫の姿を妄想し、少しだらしなく笑うと店員は微笑みながら袋に入ったボールを手渡す。
予定になかったものの、今日一番楽しい買い物だと思う冬弥なのであった。
▼▼▼
本当はそのまま家に帰る予定であったのだが、気が付けば自分の働く喫茶店の前まで来ていた。
もしかしたら子猫に会えるかもしれない。
あたりが暗くなり始める中、鍵のかかっていない門を開けて庭に子猫の姿を探す。
「おーい、いないのかー?」
冬弥は子猫が潜んでいそうな茂みや石像を覗き込みながら、呼びかける。
「……まぁ、会えなくても仕方ないか」
門を閉めて、丘を降る冬弥の後ろ姿は、日が陰る様子と相まって寂しさが伝わってくるものであった。
▼▼▼
「あー!!」
家に帰り、晩御飯の用意を進める中で冬弥はあることを思い出す。
「明日も休みだった……」
なんだか少し気まずさがあって、休みをもらった日は喫茶店に行かないことにしている。
冬弥は一度調理する手を止め、忘れないように玄関に準備してあった遊び道具を眺めた。
猫と遊ぶために仕事に行っているわけではないものの、仕事がないことをこんなにも残念に思うようになっている自分に少し驚く。
猫好きだからなのか、そんな猫込みで仕事が楽しいと感じているのか……。
せめて前者でないことを祈りながら、冬弥は調理を再開するのだった。
食卓を整えると、晩御飯を食べながらテレビを見る冬弥。
このペット番組は最近のお気に入りであった。
司会者が飼う猫が、大変生意気でわがままで自由で可愛らしいのである。
猫が画面に映る度に、どうしても手が止まってしまう冬弥。
普段は30分もかからないはずの食事が、番組が終わり、食事に相当時間がかかっていたことに気づく。
テレビを消し、残りを口へ放り込むと、食器を台所へと運ぶ。
食器洗いながら、今日一日のことを振り返る。
やはり陽子さんの件が気になってしまう。
最近慣れてきてしまっていたが、そもそもあのもやが何なのか未だに分からない。
冷静に考えてみれば、ただ不気味なのだ。
「調べてみたら、少しは何か分かるかな」
冬弥は明日の行動リストに図書館に向かうことを追加すると、就寝に向けてシャワーを浴びるのであった。