6 ~大家の陽子さん~
まだまだ厳しい日差しが照り付ける中、春海陽子がいつものように自身が管理する物件の手入れをしていると、寄子の一人が自転車で去っていく。
「いってらっしゃーい!」
最近少し元気を取り戻したように見える青年を見送る。
手入れに戻り掃除をしていると、ふとその青年との出会いを思い返すのであった。
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日中の寒さが和らぎ、春がすぐそこまで来ていることを感じさせる陽気。
3月上旬。
陽子は仲介業者からの突然の電話を受ける。
「庭付きの平屋建てアパート、今から内覧入らせていただいても大丈夫ですか?」
「もちろんよ! 鍵を用意しておくわね」
子が住む地域の老人ホームに移るといって、寄子の女性が数年前に退去してから長らく空き部屋になってしまっていた場所。
さらに遡っていけば、自身も昔住んでいて、運命の出会いのきっかけになった、その場所。
今は亡き最愛の夫は、地主の長男だった。
夫との思い出が沢山詰まった古い物件は、陽子の記憶の中で唯一そのままの姿を保っており、自身が元気なうちは手放すつもりも建て直すつもりも、毛頭ないのだ。
陽子はお気に入りの場所への久しぶりの来客に、ウキウキしながらタンスから鍵を取り出す。
隙間の空いた玄関の、薄い木製ドアにつけられている鍵は簡易的なものであり、その鍵も薄い簡単な作りのものである。
いったいどんな人が訪れるのかしら。
陽子は新たな出会いに胸を膨らませながら、鈴のついた鍵をシャリンと鳴らしながら自宅を出るのであった。
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白い小さな車を停めて仲介業者と共に降りてきたのは、清潔感のある大学生くらいの男であった。
陽子は少し残念な気持ちになる。
きっと家賃にそぐわない広さに釣られて来てしまっただけなのであろうと思い、この決して便利とは言えない物件に似合わない青年をどうしたものかと考える。
「わざわざお持ち頂いて、ありがとうございます」
仲介業者は陽子に駆け寄り、鍵を受け取ると、そっとささやく。
「ちょっと趣向が変わった……いえ、失礼しました。今時ではない方でして」
「あら、そうなの?」
大家を気遣い、発言を修正した仲介業者。
改めて青年に目を向けると、まっすぐにこちらを見つめ、車の側から会釈してくる。
ゆっくりと近づいてくると、青年は目を輝かせながらこういった。
「初めまして! お邪魔します」
春海陽子と黒木冬弥の出会った瞬間であった。
「初めまして、ようこそ! ……だいぶ古いところなのだけれど、大丈夫かしら?」
「お話を伺って、外観を眺めて期待がさらに膨らんで、早く中を見たい気持ちです」
陽子が少し心配そうに話しかける。
しかし、青年はそんな陽子の様子は全く気にせず目を大きく開いて待ちきれないといった様子で答える。
「やっぱり、私もご一緒してよろしいかしら」
「ええ、はい。それは、もちろんですよ」
仲介業者は陽子に鍵を渡すと一歩後ろに下がった。
「では、ええっと……」
「黒木さん、こちら大家の春海さんです」
「よろしくお願いします! 黒木冬弥と申します」
「黒木さん、では早速、鍵を開けるわね」
陽子は家の基礎に合わせて、コンクリートで1段かさ上げされた玄関前に立つと、鍵を開けた。
木目のついた軽い扉を開けると、部屋のブレーカーを上げて、電気をつける。
仲介業者が用意したスリッパを履くとダイニングから客人を迎え入れる。
「どうぞ」
冬弥も仲介業者からスリッパを受け取るとダイニングへ進む。
玄関入ってすぐ左手に、古い台所。その並びに煙突が外に突き出た風呂場が配置されている。
玄関を挟んで反対側にはトイレ。洗濯機を置ける場所もある。
この家の水回りはどれも古く、使う人を選ぶのだ。
擦りガラスの引き戸で次の部屋とは区切られている。
「こんな感じなのだけれど……」
「すごく素敵です。なんだか懐かしい気持ちになって、落ち着きます」
陽子は青年の嫌みのない言葉を聞き、深く安心する。
そして笑いながら目の前の少し変わった青年に冗談を言ってしまう。
「あなたよりだいぶ年上の家だけれど、懐かしいだなんて、いやねぇ」
恥ずかしそうに頭をかいている青年。
陽子はそんな様子を微笑ましく思う。
なんだか孫を見ているような気持ちになりつつ、引き戸を開ける。
「ここが和室に手を入れて、洋室に直した部屋ね」
「あぁ、いいですね。収納に和を感じます」
細かな説明は省き、続いて障子を開ける陽子。
「こっちが和室よ」
「寝室に良いですね。もう生活するイメージがわいてきました」
さらに目を輝かせながら部屋を観察する青年に釣られ、陽子も気持ちが高揚していくのを感じる。
「で、雨戸をあけるとこんな感じなのよ!」
「すっごく、開放的で、いいですね!!」
部屋に自然の光が大きく差し込み、そこにいる人を優しく包み込む。
低木に囲まれつつ、隅のほうにはザクロの木が植えられている。
縁側から低木までの距離は十分にあり、物干し台が置かれていてもなお余裕のある庭の広さであった。
柔らかな風が庭を吹き抜ける様子を、ただ眺めて、どれくらい時間が経った頃だろうか。
青年は気持ちを固め、口を開く。
「ここに住みたいです!」
仲介業者と陽子を熱のこもった瞳で見つめる青年。
答えを待つ間もこの場所への気持ちを膨らませているようだ。
仲介業者は、様子を窺うように陽子に視線を流す。
陽子は改めて目の前の青年を見つめる。
派手ではないが、清潔感がありセンスの良い服装。
表情は明るく、これからの生活への期待に満ち溢れている。
きっとこの場所を大切に、素敵な時間を過ごしてくれるに違いない。
不安であった最初の気持ちは、もうどこかへと、しぼんで消えていた。
「黒木さんは、大学生かしら?」
「4月から社会人になります」
目の前の青年に若者特有の輝きを感じた陽子は、その明るいであろう未来に胸を馳せる。
「1つ条件があります」
「条件ですか?」
青年は緊張した面持ちで陽子の言葉の続きを待つ。
「私のことは、気軽に陽子さんって呼ぶこと!」
陽子は明るくけらけらと笑いながら、冬弥に冗談めかしてウインクする。
「ええっと、大家さんそれは……」
陽子の唐突な条件提示とウインクに戸惑いながら青年は言葉を紡ぐ。
「ほら! 陽子さんって呼んでね、冬弥君!」
「では……大家の陽子さん」
「うーん、まあ、及第点ね」
律儀な性格が見える青年を、自身の大切な場所に住まわせることに納得する。
陽子は仲介業者に後の事務手続きを任せると、車まで見送るのであった。
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「どうやら、大丈夫そうね」
陽子は、使っていたほうきをしまいながら呟く。
そして先ほど元気に走り去っていった自転車を思い返す。
入居し、時間が経つにつれ一人前の社会人としての面持ちが似合うようになり、若者特有の輝かしさを感じなくなった。
ある時から急にやつれ始めた。
自宅にこもり始めてから陽子の心配は膨らんでいったが、最近は視線こそ合わないように感じるものの、少し元気を取り戻しているように思える。
最近の悩みが解決に向かい始めたことで、陽子はスッキリとした気分になるのであった。