5 ~喫茶店店員の日常~
――ジリリリリリリリ
冬弥は毛布の中から手を伸ばし、目覚まし時計を優しく止める。
そのまま布団の上でゆっくりと伸びをする。
7時起床。
雨戸をあけ、そのまま網戸だけを閉める。
と、少し生暖かくも、まだ朝特有のさわやかさの残る空気が、少し手入れの行き届いていない庭を通って部屋の中へと入ってくる。
テレビの電源を入れる。
男性アナウンサーの声をBGMに、電気ケトルに水を入れ、スイッチをONにすると顔を洗う。
お湯を沸かしている間に、トースターへ食パンをセットする。
ウインナーを軽く炒めているとトーストが跳ね上がる。
どちらも白い皿へ移すと、すぐに卵をぐちゃぐちゃに炒める。
半分ほど火が通ったら同じ皿に盛る。
マグカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、お湯を注ぐ。
ミニトマトをアクセントに飾る。
起床から食卓の用意が整うまで約15分。
冬弥は朝のニュースをチラチラ見ながら食事を進める。
少し急がなくてはならない。
少しパサつく口の中身を、まだ熱いコーヒーで無理やり流し込むと、食器を流しに運び、そのまま歯磨きを始める。
鏡を見ると少し寝癖がついていることに気づく。口をゆすぎ、髪を水で撫でつける。
寝間着から外へ出る格好へと着替えると、スマホを持ってトイレへこもる。
和洋式のトイレを洋式寄りに整えたそこは、冬弥にとって自然と落ち着く場所であった。
猫の1日を収めた動画を、1本だけと決めて飛ばし飛ばしみる。
少し強めの水圧のトイレを流す。
起床からスッキリするまで約45分。
仕上げに髪の毛を無香料の整髪料で軽く流す。
窓を閉めて鍵をかける。
リュックの中へ財布とスマホ、手帳とボールペン、先っぽに房の付いた棒を放り込めと、すぐに家を出る。
起床から出発まで55分。
冬弥は家の鍵を閉めると、自転車に乗る。
徐々に強まる暑さの中、10分くらい自転車を飛ばせば最寄り駅に到着する。
働き始めて1週間ほど。
既に冬弥は、喫茶店店員としての体内時計が出来上がりつつあった。
▼▼▼
まだまだ混んでいる電車に乗っている間、リュックを前に、吊革に両手を繋ぎ、ただただ目を閉じている冬弥。だいぶ慣れてきてはいるものの、やはり顔が見にくい人に囲まれるのは気持ちの良いものではないのだ。
南野町駅への到着を知らせるアナウンスが流れる。
勢いを殺しきれなかった電車が乗客へ慣性を感じさせながら止まると、冬弥は目を開けて下を向いたまま、小さな声で周りの乗客に謝りながら降車する。
駅を出てすぐ、まだ人通りの多くはない上り坂を進めば、見慣れた洋館が視界に入る。
鉄門の側に飾られた黒板を見る。本日のおすすめは、昨日のままである。
毎日変えているわけではないことは、1人の客であるときに気づいていた。
「んなぁ」
「おはよう」
子猫は冬弥を見つけると、軽く鳴き声を上げる。
朝のあいさつを返せば、ただそれだけで満足したようにテラス席の木陰へと足早に去ってしまう。
冬弥は子猫の後ろ姿に、追いかけ撫でたい欲求を抑え、店の扉を開ける。
「おはようございます」
「冬弥君、おはよう。今日も早いわね」
彩は薄い紫色のレンズの丸眼鏡をくいっと持ち上げながら、微笑む。
店内を軽く見渡せば、モーニングセットを楽しむお客様が4組ほど。
冬弥に気づくとひらひらと軽く手を振ってくる。
いらっしゃいませ、と会釈をし微笑むと冬弥は2階へ進む。
シフトは毎日固定である。
営業時間は、朝はゆっくりの9時から19時まで。
彩は通しの8時から20時まで。冬弥は10時から19時半までが基本である。
冬弥に関しては時間の融通も利くのだが、今のところ指定通りのシフトで勤務している。
冬弥は制服に着替える。
黒いスラックスに黒く短い腰巻エプロン。白いシャツに細く銀色に縁どられた黒ベスト。銀色の飾りをつけた、茶色の紐タイを緩く締めると完成。
なお、靴は自前で黒もしくは茶色の革靴の指定。
少し気取った制服に最初は恥ずかしさを感じていたものの、今ではすっかり慣れたものになった。
ちなみに彩の服装は自由である。
大体色のついたブラウスに、緩いロングスカートを合わせている。
茶色の首掛けエプロンが浮かない色を毎度合わせてくるのは、素直にすごいと思う冬弥であった。
まだ始業時間まで余裕があるので、手帳を開く。
ご案内、オーダー、提供、キャッシャー、バッシング。
カウンターの内側には、お客様の前で立つことはない。
この1週間ほどの間、基本的に接客の流れを教わってきた。
まずは説明を受け、少し離れたところから観察し、実際に行う。
アドバイスをもらい、再度実践する。
この繰り返しによって、そつなくこなせるようになった。
元々社会人として生活していたのだ。
穏やかなお客様の多いこの喫茶店で、仕事内容に関して特に大きく困ることはあるはずもないのであった。
平日はモーニングのお客様が5組ほど。
ランチ前の時間はもう少し少なく、ランチの時間に10組行かない程度。
アイドルタイムに5組ほど。
閉店までの間に10組行くか行かない程度。
平均して1日30組ほどの客入り。
かなりゆっくりした店である。
天気の良い土日にもなれば、観光地ということも手伝い3倍程度に膨れる。
が、滞在時間は短くなるため、席数の多さも手伝って、ほとんどの場合は満席にはならない。
客として通っていた時期での観察と、実際に働く中での体験によって、この店の動きを理解した冬弥はすでにある程度、臨機応変に対応できるようにもなっていた。
「そろそろ降りるか」
9時50分。
冬弥は手帳とボールペンを、エプロンのポケットにしまうと、更衣室を出た。
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「だぁー、ちょっと今日のランチタイムは不意打ちで厳しかったです」
「そうね。たまにこういう日があるから、面白かったりするのよねぇ」
少し背伸びした修学旅行生が迷い込んできた。
いや、ゆっくりできる場所を探し求めてきたのである。
6人グループが時差で3組。
ホットドックと甘い飲み物。オムライスと甘い飲み物。サンドイッチと甘い飲み物。
わいわいがやがやと、あーでもないこーでもないと次に観るポイントはどこかと盛り上がる高校生たちに、少し懐かしさを感じた冬弥。
が、きっと笑顔であろう表情は「黒いもや」にじゃまされ良く見えず、この落ち着いた喫茶店を訪れる普段のお客様とは違う空気に、ついぼやいてしまったのであった。
「そろそろ子猫ちゃんと遊んでくる?」
「えぇ……それじゃあ、休憩入ってきます」
「はい、いってらっしゃい」
冬弥は2階へあがり、一度私服に戻る。
リュックから、ねこじゃらしを取り出すと、先ほどまでの疲れはどこへやら。
少しだらしなく顔を崩した。
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猫じゃらしを細かく震わせながら、子猫にゆっくり近づく。
動きを止めてからゆっくり左右に振る。
また止めて、子猫がこちらに集中していることを確認しながら、素早く手首のスナップを効かせて動かす。
子猫は首を左右に顔をフリフリする。
さらに距離を詰める冬弥。
子猫はパシッと房の部分を抑えると両手で抱えようとする。
「んおぉおおお」
冬弥は、何とも言い表せない気持ちが音として口からあふれてしまうのを堪えられない。
ただ、この何でもない時間が幸せなのである。
子猫はそんな冬弥の様子は全く気にせず、目の前で動く不思議な物体に夢中なようだ。
子猫も幸せなのかもしれない。
「まさにWINWINの関係だな」
そう呟きながら冬弥は子猫の頭をなでる。
「んなぁ」
子猫はまるで興が削がれたとでも言いたげに低く喉を震わせる。
しかし、手のひらが心地よいのか首筋を押し付ける。
冬弥は子猫の様子を観察する。
その子猫の体は全体が黒い毛でおおわれており、手足は手袋をつけているように真っ白。
下アゴから腹に向けての白毛と合わさって美しいバランスをとっている。
初めて出会ってからやはり大きく成長する様子はないものの、弱っている様子もない。
と、子猫が喉を鳴らしながら仰向けに転がる。
冬弥は両手で子猫のご機嫌を取る。
今はただこの時間を楽しもうと、思考を辞める冬弥なのであった。
▼▼▼
冬弥が休憩から戻ると、彩はグラスを磨いていた。
「戻りました」
「おかえりなさい、今日の子猫ちゃんはどうだった?」
「素晴らしい毛並みを思う存分もふらせてくれたので、大満足です」
「そう、よかったわね」
彩は、たった今磨き終わった薄い黄色のグラスを、微笑みながら棚に戻す。
棚に並べられたカラフルなグラスは、まるで虹のようにきれいなグラデーションに整列され、客席側に飾られているガラス食器と共にこの店の雰囲気を作り上げている。
お客様のグラスを選ぶのは彩の仕事である。
不思議としっくりとくるチョイスで、カウンターにいながらもお客様の様子をよく見ていることが分かる。
「なんで、色付きなんですか?」
「そうねぇ……私の趣味なだけよ」
休憩時間の興奮がまだ少し残っている冬弥の何気ない質問に、彩は微笑みを崩さず、真剣さが伝わる瞳で、しかし優しい表情で返してくる。
「色のない人っていないと思わない?」
「唐突ですね……」
冬弥は、突然深く進む話を振ってしまったことで冷静になる。
人生論が始まりそうな雰囲気に、目の前の店主の情熱が少し見えた気がする冬弥。
仕事は周りに合わせて行い、特段親しいと呼べる友人もおらず、ただそれに何を感じるわけでも無く過ごせてしまう。
強いて言うならば、少し猫好きなのが特徴か。
……であれば、彩にはいったい何色に映るのであろう。
冬弥は考えを深めていく。
新たなグラスを手に取り、静かに磨き始める彩。
「その思いもあって、喫茶店Colorsなんですか?」
「そうねぇ」
冬弥の推理を、肯定とも否定ともとれる調子で彩が流す。
「まぁ、色々よ色々」
「駄洒落ですか……」
彩は微笑みを深めると、丸眼鏡を下にずらして、悪かったわねと言った。
――チリーン
卓上ベルが鳴る。
冬弥は穏やかな笑顔を作ると、窓際の席へと向かう
「お待たせいたしました」
アイドルタイムのゆっくりとした時間が流れ始める。
▼▼▼
「ありがとうございました」
時刻は19時10分。
最後のお客様を見送ると、冬弥は外へ出て、門を閉める。
「んにゃ」
どこからともなく、子猫が現れると、今日の仕事ぶりを労ってくれるかのように鳴き声をあげ、そして門の隙間をするりと抜けて外へ行ってしまう。
冬弥は看板をもって店内へと戻ると、バッシングを終わらせ、すべてのイスをテーブルの上にあげて掃き掃除を始める。
彩は翌日の仕込みを進めつつ、テキパキと仕事を進める冬弥に話しかける。
「今日もご苦労様でした」
「いえ、ありがとうございます」
くずを集め終わった冬弥は、ごみをまとめて捨てる。
「もうだいぶ慣れてきたんじゃない?」
「そうですね、基本的なところは大体」
冬弥はモップを掛けながら彩に返答する。
「一週間で基本がスムーズに出来れば十分よ。素晴らしいわ」
「ありがとうございます」
素直な誉め言葉を社交辞令と受け取った様子の冬弥に、彩は少し苦笑する。
こういうところは要改善ポイントなのである。
「大体終わったかしら?」
モップを片付ける冬弥をみて、作業の進捗を確認する彩。
「はい」
「それじゃあ今日もご苦労様でした」
「お疲れさまでした、お先に失礼します」
19時30分。
冬弥は緩く微笑むと、頭を下げ、2階へと向かった。
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彩さんより一足先に店を出ると、辺りは暗くなっている。
ゆっくりと坂を下る視線の先にはオフィスビルが立ち並び、その隙間から街の明かりを反射する黒い海が見える。
冬弥は今日の晩御飯は何にしようか考えつつ駅に向かうと、エキナカの食品売り場へと吸い込まれるのだった。