3 ~もやもやする冬弥~
まだちょっと重たいです。もう少しだけお付き合いください。
会社を辞めて1週間。もうすぐお盆がやってくる。
当然のことながら外は暑く、庭の手入れをする気にもなれない。
冬弥は絶賛終わりのない夏休み中である。
仕方なく外に出たのは、2回ほど。
食材を買いに徒歩10分のスーパーマーケットにとぼとぼ、汗を流しながら歩いた程度。
何もしたくないと全身に書かれているような冬弥のメンタルは、完全に、沈み切っている。
たまたま打ち水に勤しんでいた、コミュニケーションお化けの大家の陽子さんであってしても、あまりに沈んだ冬弥の表情をみて声をかけるのをためらった程であった。
朝起きて、雨戸をあける。
布団を干し、顔を洗ってパンをトースターに入れる。
テレビでニュースを流しながら、朝食を食べる。
テレビを消して猫の動画を見て――動画を見ている時だけ少し気が紛れるのだ――その後、昼食を作る。
面倒なので夕食まで作り終えてから、少し遅い昼食を食べる。昼寝する。
起きたらもう一度顔を洗ってから猫の動画を見る。
布団を取り込み、意味もなくスマホゲームをダウンロードして、大して熱中できず飽きてきたら、もう一回猫の動画を見る。
少し日が陰ってきたら、早めに雨戸を閉めて夕食の支度をする。
食後はお風呂に入り、適当になんでもいいからバラエティ番組をはしごし、就寝。
――我ながら意味のない毎日になりつつある。冬弥はそう思った。
冬弥は別に、何もしたくないわけではない。何ができるのか、わからなかっただけである。
人と直接会うのは避けたい。
会う予定もないし、そもそも誰かに、話を聞いてほしいわけでもない。
関わりたくない。
でも、このままでは生きていけないことも分かっていた。
夏の賞与を使わずに貯金に回しておいてよかった……。
冬弥は2ヶ月前の自分に感謝する。
しかしこのままではジリ貧である。とはいえ打開策もない。
「黒いもや」が見えてしまう以上、今まで通りの生活は厳しいと冬弥は考える。
「まずは、少しでも生活に変化をつけてみるか」
いつもだったら昼寝をする時間……最も暑い時間帯に冬弥は久々に縁側でコーヒーを飲むことにする。
風鈴の涼しげな音を聞きながら、コーヒーを飲んでいると、冬弥は、ふと、あの喫茶店の看板を思い出す。
『本日のおすすめ ~アイスコーヒー~ 暑さを忘れてホッと一息入れませんか?』
暑さに喘いでいるわけでもないが、ホッと一息入れたい気持ちが膨らみ始める。
久々に感じる、人としての欲求に、冬弥はすぐに向かいたくなるが、残念なことに気づき、グッと堪える。
今日は日曜日である。平日よりも人通りが多いはずだ。
▼▼▼
翌日いつもよりもスッキリと目を覚ました冬弥。
朝食後、夕食の下ごしらえまで終えてから出かける準備をする。
それでもまだ、時間があったためダイニングのイスに座って猫動画サーフィンを始める。
はた、と我に返ると予定の時間を少々過ぎてしまったことに気づく。
が、誰かと約束しているわけでもなく、あわてる必要もない。
冬弥は画面の中で猫が飛び上がるシーンまで見届けてから、立ち上がった。
「あら、冬弥君こんにちは。今日はお出かけかしら?」
外に出て、ドアに鍵をかけようとすると、大家の陽子さんが声をかけてくる。
「最近ずっと家にいるようだけど、お仕事お休みなの?」
「え、えぇまぁ」
「まあ、そうなのね。せっかくの夏休みだもの、ゆっくり休んで頂戴な」
冬弥が久々に陽子の顔を見ると、なんだか、もやが濃くなっているように感じた。
そそくさと鍵を閉めると、冬弥は陽子に会釈をし、足早に立ち去る。
「冬弥君、大丈夫かしら……」
陽子は、冬弥の小さくなっていく背中を見つめながら呟いた。
▼▼▼
冬弥の読みは正解であった。駅にさほど人は多くなく、電車も余裕で着席できる。
とはいえ、南野町駅までの間約30分。
電車が止まる度に入れ代わり立ち代わり人が動くさまを見ていると酔ってくる。
そこで冬弥は目を閉じて物思いに耽ることにした。
思い出すのは前職のこと。
冬の札幌へ連れて行ってもらったことをきっかけに、幼い頃から旅行するのが大好きだった冬弥。
どんなにチープなものであっても、旅先で催し物があると、それはもう目を輝かせていた。
温泉に連れて行けとわがままを言っていた幼少期。中学に上がって、親と一緒に歩いたり、会話をしたりすることが恥ずかしくなっても、温泉旅行と言われるとついつい、しょうがないなぁと悪態をつきながらもついて行っていた。
高校大学と進み、就職活動を重ねる中で、最後まで迷っていたのは企画側に進むのか、接客側に進むのかということ。
自分の手で様々な人に楽しい気持ちを届けたい。少しでも多くの人に。
そう考えた冬弥は最終的に小さなイベント企画会社への就職を決めたのであった。
まぁ、現実は思っていたより調整役としての立ち回りが多かった。
自身が携わったものですら、その実際に運営されている様子まで見届けることはそうそうできはしなかったのだ。
自分の希望通り会社で希望通りの配属だと思っていたにもかかわらず、徐々に意欲は落ちていき、好きだったものにもそこまで深い情熱を傾けることはなくなっていた。
気が付けば周りの様子をうかがいながら、怒られない程度の仕事をするようになっていったのである。
「良い辞め時だったのかもしれないなぁ……」
――南野町~南野町~、お出口は右側です
冬弥は先ほどまでと比べると、少しばかり軽い足取りで電車を降りる。
緑鮮やかな丘は、ひと月前と比べるとより緑を濃くしている。
あまり人の歩いていない日向の道を選び、歩みを進めると蔦でおおわれた洋館が見えてくる。
「本日のおすすめ ~ベトナムコーヒー~ 燃え上がるような甘ったるいひと時はいかが?」
「だから、売り文句が、なんかズレてるんだよなぁ」
練乳たっぷりのアイスコーヒーを夏に公園のベンチで飲むのが個人的には好き。
冬弥はツッコミを入れつつも、ベトナムコーヒーの楽しみ方を妄想する。
「にゃぁ」
可愛らしい鳴き声に足元を見てみると、看板の影で子猫がくつろいでいた。
そんなところで突っ立ってないで、さっさと店へ入れば? とでも言いたげに視線を店の扉に移すと、ゆっくりと起き上がり冬弥の足に絡みついてくる。
冬弥がしゃがんで背中を軽く撫でてやると、子猫は満足したように目を細め、先陣を切って歩き始める。
店の扉の前に子猫が陣取ると、日陰になっているスペースでまた休む子猫。
冬弥が扉を開くと流れてくる、涼しい空気にしっぽを軽く振り、見送ってくれているようだった。
ただ、人が来たら涼しい空気が流れることを知っていただけかもしれないが。
前来た時と変わらない店内。心地よい空間。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
カウンターから女店員が声をかけてくる。
お客の入りはまばら。でも不思議なことにここにいる人のもやは、とても薄いものであった。
これならゆっくり過ごせそうだ。冬弥は店の奥の席に着く。
「おしぼりをどうぞ」
女店員がおしぼりとお冷を渡してくる。もやは、かかっていなかった。
前来た時と同じ店員だ。薄い青色のレンズの丸眼鏡を鼻の先に少しずらしてかけている。
「ご注文がお決まりになられましたら、お手元のベルでお呼びください」
「あ、アイスコーヒーをお願いします」
「かしこまりました」
女店員は眼鏡をさらに下にずらして、少し不思議そうな表情をした。
メニューも見ずに注文をしたからであろうか。
とはいえ、次の瞬間には穏やかに微笑んで軽く会釈をし、カウンターへと戻っていったのだが。
様々な器具が並ぶカウンターでパタパタと用意を進める女店員を眺めながら、先ほど居た子猫のことを思い出す冬弥。
そういえば1ヶ月前にも出会った子かもしれない。それにしてはあまり成長していないような……。いや、ただ似ているだけかもしれない。どちらにしてもただ元気であればそれでよいのだが……。
冬弥は昔飼っていた猫の姿を重ねながら、つい、ふっと笑ってしまう。
「お待たせしました、アイスコーヒーです」
女店員がカラフルなタイルのコースターをテーブルに置いてから、ドリンクを渡してくる。
冬弥はカウンターに戻っていく彼女を見送ると、ミルクを少し入れ、ストローでかき混ぜる。
「おや?」
ほんのり和らいだアイスコーヒーの下のほうに、少し黒く色が浮かび上がってくる。
どうやらグラスに淡く黒色がついているらしい。
洒落たグラスを使っているなぁと思いながら、冬弥は一口飲む。
あぁ、これぞアイスコーヒーだと冬弥は思う。味に詳しいわけではないが、自宅のコーヒーとはまたちょっと違う気がする。なんだか丁寧な気がする。味に深みがある気がする。大体そんな感じ。
冬弥は視線をカウンターに移す。
ちょうど、会計を終えて女店員がテーブルを片付けて戻ってくる。手に持った盆の上には、ピンク色のグラスがある。
冬弥はコーヒーを入れるには少し似合わないと思った。
カウンターの奥の棚を見てみると、黒やピンク以外にも様々な色のグラスが飾られていることに気づいた。
冬弥が店内を見渡すと、どうやらメニューによって使い分けているわけではなく、人によってランダムに色づいたグラスを使っているようだった。
まぁ、いろいろ工夫をしているんだろうな。
冬弥はそう思いながら、興味を手元のスマホに映る猫に移す。
▼▼▼
お盆もそろそろ明ける頃、冬弥は今日も喫茶店に向かっていた。
いつもと違うのは、傘を携えていること。
本日は曇り。午後から雨。
それでも向かってしまう。今の冬弥にとって、喫茶店の魅力は非常に大きいものだった。
門を抜けると、今日の子猫はテラス席のテーブルの下で寛いでいる。
店に入り、女店員に一声かけるとテラス席へと向かう。
邪魔をしては悪いと考え、子猫から少し離れた場所に陣取ると、女店員がやってくる。
いつものごとく、おしぼりとお冷を出してくる女店員に、ベトナムコーヒーを頼む冬弥。
そしてカバンの中から旅行雑誌を取り出すのであった。
旅行に行きたいわけではないが、猫動画だけでは時間をうまく使えなくなってきたのだ。
ベトナムコーヒーを飲みながら、ペラペラとページをめくっていると、ふいに足に柔らかい感触があたる。
子猫だ。
何故か凄くなついてくれているこの子猫は、あまり大きくなる気配も見せず、かといって体調が悪そうなわけでもなく、至って元気いっぱいであった。生まれてからどれくらいたっているのであろう? 冬弥が心配そうに子猫を見つめるが、当の本人はどこ吹く風のごとく、靴をあむあむと噛んでいる。
冬弥はふぅとため息をついて、手元の雑誌に集中する。
それからしばらくすると、突然子猫がイスを伝って、テーブルの上に飛び乗ってきた。
「だめじゃないか」
冬弥が子猫を抱き上げようとすると、毛を逆立てて抗議してくる。
仕方ないと諦めて、冬弥は猫に話しかける。
「いい子にしているんだぞ」
子猫はしっぽを軽く振り、あいわかったと意思表示しているようだった。
冬弥が雑誌を閉じると子猫はゆっくりと歩きだし、雑誌の上に乗る。
そして前足でたしたしと雑誌を叩くのであった。
子猫の良くわからない行動に、不覚にも癒されてしまう冬弥。
子猫の行動は激しくなっていく、が、不思議にも爪を立てる様子はない。
何かを訴えるようにこちらを見つめながらも、一心不乱に雑誌を叩きまくる子猫に見とれていると、雨が降ってきた。
「ごめんけど、これ返してな」
冬弥は子猫に断りを入れてから荷物をまとめ、店内へと移動するのであった。