第287話 魔王の恐怖
大国ノムゲイルとシュールミットの連合軍約十万は進軍を開始した。
普通に戦えばノムゲイルとシュールミットの軍勢はどちらの軍勢にも勝ち目はない。
だが、その相手が疲弊しているならば話は別だ。
デストリーネとの戦闘に勝利した大連合は無傷で済むわけがなく多大な損害を出し疲弊している。
この時をノムゲイル王は待っていた。
始まった進軍は順調そのものだ。
疲弊したボワール軍は一戦も交えることもなく忽ちデストリーネの王城に撤退してしまった。
大国が戦わずして逃げるという事実に兵たちの士気は高くなる一方だ。
この機を逃さずに城攻めの足掛かりになる砦を奪取した後も休むことなく一気に進軍を続けていた。
この際、進軍による兵の疲労など考えている場合ではない。
敵が疲弊している間にデストリーネを陥落させる。
大軍を率いる中年の男ノムゲイル王はそうしてこの世を統べる野望を抱いていた。
(シュールミット王の弟に目を付け誑かしこちらの味方に付けたのは正解だった。奴は儂の類する野望を持っておる。良いぞ。全てが儂の手の上で動いておるわ!)
敵は疲弊し自軍の士気は高い。
こうなった今、もはや勝利の未来しか見えない。
だが、その野望は一瞬で砕かれる。
始まりは一つの異変だった。
「な、なんだ!?」
デストリーネの王城がようやく薄らと見えたときだった。
突如として軍勢の上空に巨大な黒の球体が出現したのだ。
ざわざわとそれに気が付いた兵たちの声が広がっていく。
その声が絶叫や悲鳴に変わるまでそう時間は掛からなかった。
黒の大球はその兵たちの中心に落下を始める。
「「うわああああああ!!」」
その大球に不吉な何かを感じた兵たちは急いで逃げ出すが間に合わずに黒に呑み込まれていく。
そして、大球は地面に衝突するなり弾け飛んだ。
「……嘘だろ」
ノムゲイル王はただ呆然とその光景を眺めることしかできずにいた。
弾け飛んだ大球の跡には何も残っていなかった。
もちろん、そこには呑み込まれた兵たちの姿はない。
数百人を一瞬にして無に帰してしまったのだ。
悲鳴や絶叫が響くがはっと我に戻ったノムゲイル王は怒号を放つ。
「狼狽えるな!!」
だが、そんなノムゲイル王の内心も穏やかではない。
いち早く我を取り戻したのは良いが何が起きているのか全く理解が追いついていなかった。
(な、何が起きている。全て順調に進んでいたはず。……!! まさか、敵)
そのとき、兵たちの視線の動きに気が付いた。
まるでこの世の終わりかのような絶望を抱いた瞳で見詰め雰囲気も頂点まで昇っていた士気が一気に下がっている。
ノムゲイル王もすぐさま上を向く。
そこには悪魔がいた。
比喩ではない。
その姿は本当に物語でしか聞いたことも見たこともない悪魔だった。
黒の長髪に黒に染まった両翼、口元は黒い靄をマスクのように纏っているがその靄は牙も模して伸ばしている。
腰からは鱗が纏っている黒の尾が伸びていた。
「……何者だ」
声が届く距離ではないがノムゲイル王は思わずそう呟いた。
だが、丁度良くその悪魔から大声が放たれた。
「我が名はジョーカー!! 我の居城に攻めかかるゴミどもが。全て消し炭にしてくれる!!」
すると、その悪魔は突然として左手に大太刀を出現させた。
刀身は長く悪魔に相応しい黒であり鍔部分は豪勢な装飾が飾られている。
だが、見世物だけの剣ではないと誰もがすぐに理解した。
「好きにさせるな!! 敵は一人だ!! 矢を放て!! 攻めかかれ!!」
無数の矢がジョーカーに降り注ぐ。
だが、その矢はジョーカーに触れる前に消え去ってしまった。
「……大連合どもは一体何を相手にしているのだ。勝ったのではないのか」
しかし、ここで引くわけにはいかないとぐっと拳を握りしめる。
ノムゲイル王もまた決戦を挑んでこの場にいる。
殆ど無傷の兵を率いているのにまともな戦いを演じずに逃げ出すのは後々の配下たちの忠誠に罅が入ってしまう。
だが、迂闊に攻めることができないのも事実。
そのとき、ジョーカーは大太刀を大きく振りかぶりすぐ真下に放つ。
黒の斬撃が勢いを衰えることなく突き進みその付近にいた兵たちを黒く染め灰に変えてしまう。
信じられないその光景に恐怖で身が竦み身体が固まってしまうノムゲイル王。
(なぜ、こうも簡単に人の命が……)
ノムゲイルが誇る屈強な戦士たちが剣を交えることもなく灰となって消えていく。
まさに生物の天敵。
そして、ジョーカーは地面に降り立った。
兵たちも恐れを抱えながらも槍を構えて突撃していく。
どちらにせよ、倒さなければ死ぬと分かっているからだ。
その勇気を口にはしないがノムゲイル王は称賛する。
だが、絶望はこれからが始まりだった。
ジョーカーは一人の兵の槍を灰に変え右手で顔を掴む。
一瞬にして灰に変える。
「ひいいいいい!!」
「この化け物が!!」
絶叫や怒号が響くがそれでも怯まずに立ち向かう者たちはいる。
そして、瞬く間にジョーカーを取り囲んだ。
それに負けじとシュールミットも兵を出す。
だが、ジョーカーは何も気にした様子はなく走り出し一点突破を仕掛けてくる。
衝突した兵を次々と灰に変えていく。
しかし、一瞬で灰に変えられ死んだ者はまだ幸運と言える。
少しだけ魔力に触れてしまい黒く染まり始めた者は想像を絶するような激痛に苛まれた後に灰に変わってしまうからだ。
「無理だ!」
「勝てるわけがない!!」
「逃げるな! 一気に攻めろ!!」
どんどんと逃げる兵が後を絶たない。
前線に出ている兵隊長たちが止めるがその声を振り切っていく。
ノムゲイル王は戦えとは言えなかった。
どうやっても勝てない。
ただ、その一言が脳裏を離れなかった。
だが、奇跡が起きた。
「この化け物が!!」
そのとき、一人の戦士がジョーカーの背後から剣を突き刺した。
「おお!! やったか!!」
それを見た何人もの兵たちがここぞとばかりに一斉に槍を突き刺していく。
ノムゲイル王に久しぶりの笑顔が戻る。
最初に剣を突き刺した者はノムゲイルの戦士長だ。
剣術においてはかの最強と呼ばれたデストリーネの騎士団長であるハルザードを凌ぐ実力を持っていると言われているほどだ。
かの者が出たとあれば勝利は確実だとノムゲイル王は疑わなかった。
だが、その希望も一瞬にして失われた。
「は?」
ジョーカーの大太刀から全方向に黒の波動が駆け抜けたと思ったらそのすぐ側にいた兵たちの姿が一瞬にして消えてしまったのだ。
希望を寄せていた戦士長とともに。
「あ、あああああ」
絶望が希望を上回った瞬間だった。
ノムゲイル王は自身の失敗をようやく悟った。
ジョーカーに突き刺さっていた武器も灰となって消失する。
そして、止めの一撃が放たれた。
ジョーカーは大太刀を大きく構えるとそこに魔力を溜める。
そして、大きく横に振った。
「“悪夢の楔”」
斬撃はの黒の大津波となって軍勢を前方の軍勢の全てを呑み込んでしまったのだ。
呑み込まれた者たちから轟く悲鳴は一切聞こえてこない。
つまり、そういうことだろう。
だが、大津波はそれだけに止まらずにさらに呑み込もうと一気に押し寄せてきた。
それはノムゲイル王の心を挫くのに十分過ぎる光景だった。
「撤退じゃ!! 急げ!!」
その声が響いた瞬間に兵たちの覚悟も解けジョーカーに背を向けて逃げ出した。
ノムゲイル王は馬を走らせて急いで逃げ続ける。
前線に出ている兵たちがどれだけ付いてきているかも定かではない。
「あんな化け物。人間が勝てるはずがない!!」
このジョーカーによって合計三万の死傷者という大打撃をノムゲイルとシュールミットは受けたのだ。
去って行く軍勢を見てジョーカーは大太刀に溜めていた魔力を解除する。
そして、全てに轟く大声を放った。
「アッハッハッハッハ!! 我はこの世に恐怖と絶望を与えてやる。覚えておけ!!」
そう言い残してジョーカーは姿を消した。
単騎で数万の兵を易々と壊滅させたこの悪魔を世は“魔王”と称した。




