第281話 天神
玉座の間。
そこは先程まで戦闘が行われていたとは思わないほど静寂に包まれていた。
ナーシャは黙って目の前の光景を眺めている。
だが、それは言葉が出ないだけだ。
玉座付近で崩れ落ちるフレイシア。
そのすぐ上に浮かんでいる黒血塗れのウェルム。
右手には赤黒い何かを握りしめていた。
その指の隙間や掌からはみ出た赤い雫がポタポタと滴っている。
ナーシャは何が何だか全く理解が追いついていない。
(ウェルムが……フレイシアの胸を突き刺して……もう!! どうなっているの!?)
そのとき、満身創痍で激しく息を切らしながらもウェルムは笑みを浮かべてその右手に持つ何かをグッと強く握りしめた。
すると、始めは右手。
そして、全身に直視できない程の光が広がった。
次々と理解が追いつかないまま進んでいく状況にナーシャは狼狽えてしまう。
だが、自分が今すぐにすべき事は心得ている。
「全くわけが分からないけど……今がチャンスね!」
ナーシャは走り出した。
それは無防備に輝くウェルムに攻撃するわけではない。
刀は既に腰に携えている鞘に収めている。
ナーシャの目的はただ一つ。
玉座近くで倒れてゴホゴホと尋常でない量の血を吐き出し続けているフレイシアの救出だ。
無事に目の前に近づくとすぐさま抱きかかえた。
フレイシアに意識はなく抱きかかえたときも力なくぐったりとしている。
そして、傷の状態を確認しようと身体を眺めていく。
すると、左胸部分にぽっかりと血で奥が暗く見えないほどの穴が空いていた。
完全な致命傷だ。
自分を慕って姉と呼んでくれる妹の悲惨な姿にナーシャは思わず涙を零しそうになる。
「……フレイシア。駄目よ」
だが、ここで泣いていても何も変わらない。
ナーシャはぐっと堪え、未だに輝きを放っているウェルムから距離を取った。
「だけど……どうして」
本来ならば“再生”を宿しているフレイシアはこの大怪我をも即座に治す。
だが、自己再生が始まるような兆候は全く見えなかった。
「この穴、まさか心臓を……」
フレイシアの心臓に“再生”が宿っていることはナーシャも知っている。
そして、結論に辿り着く
「心臓を奪われ……紋章もなくなった!?」
ナーシャはこの場から一刻も早く立ち去ろうとしていたが急遽足を止めてフレイシアをその場に寝かせる。
そして、いざフレイシアの治療を始めようとしたときナーシャの手は止まってしまった。
いや、フレイシアを助けるため手を動かそうとはしているが何をすれば良いのか分からずに手が震えているのだ。
そもそも、この傷では治療を行ったところで助かる確証はないに等しい。
それに回復魔法の知識もない自分が行ったところで悪化するだけではないのかともナーシャの脳裏を過ぎる。
だが、すぐに覚悟を決めた。
「……やるしかないわね」
今すぐにどんな粗末な治療でもしなければフレイシアの命は確実に尽きてしまう。
その事実はナーシャにとって一つしかない選択肢を決断させるには十分だった。
両手を魔力で包み込みゆっくりとフレイシアの身体に空いた穴にそっと入れていく。
ナーシャに回復魔法だけではなく医療の知識もないに等しい。
だが、流石に心臓の主な役割ぐらいは知っている。
そんな素人ながら考えたことは「心臓がなくなったのなら代わりに血を送ればいいじゃない」だ。
ナーシャは血流の操作を初めて試みて心臓の役割を自身の魔力で補い血を送っていく。
しかし、そんな土壇場なことが上手くいくはずがない。
操作が上手くいかず外に漏れ出る血の量も多い。
みるみると目で分かるほどにフレイシアの顔色も悪くなっていく。
「……もう! デルフはなにやってんのよ! あんたの主でしょ! あんたが助けなくてどうするのよ!」
怒鳴り声を放つナーシャはポロポロと涙を零し始める。
上手くいかない血流操作を行っている手は焦りからかプルプルと震えていた。
ウェルムただ一人がこの場に現われ、肝心のデルフは一向にやってくる気配はない。
その事実からナーシャが考えられることは一つしかなかった。
それはデルフの敗北だ。
「嘘よ……デルフ、フレイシア。姉を残して先に行くなんて許さない……から」
顔色だけではなく徐々にフレイシアの呼吸は浅くなりつつありナーシャは必死に続けるが回復している兆しはない。
今していることは間近に迫った死を少し遅らせているに過ぎなかった。
そのとき、玉座のすぐ上で輝き続けていた光が弾け飛んだ。
「!?」
ばっと反射的にナーシャは振り向く。
その中から見せたウェルムの姿はまるっきり別人だった。
髪色は白に変貌し純白に輝く軍服を身につけている。
何より神々しい白の魔力を宿していた。
そして、背からは白の両翼が出現し大きく開く。
翼をはためかせ優雅に着地するその姿はまさに天使その物であった。
「ようやく、ようやくだ。私は返り咲いたぞ。この魔力! この力! これが天神の力だ!」
凄まじい魔力が波動となって全方向に吹き荒れる。
ナーシャはその魔力に晒されて思わず身震いしてしまう。
絶望が具現化し目の前に現われたような錯覚に陥っている。
今すぐにもこの場から逃げ出したい。
だが、すぐに臆病風に吹かれた自分の気持ちに叱咤する。
(駄目よ! 私だけなの! フレイシアを助けられるのは! ……こんなこと考えるなんて姉失格ね)
そして、ナーシャはゆっくりと眠るフレイシアに優しく囁く。
「大丈夫、私に任せて」
そんな光景に気が付いたウェルムは少し考える。
「天神となった私に敵などいない。だが、念には念だ。お前たちの希望を完全に絶やしてくれる!」
そう言ってウェルムは地面を蹴らずに翼で浮かび一気に眠るフレイシアに止めを刺そうと向かってきた。
「くっ……!! もう!! なんで邪魔するのよ!!」
しかし、ナーシャに迎え撃つなんてことはできない。
今のフレイシアはナーシャの稚拙な血流操作によって辛うじて命を繋いでいる状況だ。
少しでも手を離せば間違いなくフレイシアは死んでしまう。
だが、このままでも確実にウェルムに殺される。
どちらを選んでも向かう先はフレイシアの死だ。
ナーシャは死の板挟みに遭い頭が真っ白になる。
「ど、どうすれば良いのよ!!」
そのとき、フレイシアの身体が突如として輝きを放ち始めた。
「え? な、今度はな、なによ!!」
だが、驚いたのはウェルムも同じだ。
「紋章は失ったはず……死にかけの小娘にこのような魔力が?」
驚きはしているがそれでもウェルムの動きは止まらない。
何があろうと天神には問題はないからだ。
それだけの力が天神にはある。
その輝きはしばらくするとフレイシアから分離した。
同時に衝撃が放たれ向かってくるウェルムを吹き飛ばしたのだ。
「くっ、私を吹き飛ばすとは何が……!?」
ウェルムが前を向いたとき驚きを隠せない顔をしていた。
だが、すぐに合点がいったらしく笑みを浮かべる。
「……あなたでしたか。母上。今更、何のご用でしょうか?」
フレイシアとナーシャのすぐ横。
分離した光が形作り派手なローブを身につけた一人の女性の姿にへと変貌した。
大魔術師ケイドフィーア。
ケイドフィーアはウェルムの姿を見て暗い表情になる。
「やはり、こうなりましたか」
そして、すぐにナーシャとフレイシアに顔を向けた。
「祠で僅かな魔力を託したのが功を奏しました」
ケイドフィーアはそう言うなり人差し指を素早く動かし魔力で何やら文字を書き始めた。
その文字は宙に浮かび続け数秒で書き終えるとくいっと指を動かす。
すると、その文字はナーシャの頭に入っていく。
「な、何?」
そのとき、ナーシャの頭の中に血流操作についての知識がドバーッと流れ込んできた。
あまりの情報量に頭痛が激しく鼻が熱くなるのを感じる。
「身体に負荷がかかる強引な方法ですが……。時間がないので耐えてください。早くフレイシアさんの治療に」
ナーシャは何も聞かずに頷いた。
深く考えることは止め簡単に考えることにする。
つまり、ここで一番大事なことは味方が増えたと言うことだ。
ナーシャは新たに得た知識を用いて血流操作を行う。
まるで元から自分の魔法だったかのように身体が勝手に動く。
先程までは粗っぽく血が体外飛び出したりもしていたが今は繊細で一つの無駄もなくなっている。
次第にフレイシアの顔色も良くなり安定を取り戻した。
しかし、これはあくまで延命措置で完全な回復には繋がらない。
どうにかして根本的な治療法を考える必要がある。
「だけど、そんな方法あるの……」
少し弱気になり始めるナーシャ。
それもそのはず、デルフは倒され見当も付かない治療方法。
さらには最強の敵。
当然だがフレイシアの延命を諦めるまではいかないが先が全く見えないことに不安がないはずがない。
「ナーシャさん。諦めないでください。まだ、負けてはいません」
ウェルムと対峙するケイドフィーアがそう言った。
そして、続けてナーシャを勇気付ける核心の一言を放つ。
「ジョーカー、デルフさんは生きています」
「本当!?」
「どうやら厄介な術にかかっているようですが……あの方なら問題ないでしょう。とにかく、私たちがしなければならないことは耐え忍ぶこと」
そう言って再びウェルムに視線を戻すケイドフィーア。
「ふふふ、母上、私と戦うつもりですか? まさか勝てるとお思いですか!?」
勝利を確信しているウェルムに潔くケイドフィーアは頷いた。
「確かに今の私では足下にも及びません。全盛期の私でも勝ち目はないでしょう」
「それをお分かりで刃向かうとは……。今のあなたを倒しても何の意味もありませんが。私の邪魔をするならば仕方ありません。精々足掻いてみることですね」
だが、ケイドフィーアは首を振る。
「いえ、私は戦うつもりはありません。ナーシャさんの手助けをしなければなりませんからね」
「手助け? 必要ないわ。この通り……あれ?」
そのとき、ナーシャは酷い目眩を感じた。
だが、すぐにケイドフィーアがナーシャの肩に手を置くとその目眩は完全に消え失せた。
「何だったの?」
「魔力欠乏です。あなたの想像以上にこの魔法は魔力を消費するのですよ」
「……夢中で気が付かなかったわ」
ナーシャは集中して自身の魔力を確認すると途轍もない速度で減少していた。
だが、その減少した魔力はケイドフィーアの手によって瞬く間に満たされる。
「これは一人じゃ難しいわね。というかこれで全盛期じゃないって……いや、今は集中!」
ナーシャは余計な考えを振り払い再び治療に専念する。
「母上、この姿、この魔力を前にしてもまだお認めになりませんか?」
「ウェルム、違うのです。一人が強大な力を持っても世界は安定しません! あなたは私が目指したものとは似ても似つかない道へと向かっているのです! 気付いてください。一人の力には限界があるのです!」
だが、完全無欠の力を持ったウェルムには母であるケイドフィーアの言葉すら耳に入らない。
「結果こそ全てですよ。母上」
そう言うがすぐに溜め息を零すウェルム。
「まぁいいでしょう。結果を見れば母上も納得せずにはいられない。さて、母上はその小娘の治療の手伝いと言いましたが、それでどうやって私を止めることができますか!?」
返答を待たずにウェルムは一気に突撃する。
ケイドフィーアはナーシャの肩に乗せている逆の手を使い魔方陣を浮かび上がらせる。
そして、衝撃を放ちウェルムを後ろに飛ばす。
「この程度!! ダメージにもなりません!!」
再び衝撃を放とうとするケイドフィーアだがその手を下ろしてしまった。
「ようやく分かったようですね!! 抵抗に意味はないと!」
「違います」
「?」
「あなたの相手は私ではありません」
「どういう……」
「私が考えていた以上にジョーカーの力は強大。そして、それに連なる灯火はまだ消えていないということです!」
そのとき、この場は真っ白な光に包まれた。
急激な発光に目を開けていた誰もが視界を奪われてしまう。
だが、その発光は数秒だけだった。
しかし、その数秒があれば繰り出せる攻撃手段など数多にある。
「何が……ん?」
ウェルムが身体の違和感に気が付き目を向けるとその胴体が斜めに切り裂かれており赤い血が噴き出したのだ。
だが、その傷は一瞬で何事もなかった様に塞がってしまう。
「何者だ?」
この場には新たな人物が剣を抜いてウェルムと対峙していた。
それは黒鎧を装着したデルフの弟子であるクロークだった。




