第260話 トモニカエロウ
ノクサリオは戦闘の始めから今までずっと黙って見ていた。
何度、アクルガの言いつけを無視して向かおうとしたか。
今も歯噛みして傷だらけになりながらもヴィールに近づいていくアクルガを一切目を離さずに見守り続けている。
とうの昔に我慢の限界を超えているが動こうとしないのはアクルガを思ってのことだ。
今、アクルガは過去の後悔という鎖からようやく抜け出そうとしている最中。
デルフとの再会で吹っ切れたように見えたがそれでも完全には払拭できていない。
アクルガが過去と決別するにはこれは避けては通れない道。
どうしてそれを邪魔できるだろうか。
そんな意味ではノクサリオも自身の葛藤と戦い続けていると言えるだろう。
ゆっくりと一歩ずつ、しっかりと踏みしめてアクルガは歩を進める。
「あなたたちが……私は……あのとき……悪いんだ!」
ヴィールの頭の中は混濁しており言葉が繋がっていない。
そのとき、徐々に近づいてくるアクルガが目に入った。
「く、来るな!!」
地面に落ちていた空切りが急に動き出してアクルガの周囲を飛び回り始めた。
だが、空切りは一度もアクルガに触れることはなかった。
別に避けているわけでもなく防いでいるわけでもない。
そもそも、アクルガの魔力は先程の一撃で既に尽きている。
重傷も負っている。
避けることも防ぐことも今のアクルガにはできない。
なら、なぜか。
「なんで……当たらないの! がっ……痛ッ!!」
ヴィールは片手で頭を抑える。
意図的にそうしているかのように空切りの破片はアクルガに触れる直前に軌道が逸れていたのだ。
しかし、無傷というわけではない。
空切りの周囲には空気の刃が飛び交っていることを忘れてはならない。
傷だらけのアクルガの身体がさらに切り裂かれていく。
だが、ヴィールも心身共に限界が近く空切りの威力は一段と落ちていた。
この程度ではアクルガは止まらない。
「こ、来ないでよ! なんで、なんで止まらないの! あなたが近づく度、頭が痛くなるのよ!! あああ!!」
徐々に瞳に色が戻りつつあるヴィール。
つまり、“真なる心臓”の支配から抜け出しつつあるということだ。
そのとき、周囲に飛び交っていた空切りの破片の一つがアクルガの鉄のマスクに直撃した。
固定していた金具が外れて跳ね飛ぶマスク。
「…………」
同時に今までずっと続いていたヴィールの念仏のような小言が突然止んだ。
ただ、ヴィールはアクルガを呆然と眺めていた。
正確にはマスクが外れたことにより露わになった部分だ。
喉にある痣となった大きな傷跡と頬を横に一直線に伸びた斬り傷の跡。
ヴィールは言葉が出せずに額から一筋の汗が垂れる。
それでもブンブンと首を振り殺気を込めた視線でアクルガに言い放つ。
「あなたたちがいなければガンテツは…………違う!!」
すぐさま自身の言葉を否定する。
「!!」
そこでアクルガは気が付いた。
ヴィールの瞳の色が完全に戻ったことに。
その両目には雫が溜まり、ポロポロと零れ始めた。
「違う違う違う違う!!」
両手で頭を抱えながら俯き首を何度も振るヴィール。
「……分かっていたの!! これは間違った記憶。……だけど、これに縋るしか私には……ああああああああああああああ!!」
ヴィールが泣き崩れ、空切りの欠片は力なく地面に落ちる。
「……アクルガ、あなたと一緒よ。私も……、何もできなかった。……これも違うわね。あなた以上にできなかったの」
「チガウ! オマ……エハ、ガッ!! ゴホゴホ!! ハァハァ」
声を張り上げたアクルガだったが声も掠れ呼吸も荒くなり始めた。
挑戦の森での戦闘で負った傷の後遺症でアクルガは喉が潰れ肺も大きく損傷している。
傷こそは塞がったが完治には程遠い。
あの鉄のマスクは拡声器と呼吸を補助する役割がある。
つまり、マスクがなければアクルガは呼吸困難で命の危険があるということだ。
「アクルガ!! 喋るな!! 今、マスクを!」
だが、アクルガはそのノクサリオの言葉を無視して辿々しく言葉を紡ぐ。
「アノトキ、オマエハ、ヒトリデ、ムカッテイッタ……。アタシ、ハ、デキナカッタ。ゴホ! ゴホゴホ! ハァハァ……」
アクルガの口から咳混じりに血が飛び出した。
呼吸も尋常ではないほど荒くなり目が霞んでおり焦点が合っていない。
それでも口と足を動かすのを止めない。
「ミステタ、ト、オナジダ。セメラレル、ノハ、トウゼンダ」
「違う! あれはガンテツが自分で望んだこと。誰かが犠牲にならなければ皆、死んでいた。だけど、私がそれを裏切って……裏切って?」
そのとき、ヴィールは何かに気が付いたように急に黙り込む。
同時に瞳の色がまた暗くなり始めた。
だが、それは“真なる心臓”の制御が復活したからではない。
ただの自責の念によるものだった。
「そうだ。裏切ったのはあなたたちじゃなかった。……私だったんだ」
すると、地面に落ちていた空切りの破片の一つが息を吹き返したようにぷるぷると震えだし金切り声のような音が発し始めた。
そして、浮き上がり豪速で飛び始める。
向かう先はアクルガ、でなくヴィール自身の首だった。
「まさか!! 馬鹿野郎!!」
アクルガのマスクを片手に持ったノクサリオはその動きに気付き大声を上げる。
「今、行くね。ガンテツ。私のことちゃんと怒ってね……」
ヴィールは空に顔を向けてゆっくりと目を瞑る。
だが、ヴィールの首まで空切りは辿り着かなかった。
アクルガの隣を通り過ぎようとした空切りの破片は急に上から何かに包み込まれた。
同時に周囲に赤い雫が降り注いだ。
アクルガが空切りの破片を右手で鷲掴みしたのだ。
しかし、アクルガは魔力は微塵も残っていない。
文字通り、ただの手掴みだ。
「なっ……」
「えっ……」
周囲に降り注いだ赤い雫の正体は鷲掴みした右手から血が絶え間なく噴出し続ける血だ。
皮膚が裂け続け、ついには握る中指もぽとっと地面に落ちた。
「なんで……」
アクルガはようやく音が鳴り止んだ空切りを地面に落とす。
さらに空切りと一緒に何かが細長い物も落ちていく。
それは残りの四本の指だった。
液体が地面に落ちる生々しい乾いた音が鳴る。
しかし、アクルガの瞳は揺るぐことなく顔色も一切変わっていない。
だが、それでも激痛で動けずにただ耐えて立ち尽くしている。
「グッ……!?」
そのとき、アクルガの周囲に白い煙が漂い始めて包み込んだ。
少しではあるが痛みが引いていく。
「……」
アクルガは目だけを動かしてノクサリオを見ると煙はそこから発生していた。
「せめてこれぐらいはさせてくれ」
アクルガは今にも閉じそうな目で言葉には出さずに礼を伝える。
普通ならば通じないだろうが長年の付き合いであるノクサリオには容易に伝わっただろう。
そして、改めて前を向いて足を引きずりながら進み始める。
ヴィールは呆然と信じられないといった眼差しでアクルガを見続けていた。
「ど、どうして? 私が悪いのに……あなたたちを傷付けたのに。なんで、なんで死なせてくれないの」
その言葉に間髪入れずにアクルガは答える。
「イッタダロ。ムカエニ、キタト。シナレタラ、アタシガ、コマル」
「で、でも……!?」
ヴィールは俯いて言い返そうとするが頭上に影が差し掛かった。
アクルガがヴィールの目の前にまで到達していたのだ。
「ハァハァ……」
呼吸がさらに荒くなりアクルガの身体は蹌踉めく。
そして、僅かに残っていた足の力が抜けて倒れるようにヴィールの肩にもたれ掛かった。
今にも意識が失おうとする寸前、残る力を振り絞り言葉を紡ぐ。
「アトデ……キイテヤル。トモニ、カエルゾ」
耳元で囁かれたその言葉はヴィールの心に深く突き刺さる。
歪んだヴィールの顔からポロポロと涙が零れる。
「うん、うん!」




