第192話 奥に潜む獣
アリルは視線を横に向けるとソナタの手刀が頬を切り裂いていた。
ただの手刀ではなくその先には刃物のような長い爪が不気味な輝きを放っている。
「やっぱりこうなりますか……」
アリルは舌打ち混じりに距離を取る。
改めてソナタの姿を見るがかなりの変化を遂げていた。
爪が鋭利に伸びていることは既に身をもって知らされたがさらに歯も尖っている。
瞳はギラギラと赤く輝き今にも襲いかかってきそうに唸り声を上げていた。
「分かっていましたが意識はないようですね」
そして、ソナタの全身から途轍もない魔力が放出されていた。
「この魔力の感じ……デルフ様と近い」
先程までは何となく似ているという感じであったが今は殆ど同じ。
つまり天人に近い存在ということだ。
平常時よりも禍々しい雰囲気がソナタを包み込んでいる。
(あの爪、肉体そのものが凶器と思った方が良いですね)
ソナタは武器は食事前に身につけていた武器を外していたため攻撃方法は素手のみで対処は簡単とアリルは踏んでいたがそれは甘い考えだった。
(一筋縄ではいかないようです)
そのとき、ようやくソナタに動きがあった。
伸びていた爪を引っ込めて大きく地面を蹴る。
(!?)
アリルが気が付いた時には目の前で足を踏み込んでいた。
突撃してきた勢いのまま大きく腰を回して拳を放ってくる。
何とか両手を交差させて防御を取るが衝撃までは殺せない。
(この力は……)
弾き飛ばされ地面に何度も叩きつけられながら転んでいく。
だが、それで終わるアリルではない。
勢いが衰えることなく転んでいる最中に地面を蹴り真上に飛び上がった。
すぐに体勢を整えソナタとの距離を確かめるが……
「!? いない……」
上空から見渡してソナタの姿を探すが完全に失せていた。
そのとき、視界が真っ暗になる。
気が付いた時には全身に鈍い痛みが駆け巡ってくる。
分かることは自分は今地面に叩きつけられたということだけだ。
「一体……ぐっ」
激しい頭痛が状況を理解しようとする考えを邪魔してくる。
気を抜けばまた意識が途切れてしまうかと思うほどの痛みだ。
痛みに耐えながらアリルは空に顔を向けると何があったか考えるまでもなく明らかだった。
「なるほど……速いですね」
アリルは先程まで自分がいた位置にソナタの姿を発見し苦笑いをする。
上空に向かってアリルが飛んだと同時にソナタは背後を取り叩き落としたというわけだ。
「まさに闘争本能のみで動く獣同然……攻撃に一切の洗練さがなく杜撰さ。しかし、脅威であることに変わりありません」
単純な力のみの攻めはアリルが得意とする相手だ。
しかし、それは武器である短剣があっての話。
弾き飛ばされたことにより短剣から遠ざかってしまったのだ。
「僕としたことが油断してしまうとは……。意図せずとはいえお嬢様から離れることができたのは良しとしますが、武器がなく倒せるかどうか」
アリルは両手に魔力を込める。
いつもと変わらない所作であるが久しぶりの感覚に襲われた。
「牢にいたときの事を思い出しますね。……奇遇なことに前まで僕も爪が武器でした」
爪に魔力を込めたと同時にソナタが宙を蹴って加速を開始した。
アリルはそれを迎え撃つ。
ソナタが間合いに入ると魔力を注ぎ込んだ右手の爪を全力で振る。
それに合わせてソナタも爪を再び伸ばし豪速に振ってきた。
両者の爪が怒号を立ててぶつかり合う。
しばらく火花を生じるほどの威力で力が拮抗していた。
だが、その拮抗もそう長くは続かなかった。
「!?」
ソナタの全身に血管が浮き上がるや力が急激に増幅したのだ。
「これは不味い……」
そして、ついにアリルが押し負けてしまった。
堪らずにアリルは後ろに下がった。
「くっ、不利な状況で手傷を負ってしまいましたか」
何とか寸前で致命傷を避けることはできたが肩から腕にかけて四本に並んだ傷から血が流れ出ている。
さらには押し負けたことによりアリルの右手の爪が剥がれ落ち激痛から指の感覚が失われていた。
(やはり、爪では切れ味が全くありません。短剣があってようやく互角。ただ、短剣はお嬢様の近く。お嬢様を危険にさらすわけにはいきません)
アリルは現状で何とかするしかないと決断する。
だが、そのときアリルの目の前に二本の短刀が現われた。
「これは……」
それはまさしくアリルの短剣だった。
アリルは横を振り向くと目覚めていたヨソラが立っていた。
「アリル!!」
「ありがとうございます!!」
アリルは短剣二本を掴み強く握りしめる。
右手の負傷は激しいが戦えないほどではない。
アリルも精神を研ぎ澄ましてこの戦闘のみに集中する。
(全てをこの剣、一点に集中させる)
デルフを尊敬しているソナタに対して本気で攻撃するつもりはなかったがもはやソナタに心はなく暴れるだけの動物、いや魔物に成り下がった。
手加減などすれば確実に殺されてしまう。
アリルは全力でソナタを倒すために魔法を練り上げ両手の短剣を回転させる。
思い描くのは今までの経験の数々。
自らの失敗、強者の魔法など。
そこから学び密かに鍛錬していた技を発動させる。
「“暴風雨”」
瞬く間に短剣を持った両手に風の渦が出現し覆い尽くしてしまう。
前までなら出現させてすぐに放っていた。
それがアリルの技である“旋風”だ。
だが、この“暴風雨”は放つのではなくその場に留めている。
その緻密な調整や放出し続ける魔力量は“旋風”の比ではない。
しかし、この風の付与によって攻撃の幅はかなり広がった。
アリルはさらに足にも風を纏わせる。
「行きます」
大きく地面を蹴りソナタに急速に近づくアリル。
風を纏わせた右手の短剣を振りソナタはそれを左手の爪で塞いできた。
「やはり、その爪。普通の強度ではありませんね」
“暴風雨”を纏ったアリルの剣でも切断には至らなかった。
もはや、ソナタの爪はかなりの業物の剣だと思っておいた方が良いだろう。
血走った目でアリルを睨み付けるソナタ。
だが、アリルは悪戯な笑みを浮かべる。
「同じ手は通じません!!」
短剣に纏って回転している風がさらに速度を増していく。
すると、目に見えないほど高速になったとき周囲に斬撃を飛ばし始めた。
この技は周囲を無差別に攻撃する“笹時雨”だ。
そこでアリルはさらに“旋風”を使う。
つまり、ソナタが受け止めているのはアリルの短剣ではなく小さな竜巻になったのだ。
まさにこの“暴風雨”はアリルの技の集大成の技だ。
「ガラ空きですよ!!」
旋風と入れ替わり自由の身となったアリルはソナタの背後に回り腹部に短剣を突き刺そうとする。
これで勝負は決した。
アリルはそう判断した。
だが、ソナタはなんと人間とは思えない角度で首だけを動かしたのだ。
そして、大きく口を開けた。
ギラギラと鋭利に輝く歯がアリルの目に入る。
(はぁ!? 何ですか!! それは!!)
そして、ソナタはアリルの肩に大きく噛みついてきた。
「くっ!!」
鋭利に変わった歯が肩に食い込んでいきアリルの顔が歪む。
歯を食いしばって必死に激痛を耐える。
(ま、まさか旋風を無視するなんて……)
さらにソナタの顎に力が入りそのままアリルの肩を食いちぎってしまう。
それだけに止まらず追撃と言わんばかりにソナタの蹴りがアリルの鳩尾に食い込み大きく弾き飛ばされてしまった。
だが、ソナタも旋風を無視した報いを受けることになる。
抵抗がなくなった旋風はソナタを包み込み身体の自由を奪う。
凄まじい回転に飲み込まれ地面を削り突き進み、その間無数の真空の刃がソナタを刻む。
やがて、旋風が消失したときには赤い血で染まったソナタが倒れていた。
アリルもまだ何とか意識は残っており立ち上がるがもはや戦うことは難しいだろう。
肩から溢れるほどの血が噴き出す。
さらに腹部に受けた蹴りによって骨は何本も折れていることはすぐに分かった。
(あれほど油断は禁物と言い聞かせていたのにもかかわらず油断した僕にも非はありますが、無視しますか!? 普通!!)
終わらない痛みに悶えるアリル。
だが、まだ勝負は終わっていなかった。
倒れていたソナタが立ち上がったのだ。
そして、徐に片手を腰に移動させる。
触れたのは黒い長方形の塊だった。
「ニヒイィィィィ」
顔を歪ませ不気味な笑みを浮かべるソナタ。
アリルの攻撃を受けて完全に壊れた怪物となってしまった。
(本当に狂ってしまったようですね……)
ソナタは黒い塊に触れた手に魔力を集中させる
すると、黒い塊に罅が入り元の形を取り戻していく。
完全に変形を終えたときソナタが持っていたのは三日月のような大きな鎌だった。
それをぶんぶんと振り回してやがてアリルに目を向けた。
ゆっくりと歩き始めアリルの目の前に立つ。
(身体は動かない。これは、終わりですね)
せめてもの抵抗にアリルは残る魔力を集中させる。
そして、ソナタは無造作に鎌を振り下ろした。
だが、その動きは途中で止まる。
アリルは不思議に思っていると小さな影がこちらに近づいてきていた。
「お、お嬢様……」
「やっと……つかまえた。よる、みにくい。……アリル、だいじょうぶ?」
「無事ではありませんがおかげさまで何とか生きながらえました」
アリルはうつ伏せのまま答える。
(さすがに馬鹿力のソナタでもお嬢様の念動力には為す術がないようですね)
だが、アリルの予想は呆気なく裏切られる。
ソナタはさらに魔力を込め始めたのだ。
(まだ上がるのですか!?)
しかし、ソナタも相当な無理をしているようで浮き出た血管が破け血が噴き出している。
それでもソナタは魔力を上げ続けていた。
(理性がないから限度がないということですか)
爆発的な魔力の増幅にヨソラは顔をしかめる。
「お嬢様……」
「だい、じょうぶ」
そう言うがヨソラの表情はかなり苦しげになっていた。
ヨソラも力を上げようと左目に掛かっていた髪が舞い上がり真っ黒の瞳が露わになる。
「もっと……」
さらに瞳に魔力を集め黒の血の涙がこぼれ落ちる。
「お嬢様!! 無理はしないでください!!」
「だい、じょうぶ」
明らかに無理を続けるヨソラにアリルは歯痒い思いをする。
(お嬢様に助けられるなんて……僕は護衛役のはずです。こんなことあってはデルフ様に顔向けができません!! どうせ死ぬならば一矢報いて見せます!!)
全身に駆け巡る痛みがどうしたと言うかのようにアリルは勢いよく立ち上がった。
しかし、いつまた倒れてもおかしくはない。
残された時間は短い。
アリルは次の一撃に残る力の全てを乗せる。
「いい加減……倒れてください!!」
アリルは二本の短刀をソナタに向けて大きく振り下ろした。
それはソナタの両肩に容易に直撃する。
(!?)
アリルは動揺し何回も力を入れる。
しかし、いくら力を入れても刃が皮膚から先に進まなかった。
ただ、押し付けているだけだ。
「魔力を込めていないとはいえ、この剣はかなりの業物ですよ!!」
さらに絶望がアリルを襲う。
両方の短剣に罅が入りそのままパリンと砕け散ってしまったのだ。
力の行き場を失ったアリルはそのまま地面に倒れてしまった。
ヨソラはその間も目に魔力を込めてソナタの動きを封じているがかなり息が上がっておりいつ力尽きてもおかしくない。
そして、そのときが訪れた。
ヨソラは全ての力を使い果たして舞い上がった髪がうなだれその場に腰が落ちてしまった。
自由の身となったソナタは鎌を構えて倒れて無防備となったアリルの背中に向けて振り下ろす。
(僕は、なんと無力なのでしょうか……)
アリルは自分の命が失う寸前であるのに恐怖の類いの感情は一切なかった。
埋め尽くしているのはヨソラを守れなかったという悔しさのみだ。
ソナタが振り下ろした鎌がアリルに吸い込まれていく。
だが、次に鳴り響いた音は肉を切り裂く音ではなく金属音だった。
目で見なくてもアリルは分かる。
思わず笑みが浮かび上がっていた。
「悪い。遅くなった」
デルフが右腕でソナタの鎌を防いでいたのだ。
「デルフ様……」
デルフはヨソラに目を向け無事であることを確かめる安堵の表情を浮かべる。
「酷い傷だ」
「僕よりも、ソナタさんを止める方が先決です」
デルフは鎌を上に飛ばす勢いで右腕を大きく上げる。
続いて鎌ごと両腕を上に向かい無防備となったソナタの腹部を蹴飛ばした。
かなりの勢いで弾き飛ばされたソナタは地面を何度も転んでいく。
「……どういう状況だ? まさかソナタが敵だったのか。そんな気配一切なかったが」
アリルは掠れ行く意識を必死に耐えながら事短くソナタの現状について辿々しく説明する。
短く要領の悪い説明だったがデルフは納得し頷いた。
「悪魔の心臓の過食による暴走。なるほど、後は任せておけ」
そう言ってデルフは弾き飛ばしたソナタを追いかけていった。
それからデルフと暴走したソナタの戦闘は明け方まで続いた。




