十字架
「朱里。あんた、そのおでこの湿布、どうしたの?」
母にそれを指摘され、朱里は慌てて切り返す。
「ちょっと、おでこを物にぶつけちゃって……大丈夫だよ。もう学校に遅れるから、行ってくるね」
強引に母との会話を打ち切り、玄関を飛び出し、走る。
三千年もの間……死ねない身体。
その意味が、朱里にも徐々に分かってきていた。
そして、それがどれほど恐ろしい事なのかを……。
やがては、結婚をするかもしれない。そして、女性としての幸せを満喫するかもしれない。家庭を持ち、やがては子供を持つかもしれない。
だが……夫が老いて、子供が老いても……それでも自分は死ねない。
「もう……私……ヒトじゃないよ……」
そう。最早、普通の人間の人生を全うできない。朱里にとってそれはすなわち、人では無いと同義だったのだ……。
バケモノ。
「うっ……ううっ!!」
朱里は思わず嗚咽を漏らす。
家族を生き返らせてくれた事にはとても満足した。幸せを取り戻した。
だが……その代償はあまりにも大きかった……
「朱里!! おはよう!! って、どうしたの!?」
「猿奈……」
道端の路地の隅っこで、蹲っている朱里を見つけ、同級生 豊浦 猿奈は朱里に声をかけた。
「ううん。……何でもない」
「相当落ち込んでたみたいだけど、本当に? 無理してない?」
「うん……。もう始業の時間に遅れちゃうから……行こ?」
授業の内容は、まるで上の空だった。
けれど、朱里は頭を空によって、今朝より少しは色んな事を考えられるようになった。
「まずは、検証が必要だよね……」
検証。それは、自分が自ら命を絶つ事。例えば、首に刃物を突き刺したり、確実に落ちたら、死ぬような高い所から飛び降りたり。
しかし、当然のように迷いが生じる。
もしも、本当は普通の人間のような身体だったら……。
それこそ、無意味に命を投げ捨てる最も愚かな行為となり、取り返しのつかない事になる。
そうすれば、家族の悲しむ顔が容易に浮かび、その方法は適切では無いと悟る。
それは、授業中に試した、ある行為にも起因していた。
授業の最中、持っていた裁縫針を、痛みが少ない腕に軽く刺した。
昨日の女性が言っていた、死ねない身体というのは、具体的にはどういった事かというのを、検証する為だ。
それこそ、物理的外傷を負っても、漫画やアニメの世界でよくある、肉体が再生をしたりして、死ねないのではないか? という疑念を抱いて検証の意味で刺した。
しかし、刺した箇所の血はそんな人知を超えたような再生能力など、起こさずに血はしばらく流れ、チクチクとした痛みもなかなか消えなかった。
この事によって、再び三千年も死ねないというのは嘘では無いのか? という疑問を抱くようになる。
しかし、それを解決する方法が見つからない。
朱里は、これ以上考えられる事が無く、今まで気を張っていた疲れから、机に伏して目を瞑った。
この昼休憩時間を利用し、少し睡眠を取ろうとしたが、ふと男子の会話が耳に入る。
「おっ。恵介新しいアクセ買ったの?」
「いや。これ自分で作ったやつだよ」
「自分で作れるとか、お前は本当に器用だよな」
「まぁね」
「でも、これ少し変わってない? 十字架をモチーフにしたんだろうけど、逆だぜ?」
「いいんだよ。逆十字のやつを作りたかったんだから」
その「十字架」の言葉に、朱里は過敏に反応し、飛び起きる。
そして、その会話をしていた男子二人の内の一人。片倉 恵介 と目が合った。
「どもども」
恵介は手をフリフリとし、とぼけた笑顔を朱里に見せたが、朱里はすぐにそっぽを向く。
朱里は、普段男子とはあまりコミュニケーションを取っていなく、男自体がやや苦手であった。
尚も、雄弁に十字架の事を相方の男子と話す恵介。
昨日までは、興味の対象にもならなかったそのテーマが、今の朱里には、とてつも無く知りたい情報の一つだった。
そう……。自身の額に埋め込まれている、十字架の紋章。
そもそも、十字架の事自体が、朱里には知識が乏しく、調べようにも何からどうやって調べていいのかが分からない。
それならば、それに詳しそうな恵介に直接聞いた方が、ある程度は効率がいいのかもしれない。
朱里は、今日の授業が全て終わるまでに、決意を固めた。
そして、最後の授業終了のチャイムが鳴り、部活動に行く者と、帰宅する者とに別れる。
朱里は恵介の方を見た。いつもは部活用の着替えを持ってきているのに、今日はその荷物が無く、そのまま帰宅をする様子だった。
意を決して、彼に声を掛けようとして彼の側に歩み寄ろうとした。
「朱里!! 一緒に帰らない?」
猿奈が間が悪く声を掛けてきた。
「ごめんね……。猿奈。今日はちょっと用事があるんだ」
誘いを断られた為に、顔を膨らませた猿奈だったが、今朝の様子を見て、改めて言葉を掛ける。
「朱里。本当に大丈夫? 何か今日のあんた、変だよ」
心配をしてくれるのは素直に嬉しいハズなのに……でも、今はその心配が、煩わしいと思う自分に少し嫌悪感を感じる。
「大丈夫だよ。最近テスト勉強で少し疲れてるだけ。休日予定空いているから、カラオケで埋め合わせしよ!!」
朱里はそう言って、先に教室を出た恵介の後を追いかける。
その朱里の後ろ姿を……猿奈はとても静かで……そして、邪悪な黒い瞳で……眺めているのだった…。