契約
少女は、目の前の光景に目を疑った。
「何で…………どうして!?」
少女は、学校の鞄を放り投げ、血塗れになって倒れている家族の側に行き、力強く名前を叫ぶ。
「お兄ちゃん!! お母さん!! お父さん!!」
もう二度と、目覚める事のない……永遠の眠りについた家族の名前を……。
「いやああああああああああああああ!!!!」
少女は、冷静さを失っていた。
この血塗れた惨状の部屋。そして、3人の惨殺死体。
その光景を想えば、一刻も早く、しかるべき所に連絡を入れるべきだ。もしかしたら、惨劇を起こした、危険極まりない人物が、まだ家の中に潜んでいるかもしれない。
だが、そんな理屈や常識が通じるほど、この17歳の少女は未だ、大人では無かった……。
抱き起こしていた兄の躯が、少しづつ硬直し、冷たくなっていくのを感じる。
支えていた手がそれを直に感じ、兄が本当に手が届かない所に行ってしまうような、感覚に陥った。
「お兄ちゃん……嫌!! 嫌だ!! 行かないで!!」
その叫びも空しく、どんなに声を掛けても、どんなに想っても、兄が息を吹き返す事は無かった。
少女は辺りを見渡した。母も。父も。惨たらしく身体を切り刻まれていた。
自身の家族に、こんな非道な行いをされた哀しみと怒り。そして……嘆きの含んだ様々な感情が、入り混じっていた。
「何で!? どうして私の家族がこんな目に遭わなきゃいけないの!? お兄ちゃんが!! お母さんやお父さんが!! 一体何をしたって言うの!?!?」
叫んでも無駄なのは、分かっている。だが、心に溜まっているその感情を。言葉を。全て吐き出さないと、少女は、これ以上自我を保てないほど、精神が崩れかけていた。
そして、涙を流しながら、ありったけの怒りを。憎しみを込めて言う。
「返して!! 私の家族を返してええええええええええええええ!!!!!」
その時、漆黒の世界に塗りつぶされていたこの絶望の景色が、眩い発光で満たされた。
そして、その光の中心に長い金髪の女性が居た。
「神様……?」
少女はその生物を、どう称して良いのか分からない。
だが、その神々しい発光が物語るように、その女性の妖美な姿や雰囲気から、真っ先にその言葉が思い浮かんだ。
女性は、少女と目を合わせたが、すぐに視線を切り、少女の家族に向けて慈愛ある眼差しで見つめた。
「可哀そうに……さぞ痛かっただろう。さぞや苦しかっただろう……これも妾のせいじゃ。すまぬ…………どうか妾を……許しておくれ……」
その所作に。振る舞いに。少女は言葉を発するのも忘れていた。
そして、女性は再び少女と目を合わせ、静かに話す。
「本来、彼らはここで死ぬ運命では無かった。しかし……邪悪な者達が運命を捻じ曲げ、あまりにも惨たらしい、この惨劇を生んでしまった。その責任の一旦は、妾にもある。そのせめてもの慈悲に、貴女の願いを叶えようぞ」
「願い……?」
「貴女の家族の屍に。再び生命の息吹を与えるのじゃ」
耳を疑った。この絶望に覆われていた壁が壊れてゆく。
「お兄ちゃんやお母さん……お父さんも!! 皆生き返らせてくれるの……?」
その希望に満ち溢れた少女の表情とは対照的に、女性はとても静かに言う。
「妾では無く、貴女が行うのじゃ」
少女は憤りを感じた。そんな力があるのなら、こんな哀しみに暮れてなどいない。
「どうやって!? 私に……そんな力は無いよ!!」
「妾と契約を交わすのじゃ。さすれば、貴女にその力が授かる」
そして、とても哀しい表情を浮かべながら女性は続けた。
「だが、この契約を交わせば……貴女は、代償を支払わなくてはならない。その代償はあまりにも大きい。貴女の想像を絶する――――」
彼女が、言葉を言い終える前に、少女が言う。
「そんなのどうでも良い!! 家族の皆が生き返るのなら、どんな代償でも支払ってやる!!!!」
その少女の並々ならぬ決意と覚悟を見た女性は、それ以上を言うのを止めた。
「分かった……。では、貴女の額を、妾の額に付けるのじゃ」
そう言って女性は、前髪を掻き上げ、覆われていた額を露わにする。
「十字架……?」
その額には、赤い十字架の紋章が刻まれていた。
「さあ。妾の側に」
その言葉に誘われるように、少女は女性の側に歩み寄る。そして、額を触れ合わせた瞬間――。
この家を包んでいた暗い世界を、眩い発光が穢れを落とすように、優しく全体を包んでいく。
「これで契約は完了した。さあ、貴女の家族に向けて、手を合わせ、願うのじゃ。愛しき者の……蘇生を」
正しい所作などは分からない。だが、少女は自分の思いつく限りの動作を取る。
両膝を床に着け、両手を合わせながら、ありったけの本心を叫ぶ。
「お願い!! お兄ちゃん!! お母さん!! お父さん!! 昨日までの楽しかったあの頃に……戻って!!!!」
少女がそう叫んだ、その瞬間――。
3人の惨たらしい死体から、その女性と同じ発光がし、先程とは打って変わって、とても安らかな寝顔になっていた。
「これで、3人は生き返った。心の臓の鼓動を聞いてみるが良い」
少女は、兄の表情を見た。そして、先程まで血塗れで、無念な顔をしていたのが嘘のように、とても心地よい寝顔をしていた。
そして、胸に耳を付け、生命の鼓動を確かに感じる。
「これで、貴女の願いは叶った。しかし、その代償も同時に、貴女は支払った」
先程は、無我夢中で皆が生き返って欲しいと願った。その代償がどんなものでも、家族が戻ってくれる事が何よりも優先だった。
その為、どんな代償でも背負っていくと少女は決意をしていたが、いざその内容を聞こうとすると少し不安感が込み上げてくる。
「私の代償って、一体何……?」
「それは――――」
「朱里~!! そろそろ起きなさい!! 学校に遅刻するよ!!」
突然、部屋のドアのノックが聞こえ、その音で目が覚めた。
まだ眠気の覚めないぼやけた視界で、辺りを見渡す。
「あんたが、こんなに遅い時間に起きるなんて珍しいね。ほら、ご飯出来てるから」
母が、自分の部屋に入ってきていた。そして、その母の顔を見た瞬間。頭が一気に覚醒する。
「お母さん!! お母さん!? なんともない!? 大丈夫!?」
「あんた何言っているの? まだ寝ぼけてるみたいだね。ほら、ご飯食べる前に顔を洗ってきな」
朱里は、昨日の出来事を確認したかった。あの出来事は夢だったのか。それとも……。
「昨日の夕方頃、お母さん何してたの!?」
「何って……あんたが帰って来て、丁度夕飯の時間だったから、料理を作っていたけど? あんた大丈夫? 何か悪い夢でも見たんじゃない?」
そう言ってカラカラと笑い、母は一階のリビングに降りていく。
「夢……だったのかな?」
昨日の光景を見た後に、この日常の世界を見たら、疑念がより一層強まる。
そうだ。元々、人が死んで次の日に生き返って……など、現実世界では起こり得ない事だ。
朱里は、母に言われた通り、気持ちを切り替え、階段を降り、洗面所に向かう。
そして、鏡を見た。
「何……コレ?」
朱里の額には、赤い十字架の紋章が刻まれていた。
「何!? 何よコレ!?」
側にあった洗剤やボディーソープなどを付けて、タオルで扱いても一向に消える所か、薄まる気配すらも無い。
その十字架の紋章は、先程の夢と思わしき中で登場した女性の額にあったものと、色、大きさ、形が全く同じだった。
「消えて!! お願い……消えて!!」
尚も力強く、タオルで擦るが、皮膚を傷め、所々赤くなっていた。そして、その十字架の刻印は消える事は無かった……。
「ウソ……夢じゃないの……?」
それが現実だと悟ると……朱里はその場に蹲り、顔を手で覆い隠して泣いた。
そして……昨日のあの続きを思い出す……。
「一度死んだ者を、蘇らせるという行為は、生命への冒涜じゃ。過程はどうであれ、人は誰しもが死は平等に訪れる。それを捻じ曲げるという事は、それ相応の代償を支払わないとならないのじゃ……」
「その代償って……何なの!?」
「今日から三千年の間……貴女は死ねない身体になる」
水嶋 朱里は……あまりにも大きな代償を背負った……。