【SS】L.E.D
自分達以外の誰もいない映画館で、初老の男はふと目を覚ました。随分眠りこけていたのか、上映されていたはずの記録映画はとっくに終わっている風。連れの女性はと言うと、幸せそうにこちらを覗き込んでいる。彼女との付き合いは長い。それはまるで長い夢を見ているようだった。
確かめるように男は彼女のほほにそっと手を伸ばした。女がにっこりと目を細める。柔らかなほほの感触と重ねて来た手が愛しい。
「映画は終わってしまったのだね」
「終わってしまったわ」
そうか。と男は頷くと少々残念そうに暗転しているスクリーンを見た。今日のそれが最後の上映で、もうこの映画館は捨てられてしまうのだ。
全ての人類に訪れた原因不明の少子化には歯止めが効かず、人口はどんどん減って行く。老人を支える子供すら無くして人類は途方に暮れると同時に、あらゆるものが放棄されて行った。この映画館もその一つだ。
「寂しくなるね」
「寂しくなるわ」
老人と女は見つめ合うと、しばらく黙りこんだ。誰も席をたてと言う者はいない。次の上映が無いからだ。
「今、何時だろう……」
「七時半過ぎよ」
と言うことはもう外には夜の帳が降りていることだろう。冬の夜は早足でやって来て時に長く居座るから。
「行こうか」
「そうね」
女がマフラーを差しのべて来た。
「自分で出来るよ」
老人はマフラーを受け取ると自らの首に巻いた。赤い毛糸のマフラーは彼女が編んだものだ。彼女は老人が望むことは何でも出来る。
二人は映画館を発って宵の中に足を踏み入れた。
ところどころに昨日降った雪が残っている。老人よりも女が気を遣って道路側を歩く。歩道にある足跡は来る時につけたものが二つ並んでいるだけだった。人気は全く無く、寂しさが冷気になって吹きつけて来るようだった。
寒さのこと吹雪のことなどをその昔、冬将軍と呼んでいたが、今はどうだろう。擬人化と言う言葉が空々しい程、人はその数を減らしてしまった。それでも街灯はまだついているのだから笑えすらする。
長持ちする電球とかつて歌われたLEDは、それを作った人間を置いてまだ煌々と闇を彩る。人類の好みに作られた淡い色は優しく雪道を照らしていた。
「寒い」
「私のコートをどうぞ」
女が当たり前のように自分の羽織りを老人に差し出した。雪が止んでいるとは言え、十二月の底冷えは我慢出来るものでは無い。
「いいよ。君が寒いだろう」
老人は女に微笑んだが、女は首を振った。
「大丈夫。私はロボットですから」
老人はしばしばと目を瞬かせた後に、苦笑いを浮かべた。
「そうだったね」
君は私の亡き妻を似せて造って貰った機械だった。
しかしそんなこと老人はとっくの昔に知っている。そして今、もうろくしたわけでは無い。知っているけれど、気遣わずにはいられないのだ。しかしやはり同時に何とも言えないやりきれなさが来る。
涙はとうの昔に枯れていた。泣いたところで誰が気にしてくれようか。女は気を病むそぶりをするだろうが、それに心は無い。
いつだったか、禁止事項に「ロボットであると自覚しない」とプログラムして貰おうとして、止めた。そんな遊びは白けてしまう。
しばらく歩いて、老人は立ち止まった。自宅のマンションまであと数メートルのところだった。息苦しかった。久しぶりの外出に加えてずいぶん歩いたから――最初はそんな理由の息切れだと思った。
女が不思議そうに老人を眺めた後、急にその表情を変えた。
老人は女の顔色が変わったのを見て、自分の容体を悟った。
――ようやく私にも終わりが来るのか――
女は自らの耳に手を当てるとぶつぶつと何かを呟いた。どこかで生きている救急施設と連絡を取ったのだ。
「止めてくれ」
老人は言ったが、女は通信が終わるとてきぱきとした動作でコートを脱ぎ老人をその上に座らせた。
「……止めてく……れ」
老人は言ったが女は聞こえていないようだ。
『救急救命。何があっても人命が最優先』
「止めてくれ。お前が長年寄り添ってくれた私の妻ならば、止めてくれ」
言うがロボットは訊かない。その命令だけは訊けないのだ。
人口が超減少傾向にある今、少しでも多くの命をこの世にあり続けさせようと言う法律がある。老人にとって会ったことも無いテレビの中の人物が決めたことだが、そいつは確かに言ったのだ。仲間が少ないのはとても寂しいと。
テレビの中の人物もまた老人に負けない程、老いていた。
やがて老人の意識は無くなってしまった。心臓の鼓動ももう限界だった。しかし――女は自分の胸を開くと、再生装置を取り出した。老人の胸にそれを当てると短い電流が走り、老人は再び生き返る。
実はもう何度もそれを繰り返していた。
老人は、いや人類はもう一回たりとも死ねなかった。そうやって互いが互いに最後にならないように延命を繰り返していた。
うっすらと目を開けた老人に、女は微笑んだ。柔和な女神の微笑。しかし老人はそれを酷く冷たく感じた。
生き返った老人の脳裏に蘇る映画のワンシーン。出生の喜び。感謝祭。誕生日を祝う声。そして戦争。ホロスコープ。草すら生えなくなった大地。無人の都市。
誰かが言った。でも誰が言った? そいつはロボットでは無かったのか。
誰かが居た。でも誰が居た? そいつはロボットでは無かったのか。
もう自分はぼけていて自覚が無いのではないか? 自分が最後だと言う自覚が。
老人の目に久しぶりの涙が宿った。泣くのは意味が無いが、人は意味を求めて泣くのでは無い。迷子の子供のように、老人はすすり泣いた。
雪道にたった二人が、一人きりで泣いていた。