第六章・W
十月二十二日(土)午後二時五分
キンモクセイの木の下
いつの間にか眠っていたらしい。
梢の間から注ぐ陽の光で目を覚ます。
何だか、ひどく疲れている。今回の文化祭に向けて力を出しすぎたのだろうか。
――それとも。
他に何か大きな懸案事項があって、それが解決した――ような気がしないでもないが、記憶のどこを探っても、そんな事実はない。覚えてないのなら、そんなことはなかったのだろう。
全ては、気のせいだ。
木の幹にもたれ掛かったまま、鈴木彩子は、大きく伸びをする。
文化祭最終日である。この三日間、ずいぶんと働いた。餃子を焼きまくって売りまくって、その間に自由時間をもらって、あっちこっちを遊び回って……疲れるのも当然である。今も自由時間なのだけど――さすがにもう、遊ぶ元気はない。だから、少しでも体力を回復するために、ここでこうして、微睡んでいたのである。
「……ここにいたのか」
上から声がする。
顔を上げると、隣のクラスの豊橋弥正が立っていた。
「なんだ、マサか……」
「なんだとはなんだよ。隣、いいか?」
と言いながら、すでに座っている。いつものことだ。
「お前は暇そうでいいな」
「馬鹿にしんでよ。めちゃくちゃ忙しいだに? 今はたまたま、休憩とってるだけじゃんか。一度女神像ホールに来てみん。戦場だで」
「知っとるわ。さっきも覗いてみたけど、ハルカ、鬼の形相で餃子焼いとったじゃん」
『鬼の形相』というのが、あながち比喩じゃないところが恐ろしい。
「そう言うアンタんトコは、どうなっとるだ」
「どうもこうもないに。とにかくお嬢が張り切っとるで、人手がいくつあっても足りんわ。オレも、もうちょっとしたら持ち場に戻らんといかんし――」
弥正の言う『お嬢』とは、二年九組委員長――『サエ』こと――名古屋栄のことである。あの女帝が気合い入れて采配を振るっているのなら、それはそれは大変なのだろう。
「もう少しで終わりとは言え、えらいわ……」
「お互いにね……」
顔を見合わせて苦笑し――彩子は、顔を上げる。
空が、高い。
すっかり秋の空気である。
風が通りすぎる。味噌と醤油と、木材とペンキと、熱気と活気と――とにかく、様々な匂いが、渾然一体となって混じり合っている。
彩子は、大きく息を吸う。
自分は、生きている――なんて、脈絡もなく、そんなことを思う。
そんなことを思った自分が照れくさくて、思わず、手にしていた雑誌に目を落とした。
「……この文化祭終わったら、どっかに遊びに行くか?」
グラウンドの向こうで、何やら派手なパレードが通り過ぎていく。その一団を見ながら、弥正は口を開く。
「どっかって?」
雑誌のページを捲りながら、彩子は聞き返す。
「動物園とか、ラウンドワンとか」
「いいんじゃない? 私はハルカ誘うで、アンタはトウカとかホウキ誘いん」
「美味いカレーうどんの店があるだよ」
「アンタ、この前からずっとそれ言ってるら……まあ、いいか。じゃあそれも一緒に行こまい」
何てことない日常会話が、何だか心地いい。
地味で平凡で目立たない自分だけど――こうして日常を繋いで、時々ちょっとしたイベントがあって、それでもやっぱり普通に暮らして――多分、それが一番大事なことで。
広げていた雑誌を閉じて、彩子は、大きく息を吸い込んだ。
「……あれ?」
「ん? 何?」
「お前って、競艇好きだったっけ?」
弥正の視線が、彩子の持つ競艇雑誌に注がれていいる。
「何を今さら。昔からそうじゃん」
「……ああ、そうだっか」
変な奴だ。
弥正の態度を訝しげに思いながら、彩子は立ち上がる。
「……お前って……」
「今度は何よ?」
「少し、背が伸びたか?」
「気のせいだら」
本当に、変な奴だ。
彩子の携帯がメール着信を知らせたのは、その時だった。
文化祭の終了まで数時間。
二年十組の教室である。
到着した時、すでにその場には十組の主要人物が揃っていた。
委員長と副委員長、掛川真恋、磐田寿弘、藤枝太志、焼津光、富士誠史、野宮麗、沼津臣成――クラスの有力者揃いである。何故この面子と共に彩子が呼ばれたのか、皆目見当がつかない。
「……うん、全員揃っただね」
彩子が教室に入ったのを見て、委員長が口を開く。何やら蒼白な顔をして緑茶をグビグビと飲んでいる。どうかしたのだろうか。
「あれ、マサヤス君は?」
真恋が尋ねる。そう言えば、こういう場には必ず同席する筈の三島大社の姿が見えない。
「マサヤス、実家でトラブルが発生しただって。それで、一時帰宅」
答えたのは、大社と普段から親しくしている臣成である。
「トラブル?」
「保護してた野生動物が、脱走したらしい」
「ああ……」
そう言えば、そんなこともあっただろうか。随分騒がせた挙げ句、大社の家が保護したということで落ち着いた筈だったが――また
脱走したとは。大社も大変だ。
「あの……何か、あったの?」
堪らなくなって、彩子は自分から質問する。
「うん、それがさあ……」
「三年二組のオツ先輩が怒っとるらしいのよ」
煮え切らない委員長に焦れたのか、副委員長が前に出る。
「怒っとるって……私たちに? 何で?」
彩子の質問に、長髪長身の副委員長は一瞬迷ったように周りを見渡し――隣の委員長が頷いたのを、GOサインと見なしたのだろう――言葉を選びながら、話し始める。
「先輩が怒っとる理由は、主に二つ。一つ目は、昨日のこと。三年二組が餃子屋やっとるのは、サっちゃんも知っとるら?」
オツ先輩――三年二組の委員長・宇都宮茶乙のことだ。
彼のクラスが餃子屋を開いているという情報は、クラス会議の時にも出ていたし、実際、彩子も昨日、この目でそれを確認している。
「先輩の所、教室の入り口に、看板として大きな餃子のオブジェを飾ってたんだけど――昨日、それが壊されたらしいだよね。それも、白昼堂々、先輩達が見ている目の前で」
嫌な予感がした。
「先輩が言うには、二年エリアの方向から、小柄な女子が物凄い勢いで走ってきて、オブジェにぶつかって落として、そのまま走り去っていったんだって。石膏でできたオブジェは粉々。生憎と、ぶつかっていった女子の顔までは見てないらしいんだけど……」
――あの時だ。
女神像ホールを避けるようにして、東校舎を疾走した。
途中、何か固い物にぶつかった気がする。
派手に何かが砕ける音と、そして「何すンだべーッ!」という怒声が聞こえたような気もする。
何故か、その場面だけを断片的に覚えている。前後の記憶が一切ないにも関わらず、である。
彩子はあの時、三年二組のオブジェにぶつかり、落下させ、破壊していたのだ――。
自分で、自分の顔色が蒼白になっていくのが分かる。そして、挙動もどことなくおかしくなっていたのだろう。副委員長が、大きな目でじっと彩子のことを窺っている。
「ちょっと待てよ。おかしいら」
そんな彩子のことなど構わず、横から誠史が口を出す。どうやら、話を聞かされたのは、彼らもこれが最初らしい。
「先輩ンとこのオブジェだか看板だかが誰かに壊されたっつってさ、何でそれがオレらの仕業になるんだよ。今の話じゃ、学年もクラスも分からん筈だら? それで十組を名指しにしてくるなんて、ただの言い掛かりじゃんか」
「……だもんで、問題はそこになるだよ……」
委員長が、溜息混じりにそう言う。
「怒っとる理由は二つあるって言ったら? 一つ目は、今言った通りだけど――これって、セイシの言う通り、ただの言い掛かりにすぎんのよ」
再び副委員長がバトンを受け取るが、今ひとつ言っている意味が分からない。
「いや、言い掛かりって言うとおかしいかな。オブジェが壊されたどうこうってのは、ただのきっかけ。導入部分。本当に怒っとる理由は、別の部分にあるの。……だいたい、オツ先輩も、本気で十組に犯人がいるだなんて思っとらんって――だから、誰がオブジェを壊したかなんて、関係ない。犯人探しも、なし。オブジェ崩壊の話はこれで終わり。いいら?」
一同を見渡しながら、副委員長は言い放つ。
だけど、彩子には分かった。
さっき、彼女は顔色を変える彩子の様子をそれとなく窺っていた。勘の鋭い彼女のことだ。彩子の顔色を見て、ある程度のことは察したのだろう。察した上で、この話そのものを流そうとしているのだ。
だけど、感激している暇などなかった。
現実はさらに難儀だったからだ。
「ハルカ、それは分かったけど……じゃあ、先輩が怒っとる本当の理由って、一体何なのよ?」
真恋は副委員長に尋ねたのだが、それに答えたのは委員長だった。
「……ハルカ、今回の屋台で餃子屋をやったでしょ? 三年二組と同じ、餃子屋。……まあ、出し物がかぶっただけだったら、先輩も怒ったりはしなかったと思うだけど……。ハルカ、『校内一の餃子好き』を自称してたじゃん……どうやらそれが、先輩の逆鱗に触れたらしいだよ……」
眉を八の字に曲げて、心底困った、という表情を見せる委員長。対する副委員長は、どこまでも勝ち気である。
「向こうは向こうで、校内で一番餃子を愛してるのは自分だ、って自負があるんだろうね。で、私がそんなこと言い出したもんだから、怒り出したみたい」
「物より、プライド――」
後ろの方で、臣成がぼそっと呟いている。
「そう、プライドの問題。で、残念ながら、私も、向こうも、餃子好きの座を譲るつもりはない!」
語尾が強い。テンションが上がってきた証拠だ。
「え、じゃあお前、どうするだ?」
寿弘が、困惑しながら聞いている。
「だから――勝負よ」
「勝負ぅ!?」
と、これはほぼ全員が同時に上げた感嘆符疑問符である。
「そ、勝負。お互いの餃子好きナンバーワンをかけての、餃子勝負よ! 詳細は決まってないけど、ルールがどうあれ、負けるつもりなん、ないでね。正々堂々と戦って、どっちが真の餃子ナンバーワンなのか、はっきりさせようじゃんか!」
ああもう、だんだんとついていけなくなってきた。
何なんだ、この無駄に熱い、少年グルメ漫画のようなノリは……。
「やめようよ……」
困惑する一同の中で唯一、積極的に消極的な意見を述べる人間がいた。委員長だ。
「別に、無理に先輩を敵に回さんでもいいじゃんか……もちっと、穏便に済まそうよ……」
「何よアオイ。これは、私とオツ先輩の問題だに? クラスには迷惑かけんで、別に問題ないら」
「クラスに問題かからんでも……お前に、何かあったらどうするだよ……」
消え入りそうな声で、ようやく、それだけ言う。
「……なによ。アンタ、私のこと心配してるのけ?」
「当たり前じゃんか。委員長が副委員長の心配して、何が悪いだよ」
少し意外だった。二人は、犬猿の仲なのだとばかり思っていたのだが……。当の副委員長も同様だったのだろう。数瞬、虚をつかれたような表情をしていたが――次の瞬間には、ニッと好戦的な笑みを浮かべ、ツカツカと委員長の前へと歩み寄り、顔を近づける。
「『心配して何が悪い』? 悪いわ! 私を誰だと思っとるよ! この私が、負ける訳ないら!? アンタも、委員長だったら、もっとクラスの人間を信用しなさいよ! 委員長だったら――もっと胸を張って、堂々とクラスメイトを送り出しなさいっての!
顔を上げろ、駿河葵っ!
委員長のアンタがそんなんじゃ、下の人間が不安になるら!?」
刹那、開け放たれた窓から吹き込んだ強い風が、副委員長――浜松春華の髪を揺らす。秋の始まりを感じさせる冷たい風を頬に受けながら、彩子たちはただただ困惑していた。
葵と春華。
副委員長の春華は、葵への対抗心が強すぎて、葵のことなんて微塵も認めていなくて――こんな風に、葵に発破をかけることなんて、多分、初めてで。
何か、心境の変化でもあったのだろうか。
この短期間に。
そんなエピソード――記憶にない。
或いは、記憶にないだけで、何か重要な出来事でもあったのか――なんて、それはないか。重要な出来事ならば、忘れる訳がない。覚えていないのなら、それはなかったのだ。
いずれにせよ、過ぎた話など、どうでもいい。
大事なのは今と――これからだ。
……いや、十組のこれからは、なかなかに大変そうだが。
「いいじゃんか。面白そうじゃんか。三年二組との餃子勝負――どうなるかなんて分からんけどさ――」
――やってみようよ。
春華の声が、十組の教室に響く。
彩子の後ろには、大きな水槽が置いてある。
その水槽に住む、『ヌシ』と名付けられた大きなウナギだけが――場の雰囲気など関係なく、悠然と泳いでいた。




