第六章・N
十月二十二日(土)午後一時二十五分
二年六組教室
……随分と、疲れている。
飯田人形は、郷土資料研究発表会場――つまりは二年六組教室――の受付にて、珍しくぼんやりとしていた。
どうも、この一週間の記憶が判然としない。
ここしばらくは、クラスと図書委員の仕事で忙しかった。だからかもしれないが――否、だからと言って、記憶が飛ぶなどということは、今までなかった。本格的に疲れているのだろうか。体調管理には、人一倍気を遣っている筈だったのだが……。
「お、ちゃんと仕事してるじゃん」
声がして顔を上げると、そこには二年七組の委員長・甲府樹絵里が半笑いの表情で立っていた。
「……なんだ。冷やかしならお断りだぞ」
「そこまで暇じゃないって。アンタ、昨日ウチのフルーツパーラーは来たけど、肝心の鳥もつ煮、食べんで帰ったら? だから、一つ食べさせてあげようと思って」
言いながら、パックを掲げる樹絵里。
「……あまり、レバーは得意じゃないんだが……」
「レバーじゃなくて、鳥もつ煮。ホント美味しいから、騙されたと思って食べてみろし」
人形の返事を待たず、彼女は受付机の端にパックを置く。
「しかし、ここは人気ないねえ。やっぱ、郷土資料研究なんて、堅すぎたんじゃないのけ」
「お前達の文化レベルが低すぎるだけだ」
「別にいいよ、それでも。アンタらみたいに、勉強して知識詰め込んで理論武装したって、それだけじゃ一銭の得にもならんし」
どうやら、このことで樹絵里と議論を交わすのは無駄のようだ。根本からして価値観が全く違う。それより何より、今の人形は疲れすぎている。誰かと議論をする気にもならない。
「……お前らの所は、繁盛しているようだな」
「お陰様でね」
今回、七組は十組から女神像ホールの一部を奪還するという離れ業を成し遂げた。何かの用事で十組がホールを空けるという、その隙をついて留守番を申し出、自分たちの所の商品を精力的に売り込み、短時間の間に高評価を得て、結果、半ば強引に営業権を獲得したのである。
「もし、十組の連中が女神像ホールを空けようとしなかったら、どうするつもりだったんだ」
「適当な情報流して、一時的に退去させるとか――方法なんて、いくらでもあるわよ。そこまで策を練るまでもなかったんだけどね」
「全て、お前の計算通りか?」
「計算通りって言うか――やっぱり、七組全員が一致団結したことが大きかったかな。商品開発にせよ店舗設営にせよ、今回の女神像奪還にせよ、私一人じゃどうにもならないことばっかだし」
「お前ら、我が強いくせして、団結力は強いからな」
「『人は石垣、人は城』よ」
「信玄か」
「信玄じゃなくて信玄公ね」
彼女たちは、かの武神を崇拝しているのだ。かと言って、敬称を強要されても困るのだが。
「――さて、私は忙しいから、そろそろ行くわ」
言うだけ言ってさっさと帰ろうとする樹絵里。どうやら、本当にレバー、ではなく、鳥もつ煮を届けに来ただけらしい。
「アンタ、暇なら、もっと色んなトコ、行ってみたらどう? せっかくの文化祭なんだから」
「今は仕事中だ。……それが終わったら、考えておく」
「期待しないで待ってるわ」
「お前の所に行くとは一言も言ってないぞ」
人形が言い返した時には、すでに樹絵里は背を向けていた。背を向けたまま、右手をひらひらさせている。忙しいのか暇なのか、よく分からない女である。
――さて。
「……行ったぞ。用事があるなら出てきたらどうだ?」
樹絵里が去ったのと反対方向に向けて、声をかける。
柱の陰から、のっそりと巨大な人物が現れる。
「……いやぁ……ジュリがいるとは思わなかっただよ。まさかのタイミングだねー」
「いい加減、ジュリに対する苦手意識をなくしたらどうだ、アオイ」
二年十組の委員長に向けて、苦言を呈する。
「そんなこと言ったって、仕方ないだよ。アイツ、怖いし」
「怖がる意味が分からない。今回は、お前らの方がしてやられた側だろうが」
「だから、尚更顔合わせづらいだって」
「今は、女神像ホールで常時顔を合わせているだろう」
「だもんで、俺はできるだけそっち見ないようにしてる」
「何の解決にもなってないだろう、それは」
この、ずくなしが。
「……それで、何か用か」
「いや、別に用って程じゃないだけどさー」
要するに、今回もまた、人形が一人で受付をやってると知って、冷やかしに来ただけらしい。いつもの、図書室のように。
「あ、色んなトコ遊び回って、色々買ってきただよ。ヒトナリも、後で食べたらいいに」
言いながら、ごそごそと様々なモノを机に並べていく。
コンニャクの味噌田楽、藁に入った納豆、醤油せんべい――。
「えっと、これが三年一組、三組、四組で買ってきたヤツね」
「……もうちょっと、品は選べなかったのか?」
「何で? 美味そうじゃん」
「美味ければいいと言うものじゃない」
「あ、じゃあ緑茶もつけるよ」
「そういうことを言ってるんじゃない」
どこからか取り出した二つの紙コップに水筒の緑茶を注いでいるのを見て、人形は小さく溜息を吐く。この緑茶中毒者が。
「……結局、お前、思い出したのか」
「んー、何が?」
「何が、じゃない。昨日のことだ。気が付いたら俺たち、十組の教室で呆然としていただろう。俺とお前達だけじゃない。ジュリもいたし、九組のサエやマサ、さらには三年五組のユカ先輩とミライ先輩まで一緒だっただろう。しかも、その時のことを誰も覚えてないときている。どう考えても異常だろう。その時のことに関して、お前は何か思い出さないのか、と聞いている」
「別に、いいんじゃない?」
自分の分の緑茶に口をつけながら、事も無げに言い放つ。
「何がだ」
「終わったことはどうだって、さ。その時がいくら異常でも、今俺たちは現に日常にいる訳だし――それで、いいんじゃない?」
「……本当に、そう思うのか?」
「俺、細かいことは気にしない性格なんだよー」
「お前は気にしなさすぎだ」
しかし、この男と話していると、こちらまでそんな気持ちになってくるから不思議だ。ヤツに影響されているなどとは、絶対に思いたくないのだが。
「郷土資料研究――かあ。これってさ、具体的に、どんなことを調べたの?」
人の疑問をのんびりと流しておいて、さっさと次の話題に移っている。マイペース王め。
「どんなことって、それは色々だ。興味があるなら、見ていったらどうだ? 観覧無料だ」
「いや、忙しいから」
事も無げに断られる。
「……なるほど、見るからに忙しそうだな」
「でしょ。だもんで、次の機会にするよ」
この男に皮肉は通じない――いい加減、学習しなければいけないのかもしれない。
「――食うか?」
もらってばかりでは癪なので、軽食用にととっておいた、おやきを差し出す。
「お、おやきじゃん。ありがと。これ、中身アンコ?」
「いや、野沢菜だな」
「アンコはないの?」
「嫌なら、無理にとは言わない」
相手の手からおやきを取り上げようとするが、それより早く手を引っ込める。
「もらうよ。もらうもらう。後でゆっくり食べさせてもらうよお」
「だったら、最初から素直に貰っておけばいいだろうに……」
「あ、そう言えばさ――一つ、ずっと気になってることがあっただけどさ」
おやきを手の中で弄びながら、聞いてくる。
「何だ。俺に分かることなら、答えるが」
「女神像ってあるじゃん。俺たちと七組がお互いに取り合いしているヤツ――あれって、みんな『女神像』『女神像』って呼んでるけどさ、アレのどこら辺が女神なんだろうね? 何か、特定のモデルとかいるのかな?」
その質問に、人形は盛大に椅子からずり落ちそうになった。
「お、お前……そんな基本的なことも知らずに、あの女神像に固執していたのか……」
「え? それって、有名な話?」
「この学校にいる人間なら、常識だろ」
「だから、それは何なのさ」
「神話に登場する女神――木花咲耶姫だよ」
ただでさえ体調が悪いというのに、間抜けな質問をされて、さらに脱力してしまった。
「へえ、そうなんだ。一つ賢くなった。さすが、持つべき者は友達だねえ」
「…………」
穏和な表情で人形のことを『友達』と表現する彼を前に、何も言えなくなってしまう。
全く、付き合いづらい男である。
と。
彼の後ろから、スキンヘッドの男が姿を見せる。
「……客か?」
その男は、表情筋一つ動かさずに、そう言う。
「いや、ただの冷やかしだ。すぐに帰る」
「そうか。あと十分ほどで交代になる。その後は自由行動。五時から片付けが始まるから、遅れないように」
「言われなくても分かってる」
「念のためだ」
事務連絡だけ済ませて、男はさっさと教室の中に入っていってしまう。面白みのない奴だ。
「……今のは?」
去っていく男を目で追いながら、尋ねる十組委員長。
「お前、知らないのか? ウチの委員長のヨシミツ――長野善光だよ。同じ委員長なんだから、何度も顔を合わせているだろう」
「もちろんヨシミツは知ってるけど……えっと、アイツって、あんな頭だったっけ? 前に会ったときは、もうちょっと髪があったような気がするんだけど」
「ああ……アイツ、実家が大寺院だからな。思うところがあって、剃髪したらしいな。詳しい事情は知らないが」
「へぇ、今、流行りの僧職系男子ってヤツだ」
「そんな抹香臭いものが流行ってたまるか」
――などと、下らない遣り取りを続ける二人に向かって、当の本人が近づいてくる。今の会話が聞こえたのだろうか。聞かれてマズい程、実のある話はしていない筈だが。
「まだ何か用か?」
冷静を装って、人形は聞く。
「いや、お前への用はさっき済んだ。そうではなく――お前、十組の、アオイだよな?」
「……そうだけど?」
善光の質問に、少し怪訝そうな顔をしている。用件の想像がつかないのだろう。
「なら、ちょうどよかった。三年二組のオツ先輩が、探していたぞ。行ってやったらどうだ」
「三年二組? その辺りなら、ついさっき行ったばかりだけど……」
「なら、すれ違いになったんだろう。いずれにせよ、少し急いだ方がいい」
無表情のままで、善光は続ける。
「オツ先輩――随分と、怒っていたみたいだから」
訳が分からず、思わず顔を見合わせてしまう二人だった。
「あれ、今いたのって――十組のアオイ君だよね? 何かあった?」
奴が立ち去った後で、入れ替わりに伊那みすずが近付いてくる。
「いや、何でもない。ただの冷やかしだ。お前こそ、どうしたんだ。まだ交代の時間には早いと思うが」
「いや、友達が来たから、その娘のために作った特製おやきをあげようと思ったんだけど――ねえ、ここの袋に入ってたおやき、知らない?」
「そこの袋に入ってたのは、俺のだろう」
「違うよ。ヒトナリ君のは、こっちでしょう?」
言いながら、少し離れた所に置いてあった、よく似た袋を取り上げるみすず。確かに、人形のおやきは、そっちの袋だった。
「……悪い。さっき、アオイにやってしまった。友達には、俺のおやきを持って行ってくれ」
「えぇ!?」
素直に謝る人形に対して、みすずは予想以上の反応を見せる。
「どうかしたのか?」
「えっと、それ、マズいよ。特製のおやきって言ったでしょう? 私の友達、ちょっと変わってて、変わったモノが欲しいって言うから――それで特別に作ったものなのよ。アンコとか野沢菜とか、普通の中身じゃないの。急いで、アオイ君探さなきゃ……」
「中身は、何なんだ」
「……ザザ虫」
廊下の奥から、誰かの悲鳴が聞こえた気がした。




