第五章・W その2
十月二十一日(金)午後三時十分
裏山の高台
思い出す光景がある。
言うまでもない――林間学校でのことだ。
林間学校。
その最終日――ちょうど、一ヶ月前のことだ。
そこで全てが終わり、
そこで全てが始まった。
もうすぐ、全ては終焉を迎える。
今日になるか明日になるか、それは分からない。どちらでもいい。早く終わりにしてほしい。
全てが終わり、全てを忘れて、やっと――日常を取り戻せる。
そのために、今まで我慢してきたのだから。
――それなのに。
サイコは項垂れる。膝を抱えて座っていたので、そのまま丸い姿勢になる。丸くなったまま、サイコは苦い息を吐く。
――最後の最後で、あんな失敗するなんて――。
話は、ほんの数十分前に遡る。
休憩を終えたサイコは、再び女神像ホールへと戻ってきていた。
七組には行ったが、教室前部分を占拠する巨大オブジェに圧倒されるだけで、帰ってきてしまった。
六組のヒトナリと目が合ったからだ。
どういう訳か知らないが、あの男も今回の件を探っているらしい。サエとの協定もあるし、少なくとも文化祭の間は何もしないとは思うけど――顔を合わせたくない相手であることには違いない。
結局、自分の所の出し物である餃子をつまんで、サイコはかなり遅めの昼食を済ませたのだった。
女神像ホールは、盛り上がっていた。
かなりの盛況ぶりである。初日は不慣れな部分が多く、皆てんてこ舞いだったが、二日目ともなればある程度慣れてくる。グループ内の役割分担、効率化も上手い具合に機能し、提供する商品もまずまずの評判で、モチベーションが下がることもない。
服装は、皆バラバラだ。制服のブレザーを着ている者、学校指定のジャージを着ている者、Tシャツなどの動きやすい服装をしている者、法被に鉢巻きという、気合い充分な格好をしている者――本当に、バラバラ。
ただ共通しているのは――皆、腕章をしていないという点だ。
元々していない人間はもちろん、この一ヶ月間、休日含めてほとんどずっとしていた腕章だが、さすがに今は外している。高校の文化祭とは言え、祭りは祭りだ。
ハレの場にケガレを持ち込んではならない、ということか。
ずっと腕章をしていた人間は、それを外したことで一回りか二回り、躰が小さくなったように見える。……否、『見える』のではなく、実際にそうなのだが。
アオイとハルカは、特にそれが顕著である。
アオイなどは腕章を外してもそこそこの大男だが――ハルカの方は、腕章を取り外したことで、随分と小柄になった印象である。それでも、サイコよりは背が高いのだけれど。
思い思いの格好をしたクラスメイトたちは、各々の持ち場で各々の職務を果たし、各々の出し物を盛り上げている。
中でも一番人気を誇っているのが、レイの仕切る焼きそば屋である。異様にコシのある独特の麺に、肉かす、キャベツなどの具を入れ、仕上げにイワシの削り粉をふりかけるのがその特徴。これは訪れる客の多くから絶賛を受け、常に長蛇の列が出来ている。いつもは相棒であるセイシの影に隠れがちなレイだが、今回ばかりは自分が主役とばかりに張り切っている。Tシャツ姿で頭にタオルを巻き、汗をかきながらコテを振り回すその姿は、間違いなく輝いていた。
横ではセイシが全面サポート。裏ではタカシとキンが、接客ではナメリ、ガンの二人が頑張っている。
少し離れた所では、サハリがサイドメニューの水餃子を作っている。あまり強く自己主張することはないが、彼女もハルカに負けず劣らずの餃子好きなのである。モロヘイヤを練り込んだ特製水餃子で、集客に一役買っている。
いつもマイペースなオミナリは何処に行ったのだろう――と、その姿を探すと、彼は屋台の裏で、七輪を使ってアジの干物を焼いているところだった。サイドメニューにでもするつもりなのだろう。今回も、彼はマイペースだ。
特製コロッケを提供しているのはマサヤスグループである。まだ休憩を回している最中なのか、イズミ、ミナト、オウヨウ、アカリの姿が見当たらない。しかし、このグループは人数が多いので、のんびりとしながらも、着実に売り上げを伸ばしている。彼らの作るコロッケは外はサクサク、中はシットリしているのが特徴で、それはマサヤスの家でとれたメークインを使用しているためである。しかし、材料以外にはさしたる縛りもなく、自由度、汎用性が極めて高い。各々が、好きな具材を入れ、好きな形に形成して、思い思いのコロッケを作っている。桜エビコロッケ、まぐろコロッケ、お茶コロッケなどなど、何でもアリである。マサヤスを中心に、今はヨウコ、ナギ、ピィ、アズマ、サクラが自分のペースで、だけど真剣にコロッケ制作を続けている。ナミとアキラは接客係だ。
フギャア、なんていうとんでもない奇声に目を向けると、ナミが目を白黒させて牛乳を流し込んでいるところだった。どうやら、変わり種の一つである、わさびコロッケなるものを間違えてつまみ食いしてしまったらしい。わさびコロッケの制作者はヨウコだ。ナミが悶絶する横で、ナギと一緒になってクスクスと笑っている。何だか、黒い。
――しかし、ヨウコもナギも、かなりクラスに溶け込んでいるようだ。一時はどうなることかと思ったけど……今や、彼女たちも立派に十組のメンバーである。
アオイグループはおでん――なのだけど、ここはここで、何やら混沌としている。まず、屋台の後ろには巨大なモビルスーツがそびえている訳で、もうその時点でインパクト大である。メインになるのは黒いスープと黒いはんぺんが特徴の、アオイ特製おでん。魚粉をかけて食べるとより美味しく頂ける。中央にいるアオイはおでんダネ制作に真剣に取り組んでいて、それをフミガネとソテツの二人が手伝っている。それはいいのだが――その周囲はかなりカオスなことになっている。
まず、漁師の息子・コウは、アオイの提供するおでんとは別に、自分オリジナルのおでんを作って売っている。黒はんぺんに加え、ナルト、カツオの心臓などを黒いスープで煮込んでいるのである。前の二つはともかく、カツオの心臓――カツオのへそ、とも言うらしい――などは、他に例がないのではないだろうか。アオイのそれほどではないが、こちらもかなりの高評価である。
アオイとコウ、二つの特製おでんに舌鼓を打つ客たちに、お茶を淹れて回っているのは、実家がお茶農家であるダイチである。自慢の深蒸し茶はこれまた好評で、持参した茶器はフル回転である。
また、リンは屋台の横にSLの鉄道模型を走らせている。
このダイチとリンの二人も、ヨウコ、ナギと同じ部類の人間なのだが、その立ち振る舞いに違和感はない。彼らもまた、完璧に十組の一員となっている。
そして、手持ち無沙汰なのか、サッカー部のタイシは、得意のリフティングで観客を沸かせている。
自由か。
作戦名『いろいろやろうぜ』か。
まあ、アオイグループらしいと言えばそうなのだけど。
さて、アオイグループが『いろいろやろうぜ』なら、ハルカグループは『ガンガンいこうぜ』といったところだろうか。普段からアグレッシブで行動力のある彼女だが、祭りになるとそれが更に二割増しになる。彼女は、自他共に認めるお祭り人間なのだ。触れたら火傷しそうな紅蓮のオーラを漲らせ、自慢のお手製餃子を焼きまくっている。その迫力に圧倒されてか、他のグループに比べると自由な行動をとっている人間は少ない。会議の時はサボっていなかったトシヒロも、同じサッカー部のタイシとは違い、熱心に下ごしらえを手伝っている。マコイ、サヤカ、ジロウの三人も、それは同様だ。下ごしらえから調理、接客から片付けに至るまで、全て完璧に役割分担がなされていて、隙がない。
一人、サキだけが屋台に接続された発電機の前から動かない。彼女は、電力供給を担う発電機の管理・調整が仕事なのだ。時折、発電機をいじりながら首を傾げているのが気に掛かるが。
また、ホウタは餃子制作ラインから外れ、横の方で何やら作業している。彼は、サイドメニューの調理が担当である。彼の実家はメロン農家で、サイコは最初、そのメロンを提供してくれるのかと思っていたのだが――さすがに高校の文化祭に高級メロンを出す訳にはいかないらしい。当然だが。
「卵っかなー、ケーキっかなー」
などと、どこかで聞いたような歌を口ずさみながら、上機嫌で卵を溶かしているホウタ。その歌は絶対に違うと思うが。
彼が作っているのは――何と表現したらいいのだろう。
だし汁に溶き卵を流し、蒸らして、メレンゲ状になったそれに青のりを乗せた食べ物である。フワフワしていて、見た目も食感も楽しい――のだけど、これは、本当に何なのだろう?
取り敢えず名前でも、とホウタに聞いてみたら、『たまごふわふわ』なのだとう言う。そのまんまだ。他にいいネーミングも思い浮かばないが。
サイドメニューはこれで終わりではない。何と、これにハルカ特製のパイまで加わるのである。彼女の焼くパイは絶品で、クラス内外にファンも多い。ある特殊なエキスが練り込まれているとかで、食べると元気になる――と言われている。
餃子もふわふわもパイも好評。
グループは大忙しである。
もちろん、サイコとてボーっと皆の動きを観察していた訳ではない。トシヒロやマコイと共に、調理を熱心に手伝っていた。
「サっちゃん!」
焼き終わった餃子を紙皿に円形に並べながら、ハルカが叫ぶ。
「もう少しで、もやしが終わりそうだわ! もやしのない餃子なんぶしょったいでさ、悪いけど、ちゃっと教室まで、もやし取りに行ってくれん!?」
相変わらずの早口である。ハルカの提供する餃子は、付け合わせにもやしが付くのが定番となっている。そしてその在庫は全て十組の教室に置いてきてある。サイコは自分の作業をマコイたちに任せ、フットワーク軽く駆けだしたのだった。
何も出し物をしてないのだから当然だが、十組の教室前には
ほとんど人の気配というものがなかった。サイコはひどく久しぶりな気持ちで十組の扉を開き――そして、それを閉めた。
彼女が自分の過ちに気付いたのは、ハルカの机からもやしパックを取り上げた、その瞬間だった。
――しまった。
パックを引ったくるようにして胸に抱き、教室の扉に向かって駆け出す――が。
ィ――ィィィィ――ン。
突然の耳鳴りに、たたらを踏む。
目眩と頭痛。こめかみを押さえ、その場に座り込むサイコ。
――しまった。
――失敗した。
――しくじった。
震える足で立ち上がり、何とか扉を目指そうとする。
しかし。
「サっちゃん、どうしただ?」
すぐ背後から、声をかけられる。
「具合悪いだか。みかんでも食べるけ?」
特徴的なシニヨン頭。ミカだ。穏やかな笑顔で、甘酸っぱい香り漂わせる温州ミカンを差し出している。
「朝飯喰ってねえだら」
さらにその後ろからは、テンが脳天気な言葉をかけてくる。
「駄目だに、サっちゃん。アンタ痩せとるだで、朝御飯はちゃんと食べんと」
テンの声にかぶせるように台詞を発したのは、マイである。その横ではユートが心配そうな顔でこちらを見ている。
悲壮な顔付きで、サイコは顔を上げる。
ミカの近くにはキガとイイヤが、扉の近くにはリュウ、ミドリ、アキ、ヤマカ、ハルノ、ミサが固まって座っている。
その向こうには、フジオ、タツヒロ、テンガ、タケル、ユキウラ、マサル、カイ、タケヒロ、マウイがそれぞれの席についているのが見える。
教室の中央部では、圧倒的存在感を誇る女子サッカー部のエース・ミホが、親友のユイ、ユミのコンビと共に談笑している。
イツナ、トモヤ、フジモ、タマたちも、当然のようにそこにいる。 教室の奥では、こちらに比べて少数ながらも、数人のクラスメイトたちが、そこに居て、固まって、笑いながら喋っている。
イナコ、ヘル、クンタ、アラリといった面子が、そうだ。
ノブヨシ、エツ、レント、チュウ、そして以前のナギ、アヤメ、ヒトシなどがいないのは、新しい人格が女神像ホールにいるせいだろう。ヒイチとテイ、以前のリンとセンがいないのも、同様の理由からだ。
つい数瞬前まで無人だった教室――今や、三〇人以上の人間がひしめきあっている。
――失敗した。
文化祭の間、腕章をつけていた人間はそれを外し、全てこの教室に保管している――そんなことは、知っていた筈なのに。
それなのに、サイコは扉を閉めてしまった。元々、気が付くか付かないかというレベルで、ほんの少しの隙間を開けて開いていた扉を、サイコは完全に閉めてしまったのである。つまりは、密閉空間の完成だ。密閉空間――今のこの教室では、それは『結界』を意味する。サイコは、この状況で結界を張ってしまった。
――失敗した。
未だ震える躰に鞭打ち、サイコは後ろも見ずに駆けだした。
どこをどう走ったかなど、覚えていない。
ただ、十組の教室に居たくなくて、十組の誰とも顔を合わせたくなくて、女神像ホールを避けるようにして、東校舎を疾走した。
途中、何か固い物にぶつかった気がする。
派手に何かが砕ける音と、そして「何すンだべーッ!」という怒声が聞こえたような気もする。
気のせいかもしれない。
どうでもいい。とにかく、サイコは逃げたかったのだ。
結果として、サイコは今、裏山の高台にいる。
ここからは全てが見渡せる――と言っても、学校の敷地はさらに小高い丘の上なのだが――サイコの住む家も、駅も、よく行く店も、そしてあの、峠の急カーブも――。
溜息しか出ない。
冷静に考えれば、さっきのは別に、失敗でも何でもない。ただ間違えて結界を張り、徒に彼らを登場させてしまった――それだけの話だ。ペナルティは何もない。
ただ、辛いだけだ。
悲しいだけだ。
嫌な――だけだ。
彼らの復活には、何の支障もない。
サイコはそう聞いている。ただ、クラス外の人間には、絶対に知られてはいけない。そのために、十組はこの一ヶ月間、頑張ってきたのだから。もうすぐ、終わる。
全ては、文化祭の終焉と共に――。
躰をさらに丸めて、膝に額をつける。足の間から覗く世界は、いつもと変わらない『日常』という仮面をかぶって、眼前に広がっている。
……どこかから、轟音が響いてくる。
バイクのエンジン音だ。
実家が整備工場のサイコにとっては、聞き慣れた音。どうやら、だんだんと近づいてきているような気がする。マシンの種類は何だろう――と思って、サイコは顔を上げる。そのサイコ目掛けて、黒いボディのバイクが、猛スピードで突進してくる。
「――――ッ!」
種類の確認どころではなかった。座ったまま腰を抜かし、座ったまま一メートルほど後退する。
バイクは、サイコが元々座っていた場所ギリギリの所で、派手に砂埃を巻き上げて急停車した。おかげでサイコは砂まみれだ。
黒いライダージャケットに身を包んだ運転手が、フルフェイスのヘルメットを外す。
風になびく、長い黒髪。
ハルカだった。
よく見れば、ライダージャケットの下から、法被が少しはみ出ている。急いで着込んだらしい。
「な、んな……」
『なんでここに』とか『もっと安全に停車できなかったのか』とか『バイク通学は禁止では』とか『そもそもいつ二輪免許をとったのか』とか、聞きたいことは山ほどあったのだけど、サイコの口から出たのは、意味をなさない文字列だけだった。
「探したに、サっちゃん」
その代わりに、ハルカが口を開く。若干急いた口調で、顔色も少しだけ悪い。
「もやし取りに行ったままおらんくなるで吃驚したじゃんか。こんなとこで何しとるよ」
「えっと……」
そう言われても、咄嗟には上手く説明できない。
「やいやい、まあいいわ。話は後でゆっくり聞くで。取り敢えず後ろに乗って。急がんといかんで」
――おいで。
言うが早いか、サイコの手を取り、力任せに後部座席に乗せられてしまう。どこからか取り出した予備のヘルメットを渡され、仕方なくそれを装着する。
「え、何かあったの……」
「アレが完了しただって」
これ以上ない程に簡略化された短い文言だったが、サイコにはそれで充分理解できた。
つまり、この一ヶ月間続けてきた儀式が、終了したということだ。
「詳しいことは行ってから話すで。……じゃあ、ちゃんと捕まっとってよ! 飛んでくに!」
言い終わる前にエンジンをふかしている。サイコはハルカの大きな背中にしがみつき、躰にかかる加速度に耐えた。
終わる。
予想よりは早かったけど、今日でようやく、全てが終わるのだ。
高台を降り、高速で山道を下り――そして、あの峠に出る。
そこには、今日も大量の花が供えられている。
思い出す光景がある。
ちょうど一ヶ月前――九月二十一日――林間学校、最終日。
十組の人間を乗せた送迎バス。
もうすぐで、目的地の学校に着くところだった、その矢先。
あの日、あの時、この場所で。
サイコたちの乗っていたバスは、カーブを曲がりきれずに崖から転落したのだった。




