第五章・E
十月二十一日(金)午後二時三十分
西校舎 三年七組教室外
――重い。
ユカは下を向いて歩いていた。
どうしてこんな風になってしまったんだろう。
躰が重い。
頭が重い。
心が重い。
ユカを構成する何もかもに、目に見えない負荷がかかっているかのようだった。
今日は、文化祭二日目。初日は色々と忙しくてほとんど自由になる時間もとれなかったのだけど、二日目にしてようやく、比較的長めの自由時間を得ることができた。それはイズミも同じで、せっかくだから二人で色々と見て回ろう、ということになったのだ。
場所は西校舎。
あまり馴染みのない場所である。三年生のユカでも、数える程しか訪れたことがない。しかし、学校発行のパンフレットを見る限り、面白そうな出し物が目白押しである。だからこそ、イズミと二人で、ここまで足を伸ばしたのだのだけど。
デート、と言っていいだろう。
この一ヶ月くらいは、今回の件やら文化祭の準備やらで忙しかったため、ろくにデートにも行けなかった。その穴埋めをすべく、二人寄り添って文化祭を満喫しようと思っていたのだが……。
どうにも、気持ちが沈む。こんなこと、今までなかった。多少、体調が悪くても、嫌なことがあって気が立っていても、イズミと二人きりでいる時は、それだけで気持ちが弾んでいた筈なのに。三年十組主催の漫才コンテストを見ても、三年七組が行った歌劇発表を見ても――両方とも、とても面白かったけれども――どうしても、気分が晴れない。
心が、重い。
重くて、黒くて、ドロドロとしている――そんな何かを、詰め込まれたみたいだ。表面上は、必死で作り笑いを浮かべて、誤魔化している。こんな気持ちでいるなんて、イズミに気取られたくない。それだけの理由で、ユカの顔と心は、どんどん乖離していく。だんだん、自分で自分をコントロールできなくなっている……。
「ねえねえ、これ面白そうだよ」
人懐っこい笑顔で、イズミがパンフレットを開く。その温かな声で、ユカはほんの少しだけ救われる。
「うん? どれ?」
「『舞妓喫茶 ぶぶづけ』だって。客に来てほしいのか、帰ってほしいのか、分からんよねー」
三年八組の出し物である。恐らく、彼らなりの冗談だとは思うのだが……。ユカも身を乗り出して、パンフレットを目で追ってみる。
「その斜向かいの、十一組のは、何? 『秘宝展示館』ってやつ」
「あー、ここ。……さっき前通ったら。壺やら仏像やら、千年以上前の『お宝』って言われる色んなモノを、各々が持ち寄って展示してるヤツじゃんか」
言われて思い出した。さっきチラっと覗いた時は、係の人間全員が居眠りしていたのだが――。
「と言うか、聞き流しそうになったけど、『お宝を各々が持ち寄って』って、何? そんな古いモノが、普通に家にあったりする訳?」
「あそこの人達はそうみたいだねー。普通に日用品として使ってた壺が一四〇〇年前のモノだったとか、けっこう普通にあるらしい」
素直に、凄いと思った。しかし、彼らはその凄さを分かっていない節がある。どう贔屓目に見ても、やる気があるようには見えなかったし……。
他にも、十二組のフルーツ喫茶や九組の釣り堀なども面白そうだったのだが――結局、二人は三年七組の教室から左に向かい西校舎二年エリアに進むことにした。
西校舎二年エリアは大きく二つに分断されていて、校舎の左半分が二年十一組から十五組、渡り廊下を渡った先の離れのような校舎に、残りの十六組から十九組までが収められている。
まず、二人は十四組でお好み焼きを食べ、少し遅めの昼食を済ませた。そこから、どう進もうか――声をかけられたのは、そう考えている時だった。
「あの、すみません」
「ちょっと、よろしいですか?」
男女の二人組である。見たところ、二年生のようだ。
男子の方はのっぺりとした顔に縁なしの眼鏡をかけていて、理知的な雰囲気。女子の方は、くりっとした目に、前歯二本だけが出ていて、何となくウサギを連想させる。
「あ、はい。何ですか?」
「あの、失礼ですけど、お二人って恋人同士とかですか?」
「これからどこへ行こうか、迷ってますよね?」
最初に男子、続いて女子が、交互に喋る。どうやら客引きのようだが――押しが、弱い。
「まあ、そうですけど」
「じゃあ、お化け屋敷なんてどうですか? がいに楽しいですよ」
オドオドと目を伏せながら、クラスの出し物をすすめる男子。
「お化け屋敷――か」
「どうする?」
イズミと顔を見合わせてしまう。別に行ってもいのだが、特別食指が動く訳でもない。微妙なところだった。
「それって、何組ですか?」
「あ、二年十一組と十二組の合同、です。受付は十一組ですけど」
またしても男子の方が、若干申し訳なさそうに、そう告げる。
しかし、二年十一組と言われても――
「えっと、どこだっけ……」
もちろん、大まかな位置は分かるが、具体的な場所と言われると心許ない。パンフレット巻末の校内見取り図を見ようとするユカだったが、それより早く、
「十二組の左です。十二組の左」
と、ウサギ顔の女子が、僅かばかり身を乗り出して言ってくる。
しかし。
「えっと、あの、その十二組の場所も、分からないんだけど……」
「くっ!」
言った側から、男子がその場に崩れ落ち、膝をついてしまう。
どうやら、ユカの言葉にひどく傷ついたらしい。女子の方も、膝こそ突いていないものの、完璧に項垂れてしまっている。
「あ、あの……ごめんなさい」
「いいんです……十一組では、よくある話だけん……。オレらのクラスがマイナーなのがいかんのじゃで……」
膝をついたままの姿勢で、男子の方が答える。
「ただ……」
「ただ?」
「一日の内に同じ台詞を五回も言われたけん……」
この上なく凹んでいる男子と項垂れたままの女子をそのままに、二人は慌ててその場を離れたのだった。
「何か悪いことしちゃったかな……」
「気に病むことないよ」
どこか軽い口調でイズミが答える。
「ユカちゃんで五人目ってことは、ユカちゃんの前に四人の人間が同じこと言ったってことだら? だったら、ユカちゃんだけの責任じゃない。と言うか、仮にそれがユカちゃん一人だったとしても、気に病む必要はないよ」
軽い口調で、しっかりとユカをフォローしてくれている。温かな声と、柔和な笑みと。……それに応えられないでいる自分が、とてつもなく情けなく感じる。精神的に上がったり下がったりを繰り返していると、いつの間にか二人は渡り廊下を抜けて、西校舎の南にある離れ校舎に到達していた。ここは、教室のある校舎の中では二番目に小さく、収納されているクラス数も、四クラスと少ない。
しかし、ここはここで、見るモノが数多くありそうだ。
「十六組がミカンジュースカフェで、十七組がうどんレストランか……さっき、お好み焼き喰ったばっかだしなー」
「他は?」
「一九組が、屋外で盆踊り大会だって。ほら、さっき窓から見えてたじゃん。もう、踊らにゃ損々って勢いで、凄い迫力だったアレ」
それはユカも見ている。男子は浴衣に手ぬぐい、女子は浴衣に編み笠という出で立ちで、「ヤットサーヤットサー」と雄壮に練り踊っていた。
「ああ、アレかぁ、確かにあれは凄かったね。じゃあ、十八組は?」
「えっと、十八は――」
と――パンフレットを捲るイズミの向こう、廊下の奥から、妙な人物が小走りでやってくるのが見えた。男性用の着物に身を包んだ少女である。顔立ち自体はすっきりとした和風美人なのだが、眉毛だけが異様に太い。長い黒髪を頭頂部で結い上げ、足下はブーツ、家紋の入った黒い着物を多少着崩して身に付けている。そんな人物が、キョロキョロと何かを探すような素振りを見せながら、こちらに向かって走っているのである。
「あ、ちょっと、かまんが?」
目が合い、声をかけられる。
「アンタら、ウチの委員長見んかったがや?」
「えっと……」
「あ、ウチってのは十八組ぜよ。二年十八組。委員長ってのは、こう、胸元を大きく開いた、ゴワゴワの頭したヤツなんやけど」
身振り手振りを交えて人相を紹介してくれているが、生憎と見かけていない。しかし、見ていない、とユカが言うより早く、別の方向から声がかけられる。
「ああ、アレ、オタクんとこの委員長だったんかい」
振り返ると、大きな箱を担いだ、やけに大柄な男が立っていた。「その男なら知ってるちゃ。何か、大きな紙袋抱えて、東校舎の奥の方に向かっていったがや」
「東校舎……ほがな遠いとこに……」
濃い眉毛を寄せ、黒い紋服の少女は思案気な表情を浮かべる。
「詳しくは知らんがやけど、何か、『裏メニュー制覇じゃき!』とか言って張り切っとったうぇ?」
「……あんの酒狂いがーッ!」
それだけ聞いて一瞬で理解したらしい。
まなじりを吊り上げ、腹の底から怒声を上げている。
「待っちょれよッ! 捕まえて、たたきにしちゃるきッ!」
言うが早いか、袴をたくし上げて彼女は何処かへと走り去ってしまう。何だか、パワフルな少女である。
「……何、アレ」
「十八組の人じゃない?」
呆れるユカに、のんびりと答えるイズミ。
「いや、それは分かるけど……って言うか、あの格好は、何?」
「これでしょ」
パンフレットを開いて、イズミは十八組の紹介ページを見せる。
そこに書かれた店名を見て、ユカはようやく合点がいく。
『幕末喫茶』
要するに、アレはあまりにも有名な幕末志士のコスプレだったらしい。……あの感じでは、夜明けはまだ遠そうだが。
一方、彼女に情報を提供した大柄な男は、二年三組の委員長で、名をソウガというらしい。校内を回って、お手製の健康ドリンクを売り歩いているのだとか。ユカたちも一杯どうかと言われたが、それは丁重にお断りしておいた。
「……何か、みんな色々とあるんだね……」
さらに場所は変わって、ユカたちは離れ校舎の更に奥にある、南校舎へと移動している。ラーメン屋に陶器市、ちゃんぽん屋に足湯、マンゴージュース売り場に馬刺し屋、黒豚しゃぶしゃぶの店など、とにかく活気がある中で、ユカは誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。
十一組と十二組の男女ペアや、十八組の幕末志士少女などとの邂逅を経ての、率直な感想である。
当たり前だが、ユカはユカの目を通した世界しか知らない。
ユカの認識したモノが世界の全てだと認識してすごしている。
もちろん、そんな訳はない。
様々な人間がいて、様々なドラマがある。そのほとんどを、ユカは認識せず、存在を想像することすらできないで、こうして生きている。そんな当たり前のことに、今まで気付けずにいたのである。
「そりゃそうだよー」
ユカの独白を受けて、イズミがのんびりと答える。
しかし、その目は笑ってなかった。
「それぞれに事情があって、それぞれに真実がある。全ては同時進行で、一方では主役の人間が片方では脇役で――俺もユカちゃんも、そんな中で生きている。片側だけから見たんじゃ、見えない部分もある。って言うか、見えない部分の方が多い。見えないってだけで、ソレは確実に存在しているのにね」
ドクン、と心臓が大きくバウンドした。何気なく語られたイズミの言葉――それは、間違いなく三日前の女神像ホールでの、ユカの発言に絡めたモノである。
ユカはイズミを見る。
イズミもユカを見ていた。
活気と喧噪で飽和した空間の中で、二人だけの時間が、止まる。
「あの日のユカちゃんの提案――関わりを持った人間の知っていること全てをすり合わせて、情報を共有しようってやつ。横で聞いてて、俺も感心してたんだ。ユカちゃん、いつもあんまり自己主張しないけど、ちゃんと考えてるんだなぁ、と思って」
だけどね――と、イズミは声のトーンを落とす。
「それは、無意味なんだよ。みんなが全てを知ったところで、結局は何の意味もない。だから、十組のみんなは揃って口を閉ざしてる」
「それは何故って――聞いてもいい?」
ドクドクと、全身の動脈が波打っている感覚。手は汗でじっとりと濡れ、口はカラカラに渇いている。イズミと話していて緊張するなんて、今までなかったことだ。ユカは今、ユカの知らないイズミの一面を見ているのかもしれない。
「全部、忘れちゃうからだよ」
至ってフラットな口調で、イズミはそう告げる。
「忘れるって――今回のことを? なんで? そんな訳――」
「各々の意思なんて関係ないよ。もう少ししたら、みんな全部忘れる。そういう風にされちゃうんだ」
「それは……あの、魔術師とか言うのが関係してるの?」
「それ以上は、今は言えない」
意識せず、奥歯を強く噛みしめていた。
「……そこまで話して、それはないんじゃない? やっぱり、文化祭が終わるまでは駄目ってこと? 私はイズミ君の彼女なのに、こんなに近くにいるのに――それでも、文化祭が終わるまでは大人しく待ってろって言うの? 私、これでも真剣に悩んでるんだよ? イズミ君にとって私って、何なの? 自分のクラスの秘密守るのが、そんなに大事なの?」
駄目だ。
どんどん鬱陶しい女になっていく。自覚できているのに、言葉が止まらない。垂れ流しの言葉は粘着質の棘を伴って、イズミを攻撃する。こんなの、本当は嫌なのに。こんなこと、言いたい訳じゃないのに。ユカの言葉を受けたイズミは、怒るでも悲しむでも笑って誤魔化すでもなく、ただ静かに――一回、頷く。
「……分かった。じゃあ、少し観点を変えてみようか」
「観点を変える?」
意味が分からなかった。
「そう。全部忘れちゃう――そう言ったよね。記憶操作は、今回の
件に関しての、一つの大きな要素なんだ。現に、ユカちゃんも一つ――たった一つだけ――とても大事なことを忘れさせられている。だからこそ、その後も強烈な違和感付きまとう。自分一人だけがパラレルワールドに迷い込んだような錯覚を起こす。ユカちゃんがそんな風になってると思わないから、誰も教えてくれないけどさ」
「やっぱり、それも教えてはもらえないんでしょ?」
「俺が今ここで言ったってしょうがないよ。ユカちゃんが思い出せないのなら、やっぱり無意味だ」
「どうやったら思い出せる? ヒントはないの?」
必死だった。この不安を解消できるのなら、自分は何でもする。
「ヒント、ね……」
遠い目をして、イズミは下唇を舐める。視線の先には、ラーメン屋台でとんこつラーメンをすする人々の姿。何でもない日常の風景が、今ではとてつもなく遠い世界の出来事に思える。
そして、イズミは意外なことを口にする。
「ユカちゃんって、バス通学だったよね?」
「え? う、うん。そうだけど……」
突然の話題転換に戸惑う。バス通学が何だと言うのか。
「だよね。じゃあさ、俺を含めて、それまでバス通学だった十組の連中全員が、一斉にバスで通うのを辞めてたこと、気付いてた?」
「――え?」
そうだったのか。
イズミが突然自転車通学に切り替えたことは、当然知っていた。マサヤスのグループが、全員自転車でイズミの家に集合していたのも、この目で見ている。イズミの家は坂の上にあるし、バス停のすぐ近くだから、バスで向かった方が絶対に楽なのに――そんな風に思った記憶がある。
しかし、十組全員、というのは初耳だ。
と言うか、そんなの知っている筈がない。
「今気付いたって顔だね。じゃあさ――この学校、丘の上に立ってるけど、その途中に峠の急カーブがあるよね? そこに沢山の花が供えられているの、見た事ある?」
確かに、そんなのがあった。見た記憶がある。しかし、それが何だと言うのか。
「もう一つ――俺はしてないし、文化祭の開催期間中はみんな外してるけど――この一ヶ月間、十組の半数くらいの人間が、左腕に腕章してるのには、さすがに気付いてたら?」
「それは、まあ……」
「その意味、考えたことある?」
「意味?」
「思考停止しちゃ駄目だに。左腕に黒い腕章をするのって、普通、どんな意味があるよ」
バス通学の停止。
カーブに供えられた花。
左腕の黒い腕章。
ィ――ィィィィ――ン。
耳鳴りがする。脳が痺れる。嗚呼。多分。嘘。そんな。
いや――間違いない。
脳内を覆う霧が、徐々に晴れていく。
と同時に、ユカを支配していたいくつかの謎が、簡単に瓦解していくのを感じてしまう。
そうか。
彼は。
彼女は。
もう――。
「……気付いた、みたいだね」
イズミの声が、少し遠いところから聞こえてくる。
「それ自体は不幸な事故で、ユカちゃんが今の今までそれを忘れさせられていたことも、また、不幸な事故だ。だけど、それ以外は、全て人の意思で行われたことだ。その意思を邪魔することなんてできない。文化祭終了までは、静かにしておいてほしいだよ……」
頭が痺れる。心が痛む。せっかく、晴れたと思ったのに。
世界の全てが、靄に覆われたようだった。
靄の向こうで、イズミが携帯を取り出している。
メールが着信したらしい。
サッ――と、イズミの顔色が変わる。
嗚呼、まだ何かあるんだ……。
痺れる頭で考えられたのは、それだけだった。




